幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

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今宵もリッチな夜でした

その19

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 窓から西日の差し込む中、教室は今日も暖かだった。
 午後の授業には忍び寄る眠気と倦怠感の影が付き物であったが、それらを穏やかに、かつ毅然と打ち払うように、教室内に広がる声は朗らかでわずかな淀みも無かったのである。
「さて、自動詞と他動詞の違いは、このように目的語及び前置詞を必要とするかどうかという点に集約される。たとえば、『My sister married him.』とした場合、『marry』という動詞には単純に結婚したかどうかだけでなく、『ふーん、で誰と?』、という暗黙のツッコミのようなものが差し挟まれる。なので、この単語は常に目的語を必要とするし、だからこそtoやwithのような前置詞を付ける必要は無くなるんだ。そんなものをわざわざ付けるまでもない、という事だね」
 いつも通り黒板に流麗な字体で例文を書きながら、司が生徒達へと説明して聞かせた。
 教室内の一同もまた普段と変わらず、丁寧な説明を受けてはノートに要点を書き写し、差し込まれる解説に耳を傾けるのであった。
「しかし結局の所、この自動詞と他動詞という奴は、単語だけを見つめて見分ける事は不可能なんだ。身も蓋も無い話だが、自動詞を前置詞ごと憶えて行くしか無いんだね。agree withやget to、reply toのようにね。この辺りはひたすら慣れだよ。出来る事なら、こうした授業以外でも英文に触れておく事が必要なんだ。洋楽の歌詞を眺めてみるのもいいだろうし、何なら動画サイトのコメント欄を流し見てもいい。もっともああいう所に書き込まれた英文は砕けた言い回しをしている事が多いから、少しでも不自然に感じたらその都度きちんと調べてみる事だ。何事も楽をしてはいけないという事だね」
 司がそう締め括ると、教室内には苦笑が漏れた。
 丁度ちょうどその時チャイムが鳴って、司は終了を宣言する。
「では今日はここまで。中間テストも近いので、各自復習はよくやっておくように」
 そうして号令が掛けられた後、司は教室を後にした。
 周囲がにわかにざわつく中、美香は机の上に広げた教科書や辞書をして面白くもなさそうに仕舞しまい始める。
 その美香の後ろから、昭乃と顕子の二人がいつもと変わらず近付いて来たのであった。
「よっ、何か元気無さそうじゃん?」
「ああ……や、そんな事無いって」
 顕子の遣した言葉を美香は笑顔で否定した。
 少し遅れて、昭乃もいささか心配そうにのぞき込む。
「いやいや、実際シケたつらしてるって。昼休みも何かぼーっとしてたし、どうかした? 昨晩送った都市伝説がいてるとか?」
「いや、違うけど……」
 笑顔を引きらせながらも、美香はどうにか否定した。
 その美香へ、顕子が横合いから流し目を送る。
「なーんかさ、ここんとこ心ここに在らずって感じだね、あんた」
「そ、そうかな? それはほら、ツッキーも言ってたみたいに中間テストも近いんだし、緊張してるって証拠で……」
「ああ、成程なるほどねぇ。取り分け化学のテストの事で、もう頭が一杯だと」
「そ、そうそう。それだね。やだな、もう、折角考えないようにしてたのに……」
 昭乃が差し込んだ指摘に、美香は苦笑して見せた。
 化学、という単語が出て来た瞬間、美香は表情を思わず固めていたのだが、幸いにして友人二人には察せられなかったようである。
 昭乃の後を受けるようにして、顕子が実に意地の悪い笑みを浮かべる。
「そーか、そーか、それでか……そうだよねぇ。周期表を憶え直したり何なり、頭抱えたい事が一杯あるもんねぇ」
「だーから、やめてってば、もう!」
 美香は眉根を寄せて悲鳴を上げた。
 それを見た昭乃と顕子もそろって笑う。
 風に煽られて、カーテンがふわりと舞い上がった。
 他愛のない談笑の声が、午後の教室に木霊した。

 そしてその日もまたいつもの通り、何でもない放課後が訪れたのであった。
 課外活動の無い生徒達がぞろぞろと校門から出て行く中、美香達三人もまた人の流れに従った。学校の校門を出た学生達の人波は、程無く駅前の商店街の人だかりと合流して更に大きな流れと化した。
 その中を他と同じく歩きながら、顕子が不満げに口を開く。
「しっかし、今一面白みに欠けんだよねぇ……」
 そう言って溜息をついた相手を、隣を歩く昭乃が冷やかす。
「何、物騒な事言って? ここらで火事でも起こりゃいいっての?」
「や、そうは言わないけどさ、たまには何かこう、びっくりするような事件とか起こってもいいと思わない? 毎日毎日行って帰っての繰り返しでさ」
「んじゃ、ヤクザの借金取りに人違いで追い掛け回されてみれば?」
「あ、そーゆーのはパス」
 顕子が片手を振って即答すると、昭乃は鼻息をついた。
「ま、月並みだけど、平和が一番じゃないの。おかしな騒ぎなんか最初から起きないに越した事は無いって。ねぇ?」
「え?……ああ、そうだね、うん……」
 横から昭乃に促され、美香は慌てて相槌を打った。
 歩道の端を歩いていた美香の横手を、その時、パトカーが静かに通り過ぎた。
 四日前に起きた校門前での襲撃以来、少なくとも学校近辺の様子は平静そのものであった。通りを巡回するパトカーの台数が以前と比べて増えている印象は確かにあったが、だからと言って、否、だからこそであるのか、あれ以降目立った事件は未だ起こらずにいるのである。
 ただし、自分を取り巻くその辺りの空気が、美香にはどうにも釈然としないのであった。
 一切が平静であるのではなく、平静となるよう見えぬ所から圧力が絶えず加えられている。
 校内の様相にしても、それは同じであった。
 リウドルフにせよ司にせよ、わずか数日前の出来事を、初めから何も起こらなかったかのように振る舞っている。彼らが一般生活を送る上でそれは当然の対応ではあるのだろうが、期せずして事態の真相の一端を知る運びとなった美香にとっては、両者のそうした涼しげな態度がかんさわるとまでは行かぬまでも何処か意識に引っ掛かるのであった。
 大勢の生徒が日々ひしめく校内で事実を知っているのは、もしや自分一人だけなのではないのだろうか。
 そうした所から来る不安と孤立感が、少女の心に微妙な影を落としていたのである。
 いっそ今ここで、この二人に全てを打ち明けてみようか。
 美香はこれまでも幾度か思い立った事を、今また反芻はんすうするように胸の奥に湧き上がらせていた。
 だが、そうした決意が一体何に結び付くと言うのだろう。
 たとえ今この場で冗談交じりに告げたとしても、自分達の通う学校に何百年も昔から活動している魔法使いだか学者だかがおり、教師として平然と通勤しているなどという与太話など即座に一笑に付されるのが目に見えている。
 正に何の進展にも結び付かぬではないか。
 結局の所、突飛な事実という奴程扱い難い代物は無いのである。
 隣を歩く友人達の他愛の無いお喋りを聞き流しつつ、美香は一人、何とも晴れない胸の内を抱えていたのだった。
 夕時の商店街は、益々ますます人で混み合うようになった。
 そしてそこを抜け、駅前の大きな交差点まで出た時、美香達の耳に折り重なるようにして鳴り響く複数のサイレンの音が聞こえて来た。
「何? 火事かな?」
「ほら、あんたがさっき不穏な事言ったから……」
 顕子と昭乃がそれぞれに顔を見合わせる横で、美香は遠方に目を凝らす。
 交差点の遠く向こう、駅舎の陰に広がる歓楽街の方からサイレンの音は流れて来た。
 ただし、紺色に染まり始めた空に黒煙が立ち昇っている訳でもなく、詳細を察する事は難しい。
 あちらでリウドルフがまたおかしな男達に追い回されているのでなければよいが、と美香は一瞬悩み、次いでそんな事に気を回している自分の有様に気付いて、何やら少しばかり腹が立って来たのだった。
 と、その時、美香の左腕に何かがぶつかった。
 かたわらでお喋りを続ける昭乃と顕子を他所よそに、美香が眼差しを下ろしてみれば、交差点で信号を待つ人だかりの只中に小さな男の子が立っていた。
 栗色の髪を持つ、年齢にすれば十歳に届くか届かぬかと言った辺りの背格好の少年である。
「あ、ごめ……」
 咄嗟とっさに詫びの言葉を口にした美香は、しかし相手の面立ちを詳しく認めて途中で声を途切れさせた。
 白い、透けるように白い肌を持った、外国出身と一目で判る容貌の少年であった。
 その異国の少年は紺碧の双眸そうぼうを、困惑気味に自身を見下ろす美香へと向けておもむろに笑い掛けたのであった。
今晩はトーブリービーチャお姉さんモイライ・リディ
 流暢な異国の言葉が少年の口から流れ出た。
 少年期特有の甲高い声であった。
 驚きの表情を浮かべた美香の見下ろす先で、その少年は美香達の横を平然と擦り抜け、交差点に背を向けて商店街の方へと歩いて行く。空には夜の闇が刻々とにじみ、辺りに林立する様々な商店が店先のネオンを灯し始めた頃の事であった。
「……あれ? どうかしたの?」
 信号が青に変わったというのに人込みの只中で立ち止まり、元来た道をかえりみている美香の様子に気付いた昭乃が数歩先の横断歩道から呼び掛けた。
「あ、ううん……何でもない」
 言って、美香は早足に友人達の下へと急いだ。
「何? 誰か、いい男でも擦れ違った?」
「や、そうじゃないけど……」
 顕子の遣した冷やかしに首を左右に振りつつ、美香は今一度肩越しに背後を確認する。
 帰宅途中、あるいは買い物の途中の人々の雑然とした流れが、少女の後ろには広がるのみである。
 あの小さな人影は、最早何処にも見当たらなかった。
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