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今宵もリッチな夜でした
その17
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熱を失い始めた紅茶を一口啜り、美香はテーブルの前で他の席の様子をそれとなく窺った。
窓辺の本棚の上に置かれた時計が、午後八時を回った時刻を指し示していた。
テーブルの向かいの席には今や骨ばかりの姿となったリウドルフが腰掛け、その丁度中間にアレグラが新たに席に付いていた。
そのアレグラは卓上に置いた袋から芋けんぴを取り出して、徐に口に咥えた。
「へえ~、そんな事があったんだ~」
「だから迎えの電話を遣したんだ」
一方のリウドルフは表情の一切読み取れない髑髏の顔を蛍光灯の光に晒し、疲れたような口調で言った。
「市街のど真ん中で頭なんぞ撃たれたのはサラエヴォ以来だが、遠く離れた島国まで来て一体何の因果でこんな目に遭わなきゃならんのだ……」
「それこそ因果応報って奴じゃな~い? 好むと好まざるとに係わらず、うちらのネームバリューだけは拡散の一途を辿ってるみたいだし~。いつもの事って言っちゃやそれまでかも知んないし~」
口に芋けんぴを咥えたまま両手で頬杖を付いた姿勢で、アレグラは瞳だけをリウドルフへと向ける。
「けど、今回はまた面倒なのに目ェ付けられたのかもね~。相手の頭数が判ってみないと何とも言えないけど」
「今の所、向こうの手札が軍人崩れまでで止まっているのが救いと言えば救いか……今のままなら、国内外のお役人連中がきちんとした対処をしてくれれば封じ込めるのは容易いだろう。既に何人か身柄を抑えてもあるのだし」
椅子に少し寄り掛かり、リウドルフは天井を見上げる。剥き出しとなった眼窩の奥に蒼白い光がぽつりと浮かび、細かに物憂げに揺らめいた。
そうして数秒も宙を眺めた後、リウドルフは緩やかに顔を戻すと向かいの席に座る美香を見遣った。それと一緒に、眼窩の内に灯った蒼白い光が今度はゆらゆらと蠢く。
「なので、今夜の所はそこの出しゃばりを家に送り届ければ一件落着となる筈だ。どうせ明日には警察や公安が本格的に捜査に乗り出すだろう。そういう手配が今頃なされてる筈だ」
「あ~、またいつもの彼氏さんのお手並で……」
と相槌を打った所で、アレグラは横で肩を狭めている美香の様子をちらと眺め、次いで一笑したのだった。
「あらら、まーた硬くなってる……って無理も無いか。こんな怖い顔のが正面に陣取ってちゃねぇ~……」
「あ、いえ……」
顔を上げた美香の前で、リウドルフの眼窩に灯った光がまた揺らめく。
「悪かったな、怖い顔で。だが、誰だって自分の家では素顔でくつろぐ権利があるだろ。メイクも長時間続けると煩わしくなるんだ。何て言うか、体の表面が段々むず痒くなって来る」
「……敏感肌、なんですか?」
「皮膚無いけどね~」
美香が真顔で呟いた後を、アレグラが茶化すように補足した。
その後、アレグラは芋けんぴの端をかじりつつ、席からやおら腰を上げた。
「ちょっと待っててよ。このままじゃ話も弾まないから。確か去年の復活祭で使ったのが、どっかにあった筈……」
言いながら、彼女はリビングの奥へと一人向かったのであった。
何やら取り残された様子で、美香は所在無さげに紅茶を啜った。
「何を始める気だ……」
その彼女の前でつまらなそうに呟いた後、リウドルフは闇色の衣の内からタブレット端末を取り出すと、卓上にそれを置いて画面を操作し始める。
「さて、今日のNZZ(※ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング。新チューリッヒ新聞。スイスのチューリッヒに本社を置くドイツ語新聞)は配信されたか……」
独語しながら自分のすぐ目の前で最新の電子機器を弄る生ける屍の姿を、美香は驚きと恐れと僅かばかりの呆気が混ざった眼差しを以って捉えていた。
その有様を暫し観察した末、美香はおずおずと口を開く。
「……その、こういう事訊くのも、もしかして凄く失礼かも知れないですけど……」
「ん?」
反応は覗かせつつも、依然タブレットに顔を向けたままでいるリウドルフへ、美香は予てからの疑問をぶつける。
「先生は、どうしてそんな姿になったんですか? その、死なない体に?」
相手の顔をなるべく直視しないよう目を逸らして、しかし顔だけは正面へと据えて、美香は多少余所余所しい口調で訊ねた。質問としてそれは些か不躾ではあったのだろうが、不安や恐怖を軽減する為には事実を正確に把握しておく必要がある事を美香は知っていたし、その為に最大限の努力を尽くそうとしたのである。
キッチンの奥の方で、蛇口の先から滴り落ちた水滴がシンクに撥ね返って硬い音を立てた。
然るに少女の振り絞った精一杯の勇気は、直後、相手の素気無い一言で塵芥の如く掃き捨てられるのであった。
「どうしてって、別に……気が付いたら、こうなっていた」
「気が付いたら!?」
タブレットの画面をフリックしながらてんで気の無い返事を遣した不死者へ、対照的に美香は内心の動揺を露呈させた。
椅子から腰を半ば浮かせて、美香は至って泰然と構えるリウドルフへ訴え掛ける。
「や、気が付いたらって事は無いでしょ、流石に? 自然とそんな状態になる訳無いんだし……もっとこう、太古の悪魔に呪いを掛けられたとか、地獄の支配者の口車に乗せられて契約を結んだとか、悪の秘密結社に無理矢理改造されたとか……」
「いや、別に」
相手の並べた推論の数々を平然と全否定すると、リウドルフは緩やかに髑髏の顔を上げたのだった。
「ま、今から五百年近く前になるが、滞在先の居酒屋で一杯やってたら急に意識が遠退いて、気が付いたら棺桶に入れられて埋葬されていた。そこから這い出してみたらこの有様だ」
「……何それ……?」
だらしなく口を開けた美香の向かいで、リウドルフはふと宙を仰いで述懐する。
「毒を盛られたって線も否定はし切れないんだが、それより何より、俺は以前から手製の薬剤を自分の体を使って色々と試してたからなぁ……それこそ今の常識からすると、ぞっとするような配合の危ない治験薬まで色々と。結局その辺りの長年の蓄積と言うか、怪しい薬効や副作用が積もり積もって一時に発現したと……考えられるのはそれぐらいか。今で言う『シナジー効果』って奴だ」
椅子から立ち上がった所で、美香は完全に言葉を失っていた。
「再現性が無いから科学的ではないし、奇跡と呼ぶには間が抜けてる。詰まる所はものの弾み、全くの偶然の産物だったんだろう」
他ならぬ自分の身に起きた出来事を平然と評したリウドルフを、美香は緊張感の転がり落ちた顔付で眺めていたが、それでもややあってから問いを重ねる。
「……で、でも、大変だったんじゃないんですか? 突然そんな体に変わっちゃって……」
「そりゃまあ最初は面食らったが……」
リウドルフは右手を持ち上げて、その指先へと向けて視線を這わせて行く。肉も皮も、それどころか一切の生気も抜け落ち、それでいて空間に焼け付くようにして確かに存在する黒い骨と化した己が肉体を。
眼窩に灯った蒼白い光が、ちらと揺らめいた。
「ただ、何事も慣れだからなぁ……初めて鏡を見た時には確かにびっくりしたが、人間の骨格ってこうなってたんだぁ、とか感心したりして割とすぐに慣れた」
「……慣れないでよ、後生だから……」
頬を引き攣らせて、美香は思わず呟いた。
「だって当時は解剖なんか滅多に出来ない御時世だったんだぞ。自分の骨格を参考にして人の骨折の治療に役立てた事もあったし、そういう意味でも貴重な体験になった」
さながらオーダーミスで運ばれて来た料理が意外に美味しかった体験でも聞かせるかのように、リウドルフはむしろ得意げに語ってのけたのであった。
「ど……」
一方の美香は疲れたような呆れたような顔をひたぶるに浮かべ、すっかり脱力した体で椅子へと座り直した。
「……どういうんだか……」
気落ちした声を、少女は歯垣の隙間から漏らしていた。
その形相を除いたとしても自分には決して慣れる事の出来そうにない相手へ、その時、後ろからアレグラが近付いて来た。
「はーい、お待ちどう様~。これでちっとはましになるかな~?」
言いながら、アレグラは小脇に抱えて来た楕円形のマスクをリウドルフの頭にすっぽりと被せる。ハロウィンでよく使われる、プラスチック製のカボチャ大王のマスクであった。
「こら、いきなり何すんだ!?」
憤った拍子に眼窩の光が強さを増したのか、カボチャの仮面が内側からぼうっと光り出した。
その様子を指して、アレグラはけらけらと笑った。
「あ~、やっぱその格好、よく似合うね~。去年もそれで商店街のパレードに参加して割とウケてたし、どっかの御当地ヒーローの悪役としてエキストラ出演してみるってのもアリかもよ」
「誰が悪役だ……せめて憎まれ口を叩きながら主役を陰から支えるダークヒーローにしろ」
そうぼやきつつもカボチャの仮面は取ろうとせず、リウドルフは椅子の上で姿勢を戻した。
「……とまあ、そういう次第だから、この世にはそうそう突拍子も無い出来事やとんでもない事件は起こらないって事だ。出歯亀したってつまらないって言ったろ?」
「……いえ、充分とんでもないです……あなたの性格を含めて」
カップに残った紅茶を飲み干してから、美香は疲れた口調で結論付けたのだった。
他方、カボチャ大王と化したリウドルフは、アレグラの方へ首を巡らせる。
「ま、お喋りはこの辺までにしよう。一服付けた事だし、アレグラ、お前が家まで送ってってやれ」
促されたアレグラは、しかし、パーカーのポケットに両手を突っ込んで口先を尖らせたのだった。
「て言うかさぁ~、これってやっぱ警察に頼んだ方が良くない? うちらで変にこそこそしなくても……」
「駄目だ。不測の事態というのも世の中にはある。お前だったら街中が絨毯爆撃でもされない限りは無事に送り届けられるだろう?」
カボチャの仮面を前へと戻してリウドルフが言ってのけると、アレグラは細い顎先を引いて上目遣いに相手を見た。
「……そこまで入れ込めちゃう訳、この場合?」
「勘違いするな。これは飽くまで教師としての義務だ。後は良識弁えるべき大人として。今の立場に照らそうが照らすまいが、至って自然な対応だろうが」
顔は美香の方へと向けたまま、リウドルフは服の裾で振り払うようにきっぱりと答えた。
「……ふ~ん……」
アレグラは何やら含みのある眼差しを送りつつもそれ以上は何も言わず、姿勢を正して一つ息をつく。
そして、
「……フェシュタンン、マイン・シャプファー」
それまでとは異なる、穏やかながらも芯のある声で告げた後、赤毛の女はテーブルの前から立ち去ったのであった。
ただ一人、きょとんとしてその遣り取りを眺めていた美香へ、リウドルフが遅れて声を掛ける。
「お前もそろそろ支度しろ。連絡が行ってるとは言え、遅くなればそれだけ御両親も心配する。あまり気を揉ませるもんじゃない」
「え、ええ……」
促されて席から腰を上げ掛けた美香の前で、リウドルフはやや沈んだ声で言葉を続ける。
「家族は大事にしろよ。俺はもう、母親の顔も思い出せないからな……」
テーブルの横で鞄を肩に掛けた所で、美香はふとリウドルフへと向き直った。
「……先生ってつまり、五百歳ぐらいなんですよね?」
「……ああ。生身の頃から数えたらぼつぼつそれぐらいになるか……」
然して興味も無さそうに答えたリウドルフを、美香は徐に覗き込む。
「ずっと一人で暮らしてるんですか? アレグラさんを除けば……」
「そうだな……」
カボチャの仮面を少し俯かせて、リウドルフは肯定した。
「昔は門下生なんかを囲ってぶいぶい言わせていた頃もあったが、それも遠い過去の話だ。今となってはそんな滑稽な真似をする気にもなれん。正直言って医療でも化学でも、現代の進展に付いて行くのがやっとの側面もあるしな」
「ああ、いや、そういう意味じゃなくって……」
「どの道、親しかった者達は皆死んだ。死に損ないの亡霊が今や独りで恥を晒しているだけだ。なら、亡霊は亡霊らしく、日陰にぽつんと佇んでいるぐらいが丁度いい」
美香が差し挟もうとした言葉をやや強引に遮って、闇色の衣を纏ったカボチャ大王は椅子に腰掛けたまま、溜息交じりのような気勢の削げた声で述懐したのであった。
「万物流転、色即是空……全ては流れ流れて移ろい変わる。当然の事だ。見栄も矜持も一時の栄華も、その中では大した値打ちも無い……」
呟くようにそう言うと、カボチャの仮面の奥でリウドルフは沈黙した。
蒼い光がぼんやりと灯る剽軽な仮面を被った、そこまで大きくも無い黒き躯の姿が、傍らの少女の瞳に映り込んだ。
随分と静かになったリビングに、天井の照明が散らす白々とした光が満ちる。
何処か遠くを走る車のヘッドライトが、ベランダのガラス戸に小さく煌めいた。
窓辺の本棚の上に置かれた時計が、午後八時を回った時刻を指し示していた。
テーブルの向かいの席には今や骨ばかりの姿となったリウドルフが腰掛け、その丁度中間にアレグラが新たに席に付いていた。
そのアレグラは卓上に置いた袋から芋けんぴを取り出して、徐に口に咥えた。
「へえ~、そんな事があったんだ~」
「だから迎えの電話を遣したんだ」
一方のリウドルフは表情の一切読み取れない髑髏の顔を蛍光灯の光に晒し、疲れたような口調で言った。
「市街のど真ん中で頭なんぞ撃たれたのはサラエヴォ以来だが、遠く離れた島国まで来て一体何の因果でこんな目に遭わなきゃならんのだ……」
「それこそ因果応報って奴じゃな~い? 好むと好まざるとに係わらず、うちらのネームバリューだけは拡散の一途を辿ってるみたいだし~。いつもの事って言っちゃやそれまでかも知んないし~」
口に芋けんぴを咥えたまま両手で頬杖を付いた姿勢で、アレグラは瞳だけをリウドルフへと向ける。
「けど、今回はまた面倒なのに目ェ付けられたのかもね~。相手の頭数が判ってみないと何とも言えないけど」
「今の所、向こうの手札が軍人崩れまでで止まっているのが救いと言えば救いか……今のままなら、国内外のお役人連中がきちんとした対処をしてくれれば封じ込めるのは容易いだろう。既に何人か身柄を抑えてもあるのだし」
椅子に少し寄り掛かり、リウドルフは天井を見上げる。剥き出しとなった眼窩の奥に蒼白い光がぽつりと浮かび、細かに物憂げに揺らめいた。
そうして数秒も宙を眺めた後、リウドルフは緩やかに顔を戻すと向かいの席に座る美香を見遣った。それと一緒に、眼窩の内に灯った蒼白い光が今度はゆらゆらと蠢く。
「なので、今夜の所はそこの出しゃばりを家に送り届ければ一件落着となる筈だ。どうせ明日には警察や公安が本格的に捜査に乗り出すだろう。そういう手配が今頃なされてる筈だ」
「あ~、またいつもの彼氏さんのお手並で……」
と相槌を打った所で、アレグラは横で肩を狭めている美香の様子をちらと眺め、次いで一笑したのだった。
「あらら、まーた硬くなってる……って無理も無いか。こんな怖い顔のが正面に陣取ってちゃねぇ~……」
「あ、いえ……」
顔を上げた美香の前で、リウドルフの眼窩に灯った光がまた揺らめく。
「悪かったな、怖い顔で。だが、誰だって自分の家では素顔でくつろぐ権利があるだろ。メイクも長時間続けると煩わしくなるんだ。何て言うか、体の表面が段々むず痒くなって来る」
「……敏感肌、なんですか?」
「皮膚無いけどね~」
美香が真顔で呟いた後を、アレグラが茶化すように補足した。
その後、アレグラは芋けんぴの端をかじりつつ、席からやおら腰を上げた。
「ちょっと待っててよ。このままじゃ話も弾まないから。確か去年の復活祭で使ったのが、どっかにあった筈……」
言いながら、彼女はリビングの奥へと一人向かったのであった。
何やら取り残された様子で、美香は所在無さげに紅茶を啜った。
「何を始める気だ……」
その彼女の前でつまらなそうに呟いた後、リウドルフは闇色の衣の内からタブレット端末を取り出すと、卓上にそれを置いて画面を操作し始める。
「さて、今日のNZZ(※ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング。新チューリッヒ新聞。スイスのチューリッヒに本社を置くドイツ語新聞)は配信されたか……」
独語しながら自分のすぐ目の前で最新の電子機器を弄る生ける屍の姿を、美香は驚きと恐れと僅かばかりの呆気が混ざった眼差しを以って捉えていた。
その有様を暫し観察した末、美香はおずおずと口を開く。
「……その、こういう事訊くのも、もしかして凄く失礼かも知れないですけど……」
「ん?」
反応は覗かせつつも、依然タブレットに顔を向けたままでいるリウドルフへ、美香は予てからの疑問をぶつける。
「先生は、どうしてそんな姿になったんですか? その、死なない体に?」
相手の顔をなるべく直視しないよう目を逸らして、しかし顔だけは正面へと据えて、美香は多少余所余所しい口調で訊ねた。質問としてそれは些か不躾ではあったのだろうが、不安や恐怖を軽減する為には事実を正確に把握しておく必要がある事を美香は知っていたし、その為に最大限の努力を尽くそうとしたのである。
キッチンの奥の方で、蛇口の先から滴り落ちた水滴がシンクに撥ね返って硬い音を立てた。
然るに少女の振り絞った精一杯の勇気は、直後、相手の素気無い一言で塵芥の如く掃き捨てられるのであった。
「どうしてって、別に……気が付いたら、こうなっていた」
「気が付いたら!?」
タブレットの画面をフリックしながらてんで気の無い返事を遣した不死者へ、対照的に美香は内心の動揺を露呈させた。
椅子から腰を半ば浮かせて、美香は至って泰然と構えるリウドルフへ訴え掛ける。
「や、気が付いたらって事は無いでしょ、流石に? 自然とそんな状態になる訳無いんだし……もっとこう、太古の悪魔に呪いを掛けられたとか、地獄の支配者の口車に乗せられて契約を結んだとか、悪の秘密結社に無理矢理改造されたとか……」
「いや、別に」
相手の並べた推論の数々を平然と全否定すると、リウドルフは緩やかに髑髏の顔を上げたのだった。
「ま、今から五百年近く前になるが、滞在先の居酒屋で一杯やってたら急に意識が遠退いて、気が付いたら棺桶に入れられて埋葬されていた。そこから這い出してみたらこの有様だ」
「……何それ……?」
だらしなく口を開けた美香の向かいで、リウドルフはふと宙を仰いで述懐する。
「毒を盛られたって線も否定はし切れないんだが、それより何より、俺は以前から手製の薬剤を自分の体を使って色々と試してたからなぁ……それこそ今の常識からすると、ぞっとするような配合の危ない治験薬まで色々と。結局その辺りの長年の蓄積と言うか、怪しい薬効や副作用が積もり積もって一時に発現したと……考えられるのはそれぐらいか。今で言う『シナジー効果』って奴だ」
椅子から立ち上がった所で、美香は完全に言葉を失っていた。
「再現性が無いから科学的ではないし、奇跡と呼ぶには間が抜けてる。詰まる所はものの弾み、全くの偶然の産物だったんだろう」
他ならぬ自分の身に起きた出来事を平然と評したリウドルフを、美香は緊張感の転がり落ちた顔付で眺めていたが、それでもややあってから問いを重ねる。
「……で、でも、大変だったんじゃないんですか? 突然そんな体に変わっちゃって……」
「そりゃまあ最初は面食らったが……」
リウドルフは右手を持ち上げて、その指先へと向けて視線を這わせて行く。肉も皮も、それどころか一切の生気も抜け落ち、それでいて空間に焼け付くようにして確かに存在する黒い骨と化した己が肉体を。
眼窩に灯った蒼白い光が、ちらと揺らめいた。
「ただ、何事も慣れだからなぁ……初めて鏡を見た時には確かにびっくりしたが、人間の骨格ってこうなってたんだぁ、とか感心したりして割とすぐに慣れた」
「……慣れないでよ、後生だから……」
頬を引き攣らせて、美香は思わず呟いた。
「だって当時は解剖なんか滅多に出来ない御時世だったんだぞ。自分の骨格を参考にして人の骨折の治療に役立てた事もあったし、そういう意味でも貴重な体験になった」
さながらオーダーミスで運ばれて来た料理が意外に美味しかった体験でも聞かせるかのように、リウドルフはむしろ得意げに語ってのけたのであった。
「ど……」
一方の美香は疲れたような呆れたような顔をひたぶるに浮かべ、すっかり脱力した体で椅子へと座り直した。
「……どういうんだか……」
気落ちした声を、少女は歯垣の隙間から漏らしていた。
その形相を除いたとしても自分には決して慣れる事の出来そうにない相手へ、その時、後ろからアレグラが近付いて来た。
「はーい、お待ちどう様~。これでちっとはましになるかな~?」
言いながら、アレグラは小脇に抱えて来た楕円形のマスクをリウドルフの頭にすっぽりと被せる。ハロウィンでよく使われる、プラスチック製のカボチャ大王のマスクであった。
「こら、いきなり何すんだ!?」
憤った拍子に眼窩の光が強さを増したのか、カボチャの仮面が内側からぼうっと光り出した。
その様子を指して、アレグラはけらけらと笑った。
「あ~、やっぱその格好、よく似合うね~。去年もそれで商店街のパレードに参加して割とウケてたし、どっかの御当地ヒーローの悪役としてエキストラ出演してみるってのもアリかもよ」
「誰が悪役だ……せめて憎まれ口を叩きながら主役を陰から支えるダークヒーローにしろ」
そうぼやきつつもカボチャの仮面は取ろうとせず、リウドルフは椅子の上で姿勢を戻した。
「……とまあ、そういう次第だから、この世にはそうそう突拍子も無い出来事やとんでもない事件は起こらないって事だ。出歯亀したってつまらないって言ったろ?」
「……いえ、充分とんでもないです……あなたの性格を含めて」
カップに残った紅茶を飲み干してから、美香は疲れた口調で結論付けたのだった。
他方、カボチャ大王と化したリウドルフは、アレグラの方へ首を巡らせる。
「ま、お喋りはこの辺までにしよう。一服付けた事だし、アレグラ、お前が家まで送ってってやれ」
促されたアレグラは、しかし、パーカーのポケットに両手を突っ込んで口先を尖らせたのだった。
「て言うかさぁ~、これってやっぱ警察に頼んだ方が良くない? うちらで変にこそこそしなくても……」
「駄目だ。不測の事態というのも世の中にはある。お前だったら街中が絨毯爆撃でもされない限りは無事に送り届けられるだろう?」
カボチャの仮面を前へと戻してリウドルフが言ってのけると、アレグラは細い顎先を引いて上目遣いに相手を見た。
「……そこまで入れ込めちゃう訳、この場合?」
「勘違いするな。これは飽くまで教師としての義務だ。後は良識弁えるべき大人として。今の立場に照らそうが照らすまいが、至って自然な対応だろうが」
顔は美香の方へと向けたまま、リウドルフは服の裾で振り払うようにきっぱりと答えた。
「……ふ~ん……」
アレグラは何やら含みのある眼差しを送りつつもそれ以上は何も言わず、姿勢を正して一つ息をつく。
そして、
「……フェシュタンン、マイン・シャプファー」
それまでとは異なる、穏やかながらも芯のある声で告げた後、赤毛の女はテーブルの前から立ち去ったのであった。
ただ一人、きょとんとしてその遣り取りを眺めていた美香へ、リウドルフが遅れて声を掛ける。
「お前もそろそろ支度しろ。連絡が行ってるとは言え、遅くなればそれだけ御両親も心配する。あまり気を揉ませるもんじゃない」
「え、ええ……」
促されて席から腰を上げ掛けた美香の前で、リウドルフはやや沈んだ声で言葉を続ける。
「家族は大事にしろよ。俺はもう、母親の顔も思い出せないからな……」
テーブルの横で鞄を肩に掛けた所で、美香はふとリウドルフへと向き直った。
「……先生ってつまり、五百歳ぐらいなんですよね?」
「……ああ。生身の頃から数えたらぼつぼつそれぐらいになるか……」
然して興味も無さそうに答えたリウドルフを、美香は徐に覗き込む。
「ずっと一人で暮らしてるんですか? アレグラさんを除けば……」
「そうだな……」
カボチャの仮面を少し俯かせて、リウドルフは肯定した。
「昔は門下生なんかを囲ってぶいぶい言わせていた頃もあったが、それも遠い過去の話だ。今となってはそんな滑稽な真似をする気にもなれん。正直言って医療でも化学でも、現代の進展に付いて行くのがやっとの側面もあるしな」
「ああ、いや、そういう意味じゃなくって……」
「どの道、親しかった者達は皆死んだ。死に損ないの亡霊が今や独りで恥を晒しているだけだ。なら、亡霊は亡霊らしく、日陰にぽつんと佇んでいるぐらいが丁度いい」
美香が差し挟もうとした言葉をやや強引に遮って、闇色の衣を纏ったカボチャ大王は椅子に腰掛けたまま、溜息交じりのような気勢の削げた声で述懐したのであった。
「万物流転、色即是空……全ては流れ流れて移ろい変わる。当然の事だ。見栄も矜持も一時の栄華も、その中では大した値打ちも無い……」
呟くようにそう言うと、カボチャの仮面の奥でリウドルフは沈黙した。
蒼い光がぼんやりと灯る剽軽な仮面を被った、そこまで大きくも無い黒き躯の姿が、傍らの少女の瞳に映り込んだ。
随分と静かになったリビングに、天井の照明が散らす白々とした光が満ちる。
何処か遠くを走る車のヘッドライトが、ベランダのガラス戸に小さく煌めいた。
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