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今宵もリッチな夜でした
その14
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そして、美香は目を覚ました。
両の瞼を開いた彼女の視界に、最初に映り込んだのはクリーム色の天井であった。それが見慣れ始めた校舎の天井である事を意識した美香は、間も無く、自分が何処かに仰向けに寝かされている事を察した。
そうして美香は徐に上体を起こした。
どうやらソファの上に寝かされていたらしい。
首を左右に巡らせてみれば、薬品をずらりと収めた棚や白い衝立に囲まれた幾つかのベッドが視界に入る。
ここは保健室であるらしい。
一つ息をついて、美香はソファに座り直した。
窓の向こうに見える景色は真っ暗で、遠くに家々の明かりがぽつぽつと認められる。保健室内は蛍光灯の白い光が満ち満ちていたが、それが余計に辺りの静けさを増幅するのだった。
壁の時計は、夜の七時近くを指し示していた。
昔はこれぐらいの時間まで残っていた事もあったけど、今は早くに帰る癖がすっかり身に付いちゃったな。
そんな事をぼんやりと考えながら、少しの間、時計を眺めていた美香は、だが意識を失う直前までの出来事を不意に脳裏に甦らせたのであった。
「そうだ、あたし……!」
思い返すのと一緒に、美香は慌ただしく自分の身の回りを確認した。雨の中での襲撃とその顛末が、まるで火照りのように少女の体の内に緊張を呼び覚ました。
何処か突き動かされるように自身の体を見回した美香は、しかし、何の変化も無い事にやがて気付く。
これと言って外傷らしい外傷も認められず、衣服にも乱れはない。
それどころか雨でずぶ濡れになっていた筈の制服は乾き切り、頬に掛かる髪の毛にも僅かな湿り気さえ残されてはいなかった。
釈然としない面持ちを浮かべた美香は、その時、頭の天辺に妙な感触を覚えて腕を伸ばす。
頭頂部に、一枚の紙きれが貼り付けられていた。
ますます怪訝に思った美香が頭から剥がしたのは、何やら複雑な漢字のびっしりと書き込まれた一枚の札であった。
何かの魔除けだろうか?
だとしても、どうしてこんな物が自分に……
俄かに眉根を寄せる美香の耳元に、外から近付いて来る二組の足音と話声とが聞こえて来た。
「……かし何ですね、水木先生が帰った後の事で良かった。あの人、割と動揺し易い性格ですから」
「慌てふためいた挙句に、救急車まで呼ばれる騒ぎにでもなったら色々と面倒だからなぁ……警察の方には幾らでも便宜が利くが、身内の方はそうも行かないってのも皮肉と言えば皮肉か」
「まあ、学校と言うのもこれで一つの聖域のようなものですよ」
「そこを彷徨える亡霊と国連所属の退魔師が並んで歩いてると……」
「妙な状況ですね、今更ながら」
程無くして廊下に通じる保健室の引き戸が開かれ、外から二つの人影が入り込む。
先に敷居を潜ったのは司であった。
「おや、どうやら目が覚めたようだね。何処か痛む所はあるかな?」
「……あ、いえ……別に」
昼間と変わらぬ穏やかそのものの声で遣された質問に、美香は首を横に振って見せた。
司は丸眼鏡の奥で目元を緩める。
「それは良かった。御家族にはさっき連絡を入れておいたからね、遅くなったのを気に病む必要は無いよ。まあ、あちらも心配はなさっているだろうけどね」
「……済みません……」
所在無さげに美香は目を逸らして、細い声で礼を述べた。
その美香へ司はゆっくりと歩み寄ると、保健室内の中央に置かれたソファに依然として腰を下ろしている彼女へ手を差し伸べる。
「体の方も乾いたようだね。じゃ、それを返して貰えるかな?」
「あ、これ……」
言われて、美香は手元の札を見遣った。
「こちらの商売道具の一つでね、作るのにそれなりの手間が掛かるから出来る事ならリユースしておきたいんだ」
「はあ……」
よく判らないまま、それでも美香は司へとその札を差し出した。
そこへ、保健室の入口から声が新たに上がる。
「へぇ、水除の符か。色々と器用だね、そちらは」
単純に感心したような声の遣された方向へと、司と美香は揃って首を巡らせた。
司は特段の様子の変化も覗かせず、対照的に、美香は露骨に顔色を変えながら。
両者の眼差しの先に平然と佇んでいたのは、案に相違せずリウドルフであった。
保健室の扉の前に立ったリウドルフは、それまで通りのよれよれのスーツに身を包み、体型や雰囲気そのものに格別の変化は見られない。
にも拘わらず、その男の姿が、その人物の輪郭が視界に入った途端、美香は怯える眼差しと共に震える言葉を吐き出したのであった。
「……ゾ、ゾゾゾ、ゾンビ……!」
「何だ、藪から棒に、失礼な」
言われたリウドルフは随分と機嫌を損ねたようであったが、美香は構わずに非難めいた口調で言葉を続ける。
「だって見たもん、あたし……大体、今のその様は何な訳!?」
「何って、何処か変な所があるか、俺に?」
美香が憤然と指差した先でリウドルフは目を丸くしたが、そもそも今の彼は顔の下半分をマスクで不自然に覆い隠し、頭髪の量も直前までと比べて明らかに減っていたのであった。
美香は舌鋒鋭く捲し立てる。
「何処も彼処も変でしょうが! 試しにそのマスク取ってみてよ!」
「いや、それはその……」
リウドルフが気勢を落として行くのと反比例するように、美香の胸中に蟠る疑念と、よく判らない義憤のような憤りは大きさを増して行った。
何やら剣呑な空気の膨らんで行く中で、リウドルフは司の方をちらと見遣る。
「……どうしようか?」
問われた司はやはり柔和な微笑を湛えつつ、それでも少し困ったように答える。
「どうもこうも、こういう場合は正直に伝えるのが一番ではないでしょうか」
傍らに佇む時の氏神からの提案に、リウドルフは少しの間黙考した後、徐に首肯する。
「……そうだな。後々の事まで考えれば、変に隠し立てするのも逆効果か……」
独白するように言うと、リウドルフはソファから勢い腰を上げた美香を改めて見つめたのだった。
両の義眼から注がれる冷めた眼差しが、少女の強い視線と交錯する。
「おい、一応言っとくがな、これはお前がしつこく訊ねるから答えるんだからな。場違いに大騒ぎしたり、恨み言を抜かしたりするなよ」
実に不機嫌そうな言い草で念を押す相手へ、美香は否とも応ともすぐには答えなかった。ただ瞳に浮かばせた警戒の光だけは緩めずに、彼女は眼前の相手の動向を具に観察していたのである。
その美香の前でリウドルフはやおらマスクに手を掛けると、至って自然な動作でそれを外したのだった。
そして露わになった口元にあったのは、皮膚も筋肉も無い剥き出しの黒い顎骨と、ずらりと並んだ歯であった。
「……俺、実は一度死んでるんだわ」
剥き出しになった顎骨を震わせて通告した相手の顔を正面から眺める内、美香の頭より血の気が急速に引いて行く。
そしてまた、彼女はソファに崩れ落ちるように失神したのだった。
壁の時計の長針が、引き攣るように動いて時を刻んだ。
再びマスクを付けたリウドルフは、腕組みをした姿勢で憤然と文句を垂れる。
「人の顔を見て、日に二度気絶する奴があるか……!」
「まあまあ、突然の事なんですから、そう仰らず」
諸々の薬品を収めた棚の脇で壁に凭れ掛かり、視線を逸らして悪態をつくリウドルフを美香の隣に腰を下ろした司が宥めた。
次いで司は同じソファの上で疲れた表情を浮かべている美香へと、穏やかな口調で話し掛ける。
「君も突然の事で驚いただろうけど、まあこういう次第なんだよ、現実として。こちらの方は昔のさる高名な学者であらせられてね、故あって死を超越され、今に至っておられる訳なんだ」
明快と言えばこれ以上明快なものは無く、難解と評すならこれ程までに酷く難解なものも無い説明を遣されて、美香はただただ困惑した顔を司へと向けるばかりであった。
「……そんな事言われて、『はい、そうなんですか』、って言えると思います?」
「そこはそちらの努力に期待したい所だけれど……」
司も笑顔で言葉を濁す横で、美香は眉根を寄せる。
「無理ですよ、そんなの……大体どうして一度死んだような人が、普通に学校で教師なんかやってられるんですか?」
「あっ、酷いな、今の。何だ、その差別的な物言いは?」
壁に寄り掛かっていたリウドルフは、機嫌を著しく損ねた様子で矢庭に口を挟んだ。
両の義眼の奥に蒼い光を浮かばせて、リウドルフは反論する。
「たとえ一遍死んでようが、死に損なってようが、当人にちゃんとした意志があるのなら周りもそれを尊重すべきだろ。傍目にどう映ってようと、確たる人格を有しているなら一個人として周囲も扱う。それが個が支え合う事で形成される現代社会のあるべき姿ってもんだ。大体俺はきちんと仕事に就いてるし、給与から税金も納めてるし、未成年者に教育を施す立場にも就いてるし、この国の定める三大義務は直接間接含めてしっかり果たしてるんだからな。戸籍そのものは至極曖昧なものだが」
一頻り言い募ったリウドルフへ、美香は上目遣いになって尚も恨めしそうに呟く。
「……だから余計に不気味なんだもん……」
壁際でリウドルフが額を押さえた。
「じゃあ何だ? 頭から角でも生やして高笑いして見せりゃ納得行くってか?」
「むしろ今から世界征服でも始められては如何ですか?」
美香の横から司が笑顔で言葉を添えた。
「然程難しい作業とも思えませんが」
「生憎と俺は医者だ。傷を治し病を癒し、以って他者の命を救うのが職務であり使命だ。たとえ死んでも死に損なっても、その事実だけは変わらんし変える積もりも無い」
不機嫌そうに司へ答えると、リウドルフは腕組みをして窓の方を眺め遣る。
「……だから、こんな事でつまらない騒ぎが起こるのは甚だ不本意だ。根も葉も無い下らない噂ばかりが先行して、誰も彼もが在りもしない物へ縋り付こうとする。全く、いつまで経っても身勝手で……」
苛立たしげ、と言うよりはむしろ悔しそうに呟いて、リウドルフは窓越しに覗く宵闇に覆われた景色を見つめていた。
夜の闇を嵌め込んだ窓ガラスには細かな雨粒が張り付いては、物音も立てずに流れ落ちて行った。
些か気まずい沈黙が保健室内を満たしたが、ややあって司が美香の隣から徐に腰を上げた。
「……まあいずれにせよ、ただこうしていても夜も更け行くばかりですから、今日は取り敢えずそれぞれの持ち場に戻るべきでしょう。一つ気掛かりなのは例の反社会的勢力が未だ機を窺っているのではないか、という点ですかね」
司の言葉を受けてか、リウドルフは壁から背を離した。
「機ならいつでも窺ってるだろ、ああいう連中は。それこそ虎視眈々て奴だ。それでも対象が俺達二人に限定されてる間は問題無いが、今はそこの余計なのが頭痛の種だな」
ソファに座った美香をちらと垣間見てリウドルフが億劫そうに言うと、司も頷いて見せる。
「そうですね。この子をどうやって無事に家まで届けるか……警察に護衛を頼んでもいいでしょうが、あまり事を大っぴらにしたくもない。変に目立った真似をすれば、却って目を付けられる恐れがありますし……」
司が顎先に手を当てて思案する前で、リウドルフが後ろ頭を掻いた。
「俺も考えたが、結局うちのに任せるのが簡単確実、そして一番現実的だろうな」
「ああ、例の『彼女』に……」
リウドルフの発した提案に、司は顔を上げた。
その司の眺め遣る先で、リウドルフはスーツのポケットからスマートフォンを取り出すと、何やら苛立たしげに画面を睨んだ。
「それでさっきから電話やメールを何度も送ってるんだが、出ないんだよ、あいつ」
「おや……先方に何かトラブルでも?」
司が少し意外そうに訊ねた。
教師二人の察しの付かない遣り取りに、ソファに座った美香は一人、小首を傾げていた。
その美香を置いて、リウドルフはマスクの奥から忌々しそうに息を吐く。
「いや、どうせまたあのフォー何とかだかエー何とかだかいうゲームにのめり込んでんだろ。今朝方も、『七十二時間戦えますかー』、とか馬鹿な事をほざいてパソコンの前に陣取ってたし……」
「ああ、そういう意味では随分と活動的なようですね。よくは知りませんが『彼女』がこの国に移籍した事で、そちらの界隈のパワーバランスも変化しているのではありませんか?」
「知らん。別に知りたくもない」
司の問いに、リウドルフはさばさばと首を左右に振った。
傍で聞く美香にはとんと内容の掴めぬ遣り取りであったが、リウドルフは苛立ちながらも何やら割り切った様子で、スマートフォンをポケットに仕舞った。
「ともあれだ、ここで文句を言ってても始まらんからな、俺がマンションまでこいつを送ってって、その後あの馬鹿に引き継がせる形を取るしかないだろう。俺が家まで送ってったんじゃ、『狙って下さい』と叫んでるようなものだからな」
「……そうですね。それが一番いいでしょう。済みませんがそれでお願い出来ますか?」
隣で要請する司を、美香は慌てて仰ぎ見た。
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待って下さい。さっきから何言ってるんですか、二人共? 送って貰うって、私一人で帰れますから!」
途端、司は眉根を寄せて、かつ微笑も湛えながら説明する。
「いやいやいや、ここは念を入れておいた方がいいと思うんだ。ほら、何か起きてからじゃ遅いし、当の君自身の安全の問題だよ?」
「でも……!」
「それにねぇ、不測の事態なんかが起こった場合、保護者説明会で吊し上げに遭うのは私達なんだ。強情は別の機会に張って、今日の所は大人しく従って貰えないかな?」
美香の反論を遮って司が笑顔で念を押すと、壁際からリウドルフがうんざりした様子で口を挟む。
「そもそも真っ先に教頭の奴に呼び出されて反省会だろうな、この上何かトラブった日には」
途端、司も微笑を引き攣らせた。
「ああ、それは厄介ですねぇ……」
その後、リウドルフと司はそれぞれに美香をじっと凝視したのだった。
「だからここは安全第一、慎重に慎重を重ねておくべきだ。俺は早く帰れと言ったのに、教師の言う事に耳を貸さないからこういう事になる」
「まあ言いたい事はあるだろうけど、ここは諦めて送られて貰えないかな? こちらを助けると思って」
何やら意気投合した挙句、強い眼光を揃ってこちらへ送り付けて来る二人の教師へ、美香はひたぶるに困惑した眼差しを送り返すばかりである。保身の事で頭を悩ませている言語道断な教師達に対し、面と向かって非難を向けられないのは、やはり状況が特殊である為であろうか。
壁時計の長針が、また身震いするように時刻を進めた。
両の瞼を開いた彼女の視界に、最初に映り込んだのはクリーム色の天井であった。それが見慣れ始めた校舎の天井である事を意識した美香は、間も無く、自分が何処かに仰向けに寝かされている事を察した。
そうして美香は徐に上体を起こした。
どうやらソファの上に寝かされていたらしい。
首を左右に巡らせてみれば、薬品をずらりと収めた棚や白い衝立に囲まれた幾つかのベッドが視界に入る。
ここは保健室であるらしい。
一つ息をついて、美香はソファに座り直した。
窓の向こうに見える景色は真っ暗で、遠くに家々の明かりがぽつぽつと認められる。保健室内は蛍光灯の白い光が満ち満ちていたが、それが余計に辺りの静けさを増幅するのだった。
壁の時計は、夜の七時近くを指し示していた。
昔はこれぐらいの時間まで残っていた事もあったけど、今は早くに帰る癖がすっかり身に付いちゃったな。
そんな事をぼんやりと考えながら、少しの間、時計を眺めていた美香は、だが意識を失う直前までの出来事を不意に脳裏に甦らせたのであった。
「そうだ、あたし……!」
思い返すのと一緒に、美香は慌ただしく自分の身の回りを確認した。雨の中での襲撃とその顛末が、まるで火照りのように少女の体の内に緊張を呼び覚ました。
何処か突き動かされるように自身の体を見回した美香は、しかし、何の変化も無い事にやがて気付く。
これと言って外傷らしい外傷も認められず、衣服にも乱れはない。
それどころか雨でずぶ濡れになっていた筈の制服は乾き切り、頬に掛かる髪の毛にも僅かな湿り気さえ残されてはいなかった。
釈然としない面持ちを浮かべた美香は、その時、頭の天辺に妙な感触を覚えて腕を伸ばす。
頭頂部に、一枚の紙きれが貼り付けられていた。
ますます怪訝に思った美香が頭から剥がしたのは、何やら複雑な漢字のびっしりと書き込まれた一枚の札であった。
何かの魔除けだろうか?
だとしても、どうしてこんな物が自分に……
俄かに眉根を寄せる美香の耳元に、外から近付いて来る二組の足音と話声とが聞こえて来た。
「……かし何ですね、水木先生が帰った後の事で良かった。あの人、割と動揺し易い性格ですから」
「慌てふためいた挙句に、救急車まで呼ばれる騒ぎにでもなったら色々と面倒だからなぁ……警察の方には幾らでも便宜が利くが、身内の方はそうも行かないってのも皮肉と言えば皮肉か」
「まあ、学校と言うのもこれで一つの聖域のようなものですよ」
「そこを彷徨える亡霊と国連所属の退魔師が並んで歩いてると……」
「妙な状況ですね、今更ながら」
程無くして廊下に通じる保健室の引き戸が開かれ、外から二つの人影が入り込む。
先に敷居を潜ったのは司であった。
「おや、どうやら目が覚めたようだね。何処か痛む所はあるかな?」
「……あ、いえ……別に」
昼間と変わらぬ穏やかそのものの声で遣された質問に、美香は首を横に振って見せた。
司は丸眼鏡の奥で目元を緩める。
「それは良かった。御家族にはさっき連絡を入れておいたからね、遅くなったのを気に病む必要は無いよ。まあ、あちらも心配はなさっているだろうけどね」
「……済みません……」
所在無さげに美香は目を逸らして、細い声で礼を述べた。
その美香へ司はゆっくりと歩み寄ると、保健室内の中央に置かれたソファに依然として腰を下ろしている彼女へ手を差し伸べる。
「体の方も乾いたようだね。じゃ、それを返して貰えるかな?」
「あ、これ……」
言われて、美香は手元の札を見遣った。
「こちらの商売道具の一つでね、作るのにそれなりの手間が掛かるから出来る事ならリユースしておきたいんだ」
「はあ……」
よく判らないまま、それでも美香は司へとその札を差し出した。
そこへ、保健室の入口から声が新たに上がる。
「へぇ、水除の符か。色々と器用だね、そちらは」
単純に感心したような声の遣された方向へと、司と美香は揃って首を巡らせた。
司は特段の様子の変化も覗かせず、対照的に、美香は露骨に顔色を変えながら。
両者の眼差しの先に平然と佇んでいたのは、案に相違せずリウドルフであった。
保健室の扉の前に立ったリウドルフは、それまで通りのよれよれのスーツに身を包み、体型や雰囲気そのものに格別の変化は見られない。
にも拘わらず、その男の姿が、その人物の輪郭が視界に入った途端、美香は怯える眼差しと共に震える言葉を吐き出したのであった。
「……ゾ、ゾゾゾ、ゾンビ……!」
「何だ、藪から棒に、失礼な」
言われたリウドルフは随分と機嫌を損ねたようであったが、美香は構わずに非難めいた口調で言葉を続ける。
「だって見たもん、あたし……大体、今のその様は何な訳!?」
「何って、何処か変な所があるか、俺に?」
美香が憤然と指差した先でリウドルフは目を丸くしたが、そもそも今の彼は顔の下半分をマスクで不自然に覆い隠し、頭髪の量も直前までと比べて明らかに減っていたのであった。
美香は舌鋒鋭く捲し立てる。
「何処も彼処も変でしょうが! 試しにそのマスク取ってみてよ!」
「いや、それはその……」
リウドルフが気勢を落として行くのと反比例するように、美香の胸中に蟠る疑念と、よく判らない義憤のような憤りは大きさを増して行った。
何やら剣呑な空気の膨らんで行く中で、リウドルフは司の方をちらと見遣る。
「……どうしようか?」
問われた司はやはり柔和な微笑を湛えつつ、それでも少し困ったように答える。
「どうもこうも、こういう場合は正直に伝えるのが一番ではないでしょうか」
傍らに佇む時の氏神からの提案に、リウドルフは少しの間黙考した後、徐に首肯する。
「……そうだな。後々の事まで考えれば、変に隠し立てするのも逆効果か……」
独白するように言うと、リウドルフはソファから勢い腰を上げた美香を改めて見つめたのだった。
両の義眼から注がれる冷めた眼差しが、少女の強い視線と交錯する。
「おい、一応言っとくがな、これはお前がしつこく訊ねるから答えるんだからな。場違いに大騒ぎしたり、恨み言を抜かしたりするなよ」
実に不機嫌そうな言い草で念を押す相手へ、美香は否とも応ともすぐには答えなかった。ただ瞳に浮かばせた警戒の光だけは緩めずに、彼女は眼前の相手の動向を具に観察していたのである。
その美香の前でリウドルフはやおらマスクに手を掛けると、至って自然な動作でそれを外したのだった。
そして露わになった口元にあったのは、皮膚も筋肉も無い剥き出しの黒い顎骨と、ずらりと並んだ歯であった。
「……俺、実は一度死んでるんだわ」
剥き出しになった顎骨を震わせて通告した相手の顔を正面から眺める内、美香の頭より血の気が急速に引いて行く。
そしてまた、彼女はソファに崩れ落ちるように失神したのだった。
壁の時計の長針が、引き攣るように動いて時を刻んだ。
再びマスクを付けたリウドルフは、腕組みをした姿勢で憤然と文句を垂れる。
「人の顔を見て、日に二度気絶する奴があるか……!」
「まあまあ、突然の事なんですから、そう仰らず」
諸々の薬品を収めた棚の脇で壁に凭れ掛かり、視線を逸らして悪態をつくリウドルフを美香の隣に腰を下ろした司が宥めた。
次いで司は同じソファの上で疲れた表情を浮かべている美香へと、穏やかな口調で話し掛ける。
「君も突然の事で驚いただろうけど、まあこういう次第なんだよ、現実として。こちらの方は昔のさる高名な学者であらせられてね、故あって死を超越され、今に至っておられる訳なんだ」
明快と言えばこれ以上明快なものは無く、難解と評すならこれ程までに酷く難解なものも無い説明を遣されて、美香はただただ困惑した顔を司へと向けるばかりであった。
「……そんな事言われて、『はい、そうなんですか』、って言えると思います?」
「そこはそちらの努力に期待したい所だけれど……」
司も笑顔で言葉を濁す横で、美香は眉根を寄せる。
「無理ですよ、そんなの……大体どうして一度死んだような人が、普通に学校で教師なんかやってられるんですか?」
「あっ、酷いな、今の。何だ、その差別的な物言いは?」
壁に寄り掛かっていたリウドルフは、機嫌を著しく損ねた様子で矢庭に口を挟んだ。
両の義眼の奥に蒼い光を浮かばせて、リウドルフは反論する。
「たとえ一遍死んでようが、死に損なってようが、当人にちゃんとした意志があるのなら周りもそれを尊重すべきだろ。傍目にどう映ってようと、確たる人格を有しているなら一個人として周囲も扱う。それが個が支え合う事で形成される現代社会のあるべき姿ってもんだ。大体俺はきちんと仕事に就いてるし、給与から税金も納めてるし、未成年者に教育を施す立場にも就いてるし、この国の定める三大義務は直接間接含めてしっかり果たしてるんだからな。戸籍そのものは至極曖昧なものだが」
一頻り言い募ったリウドルフへ、美香は上目遣いになって尚も恨めしそうに呟く。
「……だから余計に不気味なんだもん……」
壁際でリウドルフが額を押さえた。
「じゃあ何だ? 頭から角でも生やして高笑いして見せりゃ納得行くってか?」
「むしろ今から世界征服でも始められては如何ですか?」
美香の横から司が笑顔で言葉を添えた。
「然程難しい作業とも思えませんが」
「生憎と俺は医者だ。傷を治し病を癒し、以って他者の命を救うのが職務であり使命だ。たとえ死んでも死に損なっても、その事実だけは変わらんし変える積もりも無い」
不機嫌そうに司へ答えると、リウドルフは腕組みをして窓の方を眺め遣る。
「……だから、こんな事でつまらない騒ぎが起こるのは甚だ不本意だ。根も葉も無い下らない噂ばかりが先行して、誰も彼もが在りもしない物へ縋り付こうとする。全く、いつまで経っても身勝手で……」
苛立たしげ、と言うよりはむしろ悔しそうに呟いて、リウドルフは窓越しに覗く宵闇に覆われた景色を見つめていた。
夜の闇を嵌め込んだ窓ガラスには細かな雨粒が張り付いては、物音も立てずに流れ落ちて行った。
些か気まずい沈黙が保健室内を満たしたが、ややあって司が美香の隣から徐に腰を上げた。
「……まあいずれにせよ、ただこうしていても夜も更け行くばかりですから、今日は取り敢えずそれぞれの持ち場に戻るべきでしょう。一つ気掛かりなのは例の反社会的勢力が未だ機を窺っているのではないか、という点ですかね」
司の言葉を受けてか、リウドルフは壁から背を離した。
「機ならいつでも窺ってるだろ、ああいう連中は。それこそ虎視眈々て奴だ。それでも対象が俺達二人に限定されてる間は問題無いが、今はそこの余計なのが頭痛の種だな」
ソファに座った美香をちらと垣間見てリウドルフが億劫そうに言うと、司も頷いて見せる。
「そうですね。この子をどうやって無事に家まで届けるか……警察に護衛を頼んでもいいでしょうが、あまり事を大っぴらにしたくもない。変に目立った真似をすれば、却って目を付けられる恐れがありますし……」
司が顎先に手を当てて思案する前で、リウドルフが後ろ頭を掻いた。
「俺も考えたが、結局うちのに任せるのが簡単確実、そして一番現実的だろうな」
「ああ、例の『彼女』に……」
リウドルフの発した提案に、司は顔を上げた。
その司の眺め遣る先で、リウドルフはスーツのポケットからスマートフォンを取り出すと、何やら苛立たしげに画面を睨んだ。
「それでさっきから電話やメールを何度も送ってるんだが、出ないんだよ、あいつ」
「おや……先方に何かトラブルでも?」
司が少し意外そうに訊ねた。
教師二人の察しの付かない遣り取りに、ソファに座った美香は一人、小首を傾げていた。
その美香を置いて、リウドルフはマスクの奥から忌々しそうに息を吐く。
「いや、どうせまたあのフォー何とかだかエー何とかだかいうゲームにのめり込んでんだろ。今朝方も、『七十二時間戦えますかー』、とか馬鹿な事をほざいてパソコンの前に陣取ってたし……」
「ああ、そういう意味では随分と活動的なようですね。よくは知りませんが『彼女』がこの国に移籍した事で、そちらの界隈のパワーバランスも変化しているのではありませんか?」
「知らん。別に知りたくもない」
司の問いに、リウドルフはさばさばと首を左右に振った。
傍で聞く美香にはとんと内容の掴めぬ遣り取りであったが、リウドルフは苛立ちながらも何やら割り切った様子で、スマートフォンをポケットに仕舞った。
「ともあれだ、ここで文句を言ってても始まらんからな、俺がマンションまでこいつを送ってって、その後あの馬鹿に引き継がせる形を取るしかないだろう。俺が家まで送ってったんじゃ、『狙って下さい』と叫んでるようなものだからな」
「……そうですね。それが一番いいでしょう。済みませんがそれでお願い出来ますか?」
隣で要請する司を、美香は慌てて仰ぎ見た。
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待って下さい。さっきから何言ってるんですか、二人共? 送って貰うって、私一人で帰れますから!」
途端、司は眉根を寄せて、かつ微笑も湛えながら説明する。
「いやいやいや、ここは念を入れておいた方がいいと思うんだ。ほら、何か起きてからじゃ遅いし、当の君自身の安全の問題だよ?」
「でも……!」
「それにねぇ、不測の事態なんかが起こった場合、保護者説明会で吊し上げに遭うのは私達なんだ。強情は別の機会に張って、今日の所は大人しく従って貰えないかな?」
美香の反論を遮って司が笑顔で念を押すと、壁際からリウドルフがうんざりした様子で口を挟む。
「そもそも真っ先に教頭の奴に呼び出されて反省会だろうな、この上何かトラブった日には」
途端、司も微笑を引き攣らせた。
「ああ、それは厄介ですねぇ……」
その後、リウドルフと司はそれぞれに美香をじっと凝視したのだった。
「だからここは安全第一、慎重に慎重を重ねておくべきだ。俺は早く帰れと言ったのに、教師の言う事に耳を貸さないからこういう事になる」
「まあ言いたい事はあるだろうけど、ここは諦めて送られて貰えないかな? こちらを助けると思って」
何やら意気投合した挙句、強い眼光を揃ってこちらへ送り付けて来る二人の教師へ、美香はひたぶるに困惑した眼差しを送り返すばかりである。保身の事で頭を悩ませている言語道断な教師達に対し、面と向かって非難を向けられないのは、やはり状況が特殊である為であろうか。
壁時計の長針が、また身震いするように時刻を進めた。
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Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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