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今宵もリッチな夜でした

その11

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 この時、校門の手前から百メートル程も離れた、商店街の端にある雑居ビルの屋上に二つの人影がうごめいていたのであった。
「ぃよっしゃあ! 初弾命中ゥ!」
 屋上の隅の一つで腰を落として狙撃銃を構えたワーニャが、スコープから顔を離すなりはしゃいだ声を上げた。
 雨に打たれる中でも尚陽気な態度を崩さない彼の後ろで、ミーシャはレインスーツのフードからのぞく額を押さえる。
「何が命中だ、馬鹿! はなから頭に当てる奴があるか! まずは足を狙えっつったろうが!」
「しょうがねえよ。あの野郎がふらふら動きやがるから狙いが逸れたんだ。今ので動きも鈍ったろうし、次はちゃんと足に当てるって。つか、次弾は必要ねえんじゃねえか?」
「兎に角、指示は待てよ。俺らに必要なのは、奴の頭ン中にある何らかの情報だ。無暗におつむを揺さぶって、使い物にならなくしちまったら目も当てられねぇ」
 殊更ことさらに悪びれもせず、再び狙撃銃のスコープをのぞき込んだワーニャをミーシャは苦々しい面持ちで見下ろしていたが、すぐに手元のトランシーバーへ指示を送る。
「全員、行動開始だ。決して不用意に近付くな。サーシャからもきつく言われた通り、慎重に行動し速やかに身柄を確保しろ。行け!」
 階下に書店や居酒屋を置いた細長い雑居ビルの屋上に他に人影は見当たらず、業務用室外機と給水タンクが歪な凹凸を刻むのみである。本来は人が活用する場でもない、半ば物置のような空間である屋上には鉄柵も設置されてはいなかったが、その外縁近くに陣取り迷彩柄のレインスーツに身を包んだミーシャとワーニャは戦場を俯瞰ふかんしていた。
「……何か妙だな」
 ワーニャの斜め後ろで双眼鏡をのぞいていたミーシャは、顎先から雨の滴る中、ぽつりと呟いた。
「頭に当たったのに何で倒れねえんだ、あいつ? いくらプラスチック弾だからって、きちんと命中したんなら昏倒、少なくとも悶絶ぐらいするもんだが……」
「角度が浅かったんだろ。不満ならもう二三発お見舞いするぜ?」
 床に膝を付いてスコープをのぞき込んだまま、ワーニャが挑発的に牙を剥いた。
 サプレッサーを装着したSV-98の長い銃身には今も雨粒が張り付き、雫となって次々と滴り落ちて行く。展開した二脚バイポッドを屋上の縁に立て掛け、ワーニャは給水タンクを背にしてライフルの狙いを定め続ける。
「……何が『コシチェイ』だよ、ドイツ野郎クラウツ。そんな化物がほんとにいてたまるか」
 その少し前、校門の前を伸びる車道の路肩に停められた黒い高級車の中では、中村が顔をしかめて舌打ちをしていたのであった。
「露助共が、やっぱり始めやがった! ここが人の庭先シマだって事、もうすっかり忘れてやがるな、あいつら……!」
「しかしどうします、社長? スナイパーまで連れて来たとなりゃ、奴らもいよいよ本腰って事ですよ。迂闊うかつに割って入ればこっちも弾かれかねません」
 運転席から部下が狼狽した声を上げると、中村は表情を更に歪めた。
「んな事ァ判ってる! だから、どうにかして上手い事漁夫の利を得るんだよ!」
 言い捨てて、中村は険しい面持ちを後部座席の窓へと向ける。
 彼らの乗った車は校門よりおよそ十五メートル程の距離を隔てて停車しており、標的の様子もよく観察出来たのであった。
 その標的は、この時、右の膝へ新たに銃弾を撃ち込まれた所であった。
 足に強い衝撃を受けてか、リウドルフはにわかに前のめりに姿勢を崩すと、そのまま地面に両手を付いた。
「先生……ちょっと、しっかりして!」
 数秒の間、突然の出来事に脳裏を白化させていた美香は、しかし、目の前で倒れ込んだリウドルフの姿を視界に収めて慌てて彼の方へ駆け寄った。
 そして、美香はリウドルフの左肩に手を貸して、相手をどうにか引き起こす。
「馬鹿、近付くな! お前まで撃たれるだろうが!」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ!?」
 叱咤して来た相手へ錯乱気味に言葉を返すのと一緒に、美香はリウドルフを抱えて校門の方へと戻ろうとする。
 その最中、美香はリウドルフの傷の程度を、横目でちらと垣間見た。
 リウドルフの頭の左半分は頭皮がべろりと剥けて、その下の黒みを帯びた骨格が剥き出しになっている。頬の辺りで垂れ下がる皮膚の残骸を認めて、美香は表情を険しくした。
「……と、兎に角、急いで病院に……や、その前に警察……いや、まずは保健室にでも逃げ込めば……もう! 何でこういう時に限って、周りに誰もいない訳!?」
 うろたえながらも懸命に打開策を練ろうとする少女へ、隣からリウドルフが残された右目から冷めた眼差しを送る。
「いや、普通に歩けるからな、こっちは……そもそもお前が遅くまで残ってるから、こんな事に巻き込まれるんだろうが」
「はァ!? 何言ってんの!? 元を正せばあんたが……!」
 美香が抗議の声をそこまで上げた時、二人の向かいの車道を一台の車が近付いて来た。
「良かった! 誰か来てくれた! すみませーん!」
 リウドルフに肩を貸したまま、美香が雨を押し退けるように走る銀色のワンボックスカーへと手を振った。
 他方、その脇でリウドルフは眉根を寄せる。
「いや、駄目だろ、あれは……」
 果たして彼の呟いた通り、場に現れた車は両者から五メートル程の距離を隔てた先で矢庭に停車する。
「え……?」
 美香がいぶかる面持ちを浮かべた先で、そのワンボックスカーの中から六人の体格の良い男達が雨降る路上へと次々に現れ出でたのだった。いずれもが灰色の都市迷彩服に身を包み顔を黒いマスクですっぽりと覆った男達は、手に手にサプレッサー付きのライフルを抱えている。
 そして剣呑な様相の一行は車道を挟んでリウドルフと美香の斜交いに陣取り、手慣れた動作で武器を構え始めたのであった。
「……映画の、撮影……?」
 美香が上擦った声を漏らした脇で、リウドルフが鼻息をついた。
「……にしちゃ配役が雑過ぎる」
 その評を打ち消すかのように、車道の向こうで複数の銃器が一斉に火を噴いた。
「嘘……!」
 悲鳴を漏らした美香をリウドルフが咄嗟とっさかばい、銃撃はもっぱら彼の背や足に命中する。鞭打つような乾いた音が雨音の間に鳴り響いた。
 自身の足元にばらばらと転がる青いゴム弾を見下ろし、リウドルフはつまらなそうに呟く。
「……成程なるほど、近付いたら危険だと判ったんで、こういう手に打って出たって訳か」
 リウドルフは学校を囲う塀に美香を押し遣り、全身で彼女を覆うようにして飛来する銃弾から生徒を守った。
「だが、そろそろいい加減にして貰おうか……」
 それまでよりも低い声で言い捨てるなり、リウドルフは今も飛来する銃弾の方へと、振り向きざまに右手を翳したのだった。
 その刹那、金属同士をかち合わせたような甲高い音が、ひと気の無い通りに鳴り響いた。
 リウドルフの陰で、美香がふと顔を上げる。
 何処から届いたかも判らぬ、それは不可思議な音色であった。
 耳を引き裂くように激しくもあると同時に、酷く儚げで残響も無く消えてしまった音。
 その不思議な音が発生したのと時を同じくして、リウドルフの手首から先が吹き飛んだ。
 否、正確には手首から先の皮膚が弾け飛んだと言うべきであろうか。リウドルフの右手は今、皮膚も筋肉も削ぎ落とされて黒々とした骨格が露わとなっていたのであった。
 その瞬間、リウドルフに向けて撃ち込まれた弾丸は、ことごとくが空中で消失していたのであった。六つの銃口から一斉に発射された無数の弾は、かすかな銃声を残したのを最後に消滅し標的に着弾する事はついに無かったのだった。
 直前に奇妙な動きを見せた標的に、ロシアン・マフィアの男達は動ずる素振りものぞかせず更なる銃撃を加えた筈であった。銃口をそろえたライフルよりほぼ同時に撃ち出されたゴム弾が牙を突き立てるようにリウドルフへと襲い掛かり、間に遮蔽物も無い至近距離ではほぼ決定済みの事実として彼に命中した筈であった。
 それにもかかわらず、銃弾は地に落ちるでもなく標的を逸れて背後の壁にぶつかるでもなく、一切が綺麗さっぱり空中で消えて無くなったのである。直前の『撃った』という事実すらも打ち消すようにして、わずかな痕跡も残さずに完全に『消滅』したのであった。
 顔をマスクで覆い隠した襲撃者達が、にわかに狼狽の気配をにじませ始める。
「何度やっても同じだぞ」
 骨化した右手を翳し、リウドルフが冷ややかに宣言した。
 その様子を、ビルの屋上からミーシャとワーニャも捉えていた。
「何だ? 何をやってる? あいつ、ちっともこたえてないようじゃないか」
 双眼鏡をのぞき込んだミーシャがいぶかる横で、ワーニャは狙撃銃のスコープから目を離さずにぼそりと告げる。
「……もう一発、頭に当てる。それで倒れねえなら更にもう一発……野郎がつくばるまでだ」
 最早殺意を隠そうともしない物騒な発言に、だがミーシャも即座に反発はしなかった。
 と、その時、標的のたたずむ路地へ、新たに車の影が近付いたのであった。
 黒塗りのワゴンが一台、学校の角をほとんど減速せずに曲がると、ロシアン・マフィアの構成員達が陣取る路地へと真正面から肉薄した。
「あれは……?」
 双眼鏡から目を一度離し、ミーシャが怪訝けげんな表情を浮かべる。
 新たに戦場に現れた黒い車は、そのままリウドルフの下へとまっしぐらに突き進んだ。
 リウドルフと美香、そしてロシアン・マフィアの男達がそれぞれの眼差しを遣したその焦点で、車道を走った黒いワゴンはリウドルフの真横に乱暴に停車する。そして間髪を入れず後部座席のドアが開き、その中より円筒形の物体が歩道へ投げて出されたのだった。
 直後、その金属製の筒を起点として白く濁ったガスが勢い良く噴出し、付近の歩道と車道とをたちまち覆い尽くした。
「何これ……」
 呟いた美香は、すぐに焼けるような感覚を覚えて目元をこすり出す。
「熱い……やだ、何なの、これ……!?」
「クロロベンジリデンマロノニトリル……いわゆる催涙ガスだな。もやの外へ出ろ。急いで」
 そう促しながら、リウドルフは車道に停まった車を睨み据える。
 雨の中では勢いを大きく削がれてはいるのだろうが、噴霧されたガスはそれでも辺りを覆い、リウドルフと美香の前方には白濁した靄が濃く掛かっていた。そのもやを縫って、黒いワゴンからい出た複数の人影がリウドルフへと接近する。全員がガスマスクを装着した、屈強そうな男達である。
 一連のその様子を、少し離れた路肩に停車した黒塗りの高級車から中村は確認していた。
「よし。叔父貴の手前もある。死人だけは出すな。標的マト身柄ガラを抑え次第速やかにずらかるぞ」
 後部座席の窓から状況を眺め、中村は手元のトランシーバーへ指示を出した。
 しかる後、彼は白いもやに覆われた後方の歩道を一度だけ眺め遣る。
「……悪いな、ロシアのお仲間さんよ。生憎と、うちは売りさばけるものなら何でも取り扱うってのがモットーなんだ」
 煙の向こうから、ロシア語と思しき苦悶の声や罵声が相次いで聞こえて来る。異国の声が奏でる怨嗟の斉唱を背にして、リウドルフを取り囲んだ男達は一斉に彼へと掴み掛かった。
 自身に殺到しようとするまるで穏やかでない偉丈夫達を、当のリウドルフはつまらなそうに見遣った。体型も体格も、ロシアン・マフィアの構成員に比べて決して見劣りのしない荒々しい男達であった。
「どうして俺の周りには、誘拐犯だの拉致専門業者だのがこうも群れ集って来るのかねぇ……こっちから頼んだ憶えも無いってのに……」
 怯えも焦りも露程ものぞかせず、リウドルフは一人溜息を漏らした。
 その間に、催涙ガスの只中に平然とたたずむ片目の欠けた痩せた男へ中村の部下達は猛然と襲い掛かり、そして次の瞬間にはそろって後方へと弾き飛ばされたのだった。
 さながら見えぬ壁に頭から突っ込んだか、さもなくば透明な車にでもね飛ばされたかのように。
「おやおや……」
 リウドルフが少々意外そうに声を漏らす。その眼差しは倒れた男達ではなく、自身の隣にいつの間にか立っていた長身の人影へと据えられていた。
 長身の影が、付き従うようにそこにたたずんでいたのであった。
「お怪我はありませんか、テオさん?」
 かたわらで柔和そうな微笑をたたえる男、同僚たる月影司を見遣って、リウドルフは大して面白くもなさそうに鼻息をついた。

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