幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

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今宵もリッチな夜でした

その10

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 そして今日、美香は図書館の片隅で一人、分厚い資料をしかつめらしい面持ちで睨んでいたのであった。
 放課後に入ってからすでに多くの時間が流れ、館内も最早勉強を続ける生徒が数人を数えるのみとなっている。昼過ぎから降り出した雨は時を経る毎に勢いを増して行くようで、窓越しに外から届く雨音が重厚そうな書棚の並ぶ館内の端から端までを満たしていた。
 切れる事の無い雨の音が空気を支配する中、チャイムの音が唐突に鳴り響いた。
 下校時刻が来た事を確認して、美香は腰を上げる。
 そうしてかばんを肩に担ぎ、美香は図書館を後にしたのであった。
 渡り廊下を越えて校舎に戻ると、そこも同じく静寂が一杯にたたえられていた。
 何処にもすでに人影は無く、明かりの落とされた無人の教室を横手に、ぼんやりとした照明が何処までも真っ直ぐに伸び行く廊下を照らし出す。生憎の天気とあっては校庭から運動部の声が届いて来る筈も無く、校舎にはただ雨の音ばかりが染み渡る。
 その中を自身の生み出す弱い足音だけが、何処か物憂げに拡散して行った。
 美香はしばし、他に影も見当たらず、足音も伝わって来ない廊下を淡々と歩き続けた。
 果たして、『それ』がいつからそこにいたのか。
 初めからそこにいたのか。
 それとも、こちらを待っていたのか。
 詳しい事は何も判らない。
 ただ確かな事は、美香が廊下の行く手を見遣った時、少し前に痩身の人影がぽつんとたたずんでいたという事実のみであった。
 美香が右のまぶたをぴくりと動かした。
 程無くして少女はその者の横手へと差し掛かる。
 即ち、階段近くの窓から外の様子を眺めているリウドルフの下へと。
「もう少し待ってみた方がいいか……湿気を吸うと面倒だからなぁ……」
 雨天を見上げて何やらぶつぶつと呟いていたリウドルフは、そこで近付く美香に気付いたのか、そちらへと首を巡らせた。
「やー、また君か。今日は一人かね。どうかしたのかい?」
「……調べ物があったんです。て言うか、その変な喋り方、やめませんか? 全然似合ってないですよ」
「そうか? いや、そんな事ないだろ。陰で流行ってるって、絶対」
 美香が疲れたように指摘すると、リウドルフは一転して砕けた口調で切り返したのだった。
 どうしてこの人は、こうも平然と立っているんだろう。
 何故こうも平然としていられるんだろう。
 美香の胸中で、鋭くもか細い声が反響した。
 他方、リウドルフは美香へいささ悪戯いたずらじみた眼差しを向ける。
「んで? こんな遅くまで残って何を調べてたんだ? 彼氏の机でも漁ってたか?」
「……少なくとも、ギャグのセンスは無いみたいですね、先生って」
 少し不機嫌そうに答えた辺りで、美香はリウドルフの隣で足を止めた。
 窓の外では、暗さを刻一刻と増す灰色の空から、雨粒が刻々と降り続いていた。
 ガラスを滴り落ちる無数の水滴をしばし見上げた後、美香は隣に立つ痩身の男へと目を向ける。
「……どうして、あんな嘘をついたんですか?」
「嘘って、どの嘘の事だ?」
「三日前の事件の事ですよ」
 空とぼけて見せる大人へ、少女はひたぶるに真摯しんしな眼差しを向ける。
「人違いで借金取りに追い掛けられたなんて、何でそんな出鱈目でたらめな事言うんです? 大体どうしてそれが事実でまかり通っちゃったんですか?」
「そりゃ何事も方便だからさ」
 口先を尖らせて、リウドルフが居直ったように言い放った。
「考えてもみろよ、お前。全くの本音だけで世の中回したら、世界中が焼け野原に変わるまで紛争と戦争の繰り返しだぞ。道徳とか倫理なんてな初めはどれもとんでもない理想論、白々しい嘘を並べてこさえたもんだろうが。それが十年も経てば法律や常識として定着してくんだ。もちろん順守されるかどうかは別の話だが、今更目の前の事例一つを取り上げて声高にわめいてみた所で……」
「いや、それ論点のすり替えだから」
 完全に呆れた表情を浮かべて、美香はリウドルフへ詰め寄る。
「あたし、ほんと言うと、先生の事少し見直したんだよ?」
「そりゃどうも」
 ねたような美香の言葉に、リウドルフは特段の感慨も持ち合わせていないような口振りで謝辞を述べた。
 美香は、絆創膏ばんそうこうを付けた左手をちらと見遣った。
「まあ、その……結果として助けて貰ったし、傷の手当てもして貰ったし……」
 一瞬の躊躇ちゅうちょのぞかせた後、美香は視線を戻して言葉を続ける。
「……でも、やっぱり隠し事をしてるような人には気を許せない」
「そりゃ困ったね」
 やはり大した感慨も込めずに相槌を打ったリウドルフを、美香は真っ直ぐ見据えた。
「だから、きちんと説明して下さいよ、先生。あなたは本当はどういう人なんですか? どうしてマフィアに狙われたり、その事を有耶無耶うやむやにしなくちゃいけないんです?」
「聞いても話しても、面白い事なんか何も無いぞ」
 リウドルフはただ肩をすくめて見せた。
「それこそお互い何の得にもならない。世の中には知った所で何の値打ちも無い事ってのがある。出歯亀なんかみだりにするもんじゃないよ」
「でも……!」
 美香が更に何事かを訴えようとした矢先、リウドルフはそれまでよりも幾分か硬い声で告げる。
「俺はリウドルフ・クリスタラー。君が通っている高校でたまたま化学を担当してるしがない教師で、あと一二年もすればいなくなるほとほと影の薄い男だ。それでいいだろ」
 こちらを見下ろすリウドルフの瞳の奥に、その時、かすかに蒼く輝く光が灯ったように美香には思えたのであった。
 そしてそれきりリウドルフは沈黙した。
 窓辺にて無言でたたずむ二つの影を、ガラス越しの雨音が包み込む。
 灰色の空が、また暗さを増した。

 無人の校庭に雨は粛々と降り続いた。
 元より外で練習の行なえぬ日では運動部が長居している筈も無く、時刻の遅さもあって広い校庭にはすでに何の動く影も見当たらなかった。一階に置かれた職員室の付近にのみ明かりの灯った薄暗い校舎が、雨音が占めるばかりの敷地を見下ろしている。
 そこを今、二つの傘が寂れた校庭を横切り、校門へと向かって緩々と移動していた。
 先を歩いていたリウドルフは傘を肩に掛けると、すぐ後ろを歩く美香へと実に億劫そうに首を巡らせる。
「おい、何だって付いて来るんだ?」
 問われた美香は、にわかに口先を尖らせて反駁はんばくする。
「別に、追い掛けてなんかいないですよ。先生が勝手に人の前を歩いてるってだけでしょ?」
「何だそりゃ……」
 ぼやいてからまた傘を掲げ直し、リウドルフは歩き出す。
 その細い貧相な背中を、美香は斜め後ろからじっと見つめていた。
 結局何なんだ、この人は。
 美香はいぶかる気持ちが湧くのを抑え切れなかった。
 こんな時間まで居残っていたのは、一重にこの男の素性をどうにか探れないかと考えたが故である。図書館で教育統計年鑑を調べたのを皮切りに、医師名鑑、県内にけるあらゆる記録、果ては人名辞典まで読み耽ってみたが、わずかな手掛かりと呼べそうな断片的な情報すら見出す事は叶わなかった。
 正しく、骨折り損のくたびれ儲けという奴である。
 そしてこちらのそんな事情を一笑するかのように、くだんの人物が自分の目の前を億劫そうに歩いている。
 いささか鬱屈とした気分を抱える美香の周囲を、何処までも雨の音だけが囲っていた。
 その時、先を行くリウドルフがやおら首を持ち上げる。
「……しかし、あれだな、何をやってたのか知らんが、そこまで物事に集中出来る素質があるなら何かの部活に入ればいいのに」
「え……?」
 美香の顔と声が強張った矢先、リウドルフは肩越しに彼女へと振り返る。
「だから、部活はやらないのかね、君は? 如何にも体育会系が似合いそうな性格をしてるのに」
「べ……」
 リウドルフが遣したのは、皮肉と言えばそうであったかも知れない。しかるにそれはあまりにも投げ遣りで、恐らくは何の他意も無しに発せられた、ただの軽口であったと思われた。
 にもかかわらず、美香は咄嗟とっさに動揺の色を濃くおもてさらしていたのだった。
「……別にいいじゃない、そんな事……」
 相手の言葉を突っねながらも、美香はほとんど反射的に相手から顔を逸らしていたのであった。
「……わ、私の自由でしょ、放課後に何をしてようと……」
 返答にきゅうするというより、後ろから不意に脇腹でも刺されたかのように委縮する様子を見せた少女を男の方は腑に落ちない様子で眺めていたが、それでもじきに顔を前に戻した。
 美香は、ただ足元に目を落としていた。
 その眉間に、いつになく濃いしわを刻ませて。
 校門へと二人は近付いた。
 美香が敷居をまたぐのを確認してから、リウドルフは門扉を閉ざす。
 重々しい音が、人通りもまばらな通りに鳴り響いた。
 それからリウドルフは今も一人ねたような表情を保っている美香を見下ろし、元通りの教師としての指導を促した。
「じゃ、俺はまた買出し兼見回りに行くから、君は寄り道しないで真っ直ぐ帰りなさい。何分にも遅いからね」
「……はい」
 美香は目を落としたままうなずいた。
 それでも去り行く相手の姿をせめて最後に確認しようと、美香は顔を上げる。
 その時であった。
 リウドルフの傘が、突如として大きく引き裂かれた。
 次いで差と呼べる程の時間差も無く、リウドルフの頭に何かが衝突したのだった。
 眼前で人間の頭が蹴られたボールのように激しく揺れ動く光景を、美香は生まれて初めて目の当たりにした。まるで空気が爆発したかのように、乾いた音が雨天に鳴り響く。
 同時に余程の衝撃がリウドルフを襲ったのだろう。彼の側頭部の頭皮は毛髪ごと剥がれ、ずるりと垂れ下がって耳の脇にぶら下がる。それと一緒に彼の左の眼球が勢いよく飛び出し、路上に転がって硬い音を立てた。
「……せんせ……」
 頭から血の気が引いて行くのを実感した美香の耳元で、雨の音が無責任にはやし立てるように鳴り響く。
 半ば以上を引き裂かれ、骨の剥き出しとなった傘が路肩をころころと転がった。
 校門の横手を伸び行く、ひと気の無い車道での事である。
 周囲に建つ家々はいずれも未だ明かりも灯されてはおらず、表情の無い暗い窓を一様に並べていた。
 夕闇もまた冷徹にその裾野を広げようとしていた。
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