幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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今宵もリッチな夜でした

その5

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『目標発見』
『こちらも捕捉した』
『こちらも』
『周辺に人影多数』
『こりゃあ面倒な所に入り込まれましたよ』
『どうする? ひと気の無い場所まで誘導するか?』
『いや、そうやって撒かれたり、取り逃がしたりを他所よそでは繰り返して来たそうだ。即時拘束、即時撤収。退路は確保してあるんだ、率直に行くぞ』
了解イェスト・指揮官殿カマンジール!』
『作戦行動開始だ……!』

 それから程無くして、リウドルフは席から立ち上がった。
「じゃー、僕はまた巡回に戻るから、君達も夜遊びしないで帰りなさいね。警察沙汰にでもなった日には、すごーくみっともないからね」
「はーい」
「んじゃ、先生、また明日ー」
 昭乃と顕子が陽気に手を振って答える中、美香は小さく手を上げるに留まった。
 今日と言う日はこれで終わりである。
 少なくとも、自分の中ではそうだ。
 さっさと帰って、今日あった事などさっさと忘れてしまおう。
 美香がそう念じ、去り行くリウドルフの背を目で追っていた時の事であった。
 交差点の前を行き交う人波にわずかな乱れが生じた。
 往来する人の列を裂いて、オープンカフェの前に屈強そうな二人の男が現れ、リウドルフの行く手をさえぎったのである。
 昭乃と顕子が互いの顔を見つめて再び談話に興ずる中、場の変化に気付いたのは美香一人だけであった。
 怪訝けげんな表情を浮かべた美香の見つめる先で、細身のリウドルフの前に立ち塞がった肩幅の広い白人二人は、剣呑そうな眼光をちらつかせながら、それでも笑顔で彼へと話し掛ける。
「クリスタラーさん、ですね?」
「ワタシタチ、ロシアタイシカンからマイりました。あなたのゴコウメイをウカガい、ワタシタチのクニのタイシ、ゼヒあなたとゴメンカイをなさりたいそうです」
 たどたどしい日本語が偉丈夫二人の口元から漏れ出て、交差点前の雑踏のざわめきにたちまち溶け消える。
「ねえ、ちょっと、あれ……」
 尚もお喋りを続ける友人二人へ呼び掛けるのと一緒に、美香は椅子から腰を浮かせていた。
 直後、リウドルフは人波の真っ只中で唐突に叫んだ。
「オウ!! アイキャンノットスピークジャパニーズ!! スピーク、ジャーマニー!!」
 突然上がった素頓狂な叫びに辺りを行き交う人々は無論の事、オープンカフェの客達もそちらへ視線を一斉に向ける。
「何? どうしたの?」
「今のクリス? てか、あの人達、誰?」
 昭乃と顕子がようやく事態に気付いた時、美香の丁度正面で、リウドルフの前に立った男の一人がジャケットのポケットから何か細長い物体を素早く取り出した。
「せんせ……!」
 椅子から腰を上げた美香が、思わず上擦った声を漏らす。
 その男、サーシャが取り出したのは細長い形状の注射器シリンジ、即ちダーツ型の麻酔弾であった。不意打ちに等しいリウドルフの奇声に表情こそ歪めたものの、サーシャは何ら迷いの無い動作で、掌中の麻酔弾を標的の左上腕部へと一息に突き刺した。
 人だかりの中での事とは言え、何が起こっているのかをきちんと把握出来た者は少なかった。
 事態の推移を当初から目撃していたのは、詰まる所、美香一人であった。
 その美香が見つめる先で、リウドルフは自分の腕に突き立てられた麻酔弾へ一瞬だけ目を向けたが、次の瞬間彼は身をひるがえして二人のロシア人の前から走り去ったのだった。
「え? 何? どうしたの、ちょっとマジで?」
 顕子が混乱気味に喚く中、美香は席を蹴って立ち上がった。
「ちょっ、ちょっと、警察! 警察の人呼んで来て、早く!」
「わかっ……って、あんた、何処行くの!?」
「先生を追ってみる! 怪我してるみたいだもん、あれ!」
 尋ねて来た昭乃へそう告げるが早いか、美香は人垣を裂いて走るリウドルフと、それを追う二人の闖入者の追跡し始めた。
 未だ事態をはっきり呑み込めずにいる帰宅途中の人々の列の間を、やはり事態がさっぱり掴めないまま少女は男達の後を追う。
 あたし、こんな所で何やってんだろ?
 やっぱり、あんなのと係わるんじゃなかった。
 夜空の下で人いきれをき分けながら、美香は腹の底から後悔するのと一緒に、
一連の巡り合わせを心の底から後悔した。

 薬局や文房具店、駄菓子屋など小規模な店舗の並ぶアーケード商店街へ、美香は踏み込んだ。
 仕事帰りの人々が、ついでの買い物に出入りを繰り返す商店街は交差点と同じくらいに混んでおり、先を走っていたリウドルフの姿はおろか、二人の追手の後姿も容易に見定められなかった。
 それでも半ば人の流れに乗る形で、美香は商店街を早足に進む。星の無い夜空をめ込んだ透明なアーチがずっと前方まで頭上を覆う商店街は、商店の出入口から漏れ出す照明と支柱の街灯の光とが混じり合い、眩いばかりに往来する人を照らしていた。
 その中で、美香は目当ての人物を何とか見付け出そうと四方へと視線を配る。
 直前の様子では、何処かで騒ぎが再び起こっていても不思議ではない。場のかすかな変化も見逃すまいと、美香は集中して辺りを見回した。
 そして、彼女が激安衣料品店の前を通り過ぎた時であった。
 店と店の間にあるわずかな隙間から細い腕が不意に伸びて美香の襟を掴むと、そのまま店の隙間の陰へと有無を言わさず引きり込んだのであった。
「きゃ……!」
 突然の事に悲鳴を漏らし掛けた美香は、だが、目の前に立っている相手を見て声を途切れさせた。
 細い暗がりに立っていたのは、追っていたリウドルフその人であった。
 元々乱れ気味だった金髪を更に乱し、壮年の教師は何やら不服そうに眉根を寄せて、眼前の女生徒を見下ろす。
「何やってんだ、お前は? わざわざこんな所まで来て」
 日頃の、そしてつい先程までの態度とは随分とかけ離れた、実にぞんざいな口調で非難めいた質問を浴びせられ、美香は半分やけになった口調で切り返す。
「何って、先生を追っ掛けて来たに決まってんでしょ!? 突然あんな騒ぎ起こして……」
 と、そこまで言い募った所で、美香はリウドルフの左腕に今も刺さったままのダーツ型麻酔弾へ目を留める。
「って、先生、それ! それ!」
 指差した美香に促され、リウドルフも自身の左上腕部に突き刺さった異物へ目を向ける。
「ああ……」
 狼狽うろたええる美香とは全く対照的に、まるで興味が無さそうに麻酔弾を見遣ると、リウドルフは右手で無造作に『それ』を引き抜いた。
 そうして彼は表通りからかすかに差し込む光にシリンジの部分を透かし、やはりつまらなそうに独白する。
「ケタミンか……野良犬を捕獲するんじゃあるまいし、こんな物まで持ち出して中毒でも起こしたらどうする積もりだ? いや、依存症にでもなってくれた方が、後で言う事を聞かせ易いとでも踏んだのか……」
 呟いた後、リウドルフは自身に突き刺さっていた麻酔弾をスーツの内側へと仕舞しまった。
「だ、大丈夫なんですか……?」
 美香が不安げに訊ねると、リウドルフは首を縦に振る。
「この程度じゃな。試した事は無いが、大型動物用麻酔薬エトルフィンでも打ち込まれない限りは……いや、それでも欠伸あくびも出ないかな、今更」
「な、何だかよく判んないけど、大事おおごとになってなくって良かったです……」
 美香が息をつきながら言う向かいで、だが、リウドルフは気難しそうに面持ちを硬くする。
「いや、まだ大事にならないとは限らないんだよ。後ろを見てみな」
 言って、リウドルフは美香の後方を親指で指し示す。
 促された美香が肩越しに振り返ってみれば、商店街の表通りを行き交う人の間に、見覚えのある顔が行き来するのが確認出来た。
 先程交差点前でリウドルフと悶着を起こした外国人、及びその仲間と思われる外国籍と一目で判る男達が人込みを定期的に行き来している。彼らのおもてには一様に焦りが浮かんでおり、携帯型トランシーバーらしき物へ時折何事かを鋭い口調で話し掛けていた。
 商店の隙間からその様子を眺める内、美香は肩の辺りに冷水が浸透するような薄ら寒い感覚がにじむのを覚えたのであった。
「何なんですか、あの人達?」
「見た所スラブ系だな。となるとロシアン・マフィアの下っ端か、それとも……」
「マ……マ、マ、マ、マフィア!?」
 リウドルフが事務的に述べた推測を、美香の上擦った声が重ね塗った。
「なな何でマフィアなんかに狙われるんですか!?」
「そりゃあ……」
 驚愕するのと一緒に食って掛かる美香の前で顎先に手を当てたリウドルフは、しかし途中で言葉を切ると、暗がりにたたずかたわらの少女を目端からちらと見下ろす。
「……説明してやる義理は無い」
「義理って……教師としての義務があんでしょ、あんたには! 生徒に隠し事してる教師なんて最低だ!」
「おいおい、生徒会長みたいな事言い出すなよ、こんな所で」
 にわかに憤慨する美香へ呆れた口調で言い返してから、リウドルフは表通りで尚も索敵を続けるマフィア達へと億劫そうに眼差しを向けた。
他所よそへ行かない所を見ると、結構な人数で周囲を固めてると見るべきか……大人しく隠れてりゃ、その内やり過ごせるかとも思ったが、そう甘くもなさそうだ。まして、こっちは余計なのがいるしなぁ……」
「余計なので悪かったね……全く、心配して損した」
「俺もだ。こんな事になるなら、気まぐれなんか起こさなきゃ良かったよ。休憩時間中に学校に戻らないとまた教頭から睨まれるし……」
 頬を膨らませる美香の隣で、リウドルフはふと息をつく。
 その後、彼はおもむろに隣に立つ少女へ、億劫そうな様子はそのままに再び目を向ける。
「取りえず俺が出てって奴らの注意を惹くから、君はその間に逃げなさい。今度こそ寄り道なんぞしないように」
「え……」
 囮になると言い出した相手を、美香は一転して不安そうに見上げる。
「……けど、先生はどうするんですか? て言うか多分、昭乃達が警察を呼んでくれてると思うから、大人しく待ってれば助けが来るんじゃ……」
 美香の述べた推論に、しかしリウドルフは首を横に振る。
「たとえそうなったとしても、向こうも仮にもプロだからな。そこらの巡査の一人二人が駆け付けてくれた所で大人しく退くかどうか……どうも、それなりに修羅場をくぐってる軍人崩れぞろいのようだ」
 表通りをうろつく男達は相互に連絡を絶やさず取り続けている為か、包囲の幅を少しずつ狭めているようであった。先程よりも頻繁に往来を歩き回る追手の姿を認めて、リウドルフは両目を細める。
「こっちから何か頼んだ訳でもないのに、こんな所まで押し掛けて来るとは熱心な事だ……何を吹き込まれているのか知らんが、幻にすがる程さもしい人生を送っている訳でもあるまいに……」
 リウドルフがそこまで言った時、彼らが身を潜める路地の隙間にさっと影が差した。通りの方へと顔を向けた美香は、そこで矢庭に表情を引きらせる。
 くだんのロシアン・マフィアの一人が店と店の間に立ち、その隙間に身を隠していた二人の姿を正に見付けた所であった。
「おやおや……」
 何処か他人事のように、リウドルフが顔を上げて呟いた。
 その正面で、男が通りの仲間達の方へと何事かを叫ぶ。
 荒々しい声と共に、無数の足音が路地裏の彼らを目掛けてたちまち殺到した。
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