13 / 13
十三
しおりを挟む
田山と別れた後、沙耶子は駅近くの公園に立ち寄った。
傾き始めた日差しは未だ暑く、熱せられたコンクリートの道を歩いて帰る気力を削がれた。涼を求めて木陰のベンチに座った。
青々とした芝生の生命力が眩しい。
一体私は何をしたいのだろう。どうするべきなのだろう。
ここ数日の出来事を反芻しては自問自答を繰り返す。泥沼に嵌まったように前に進まない。
沙耶子は泣きそうになって、通行人に気付かれまいと、汗を拭うふりをして顔を隠した。
「奥さん?」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、清水が立っていた。
濃紺の細身のスーツを纏い、よく磨かれた焦茶色の革靴を履き、左手には革の鞄。髪を軽く撫で付けたその様は、とてもスマートである。
清水は一言断りを入れて、沙耶子の隣に腰掛けた。
「顔色が悪いですよ」
「そう。ちょっとね……」
「もしかして」
田山にあったんですか、と清水は問うた。
沙耶子は頷いて、今日の出来事のあらましを話した。しかし、田山が目撃したという主人と清水の行動については伏せた。
清水は溜め息を吐いて、首を横に振る。
少し大袈裟なその仕草も、端正な顔立ちの清水がすると何故か様になった。
「アイツは真面目を具現化した様な男です。だけど口が上手い。父親だと思って慕っていた、なんて都合の良い嘘でしょう」
もう一度、やれやれといった風に首を横に振った。
微風に乗って、整髪料の匂いが沙耶子の鼻をくすぐった。
田山には実際に両親の写真を見せてもらって父親と主人の雰囲気が似ている事は、沙耶子も確認している。
嘘にしては準備が良すぎるのではないか。
「奥さん、大丈夫ですか」
清水の茶色い瞳が覗き込む。
不思議な魅力のそれに吸い込まれそうな感覚。見詰めてはいけないと思い、咄嗟に目を逸らした。
「今日は、日曜日ですのにお仕事でしたの?」
清水が初めて会った時とは対照的な、ビジネススーツを着ている事を思い出した。
「ええ、まぁ。どうしても今日しか都合がつかない相手だったもので」
「それはご苦労様ね」
清水が微風に吹かれて少しずれた前髪を、左手で撫で付けた。
太陽の日にキラリと光ったものが、沙耶子の目を射る。
それは腕時計であった。
見ると、十二時と五時の所に青色の石が埋め込まれている。
綺麗ね——
紳士用の腕時計は父親と主人のものしか見た事がなかったが、どちらも革のベルトに何の変哲もない文字盤だった様に思う。
「これはトルコ石ですよ。自分は十二月五日生まれなので、その数字の場所に埋めてもらったんです。特別品ですよ」
「まぁ、素敵ね」
腕時計を顔の前に掲げて、清水はニコリと微笑んだ。
トルコ石の鮮やかな青色が、清水の好青年な雰囲気とよく合っていた。
帰宅した沙耶子は、帰りが遅いと心配していたタエに小言を食らった。
夕食と入浴を済ませ、早めに床に就く。
疲れているはずなのに、何故か目が冴えて眠れない。
ふと、ベッド脇の机に一冊の冊子が置いてあるのに気が付いた。主人の日記帳であった。書斎に戻すのを忘れてそのままにしていたのだ。
沙耶子はそれを手にとって、一ページずつ捲る。
仕事の記録が多いが、沙耶子との行動も書かれた日記帳。心身ともに疲れた今、主人との生活が思い出されて、感傷に浸るには十分過ぎる内容であった。
(これは何かしら——)
ある日の記録に「※革の名刺入れ」とメモが書かれていた。
暫く読み続けていると、今度は「●●」と黒く塗りつぶされた文字が度々登場する様になった。
沙耶子を悩ませる、愛人らしき人物の存在である。
忌々しく睨みながらページを捲っていると、また「※セイラーの万年筆」「※ネクタイとチーフ」等とメモ書きがあった。
どうやら、これらは私塾の生徒へのお祝いに送った品物のメモらしかった。
こういったものまで日記帳に記入する几帳面さはあの人らしいわ、と懐かしんで捲ったページに、目が釘付けになった。
鼓動の音が内耳に響いて五月蝿い。深く呼吸が出来ない。背中に嫌な汗が流れた。
そのページには「※トルコ石の時計 ●●へ」と書かれていた。
日付けは十二月五日であった。
傾き始めた日差しは未だ暑く、熱せられたコンクリートの道を歩いて帰る気力を削がれた。涼を求めて木陰のベンチに座った。
青々とした芝生の生命力が眩しい。
一体私は何をしたいのだろう。どうするべきなのだろう。
ここ数日の出来事を反芻しては自問自答を繰り返す。泥沼に嵌まったように前に進まない。
沙耶子は泣きそうになって、通行人に気付かれまいと、汗を拭うふりをして顔を隠した。
「奥さん?」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、清水が立っていた。
濃紺の細身のスーツを纏い、よく磨かれた焦茶色の革靴を履き、左手には革の鞄。髪を軽く撫で付けたその様は、とてもスマートである。
清水は一言断りを入れて、沙耶子の隣に腰掛けた。
「顔色が悪いですよ」
「そう。ちょっとね……」
「もしかして」
田山にあったんですか、と清水は問うた。
沙耶子は頷いて、今日の出来事のあらましを話した。しかし、田山が目撃したという主人と清水の行動については伏せた。
清水は溜め息を吐いて、首を横に振る。
少し大袈裟なその仕草も、端正な顔立ちの清水がすると何故か様になった。
「アイツは真面目を具現化した様な男です。だけど口が上手い。父親だと思って慕っていた、なんて都合の良い嘘でしょう」
もう一度、やれやれといった風に首を横に振った。
微風に乗って、整髪料の匂いが沙耶子の鼻をくすぐった。
田山には実際に両親の写真を見せてもらって父親と主人の雰囲気が似ている事は、沙耶子も確認している。
嘘にしては準備が良すぎるのではないか。
「奥さん、大丈夫ですか」
清水の茶色い瞳が覗き込む。
不思議な魅力のそれに吸い込まれそうな感覚。見詰めてはいけないと思い、咄嗟に目を逸らした。
「今日は、日曜日ですのにお仕事でしたの?」
清水が初めて会った時とは対照的な、ビジネススーツを着ている事を思い出した。
「ええ、まぁ。どうしても今日しか都合がつかない相手だったもので」
「それはご苦労様ね」
清水が微風に吹かれて少しずれた前髪を、左手で撫で付けた。
太陽の日にキラリと光ったものが、沙耶子の目を射る。
それは腕時計であった。
見ると、十二時と五時の所に青色の石が埋め込まれている。
綺麗ね——
紳士用の腕時計は父親と主人のものしか見た事がなかったが、どちらも革のベルトに何の変哲もない文字盤だった様に思う。
「これはトルコ石ですよ。自分は十二月五日生まれなので、その数字の場所に埋めてもらったんです。特別品ですよ」
「まぁ、素敵ね」
腕時計を顔の前に掲げて、清水はニコリと微笑んだ。
トルコ石の鮮やかな青色が、清水の好青年な雰囲気とよく合っていた。
帰宅した沙耶子は、帰りが遅いと心配していたタエに小言を食らった。
夕食と入浴を済ませ、早めに床に就く。
疲れているはずなのに、何故か目が冴えて眠れない。
ふと、ベッド脇の机に一冊の冊子が置いてあるのに気が付いた。主人の日記帳であった。書斎に戻すのを忘れてそのままにしていたのだ。
沙耶子はそれを手にとって、一ページずつ捲る。
仕事の記録が多いが、沙耶子との行動も書かれた日記帳。心身ともに疲れた今、主人との生活が思い出されて、感傷に浸るには十分過ぎる内容であった。
(これは何かしら——)
ある日の記録に「※革の名刺入れ」とメモが書かれていた。
暫く読み続けていると、今度は「●●」と黒く塗りつぶされた文字が度々登場する様になった。
沙耶子を悩ませる、愛人らしき人物の存在である。
忌々しく睨みながらページを捲っていると、また「※セイラーの万年筆」「※ネクタイとチーフ」等とメモ書きがあった。
どうやら、これらは私塾の生徒へのお祝いに送った品物のメモらしかった。
こういったものまで日記帳に記入する几帳面さはあの人らしいわ、と懐かしんで捲ったページに、目が釘付けになった。
鼓動の音が内耳に響いて五月蝿い。深く呼吸が出来ない。背中に嫌な汗が流れた。
そのページには「※トルコ石の時計 ●●へ」と書かれていた。
日付けは十二月五日であった。
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

【完結】共生
ひなこ
ミステリー
高校生の少女・三崎有紗(みさき・ありさ)はアナウンサーである母・優子(ゆうこ)が若い頃に歌手だったことを封印し、また歌うことも嫌うのを不審に思っていた。
ある日有紗の歌声のせいで、優子に異変が起こる。
隠された母の過去が、二十年の時を経て明らかになる?
やさしい首
常に移動する点P
ミステリー
長谷川修平の妻、裕子が行方不明となって二日後、遺体が発見された。首だけが近くの雑木林に放置されていた。その後、同じ場所に若い二人の男の首が遺棄される。そして、再び雑木林に首が。四人目の首、それは長谷川修平だった。
長谷川の友人、楠夫妻は事件の参考人として警察に任意で取り調べをうけたことで、地元住民から犯人扱いされる。定食屋「くすのき」も閉店せざるを得なくなった。
長谷川夫妻の死、若い男二人の死、四つの首が遺棄された雑木林。
楠夫妻の長男、真一は五年後自分の子供にもふりかかる汚名を
ぬぐうため、当時の所轄刑事相模とともに真犯人を探す。
※この作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
夜の動物園の異変 ~見えない来園者~
メイナ
ミステリー
夜の動物園で起こる不可解な事件。
飼育員・えまは「動物の声を聞く力」を持っていた。
ある夜、動物たちが一斉に怯え、こう囁いた——
「そこに、"何か"がいる……。」
科学者・水原透子と共に、"見えざる来園者"の正体を探る。
これは幽霊なのか、それとも——?
昭和レトロな歴史&怪奇ミステリー 凶刀エピタム
かものすけ
ミステリー
昭和四十年代を舞台に繰り広げられる歴史&怪奇物語。
高名なアイヌ言語学者の研究の後を継いだ若き研究者・佐藤礼三郎に次から次へ降りかかる事件と災難。
そしてある日持ち込まれた一通の手紙から、礼三郎はついに人生最大の危機に巻き込まれていくのだった。
謎のアイヌ美女、紐解かれる禁忌の物語伝承、恐るべき人喰い刀の正体とは?
果たして礼三郎は、全ての謎を解明し、生きて北の大地から生還できるのか。
北海道の寒村を舞台に繰り広げられる謎が謎呼ぶ幻想ミステリーをどうぞ。
強制憑依アプリを使ってみた。
本田 壱好
ミステリー
十八年間モテた試しが無かった俺こと童定春はある日、幼馴染の藍良舞に告白される。
校内一の人気を誇る藍良が俺に告白⁈
これは何かのドッキリか?突然のことに俺は返事が出来なかった。
不幸は続くと言うが、その日は不幸の始まりとなるキッカケが多くあったのだと今となっては思う。
その日の夜、小学生の頃の友人、鴨居常叶から当然連絡が掛かってきたのも、そのキッカケの一つだ。
話の内容は、強制憑依アプリという怪しげなアプリの話であり、それをインストールして欲しいと言われる。
頼まれたら断れない性格の俺は、送られてきたサイトに飛んで、その強制憑依アプリをインストールした。
まさかそれが、運命を大きく変える出来事に発展するなんて‥。当時の俺は、まだ知る由もなかった。
どんでん返し
井浦
ミステリー
「1話完結」~最後の1行で衝撃が走る短編集~
ようやく子どもに恵まれた主人公は、家族でキャンプに来ていた。そこで偶然遭遇したのは、彼が閑職に追いやったかつての部下だった。なぜかファミリー用のテントに1人で宿泊する部下に違和感を覚えるが…
(「薪」より)
コドク 〜ミドウとクロ〜
藤井ことなり
ミステリー
刑事課黒田班に配属されて数ヶ月経ったある日、マキこと牧里子巡査は[ミドウ案件]という言葉を知る。
それはTMS探偵事務所のミドウこと、西御堂あずらが関係する事件のことだった。
ミドウはマキの上司であるクロこと黒田誠悟とは元同僚で上司と部下の関係。
警察を辞め探偵になったミドウは事件を掘り起こして、あとは警察に任せるという厄介な人物となっていた。
事件で関わってしまったマキは、その後お目付け役としてミドウと行動を共にする[ミドウ番]となってしまい、黒田班として刑事でありながらミドウのパートナーとして事件に関わっていく。
ミノタウロスの森とアリアドネの嘘
鬼霧宗作
ミステリー
過去の記録、過去の記憶、過去の事実。
新聞社で働く彼女の元に、ある時8ミリのビデオテープが届いた。再生してみると、それは地元で有名なミノタウロスの森と呼ばれる場所で撮影されたものらしく――それは次第に、スプラッター映画顔負けの惨殺映像へと変貌を遂げる。
現在と過去をつなぐのは8ミリのビデオテープのみ。
過去の謎を、現代でなぞりながらたどり着く答えとは――。
――アリアドネは嘘をつく。
(過去に別サイトにて掲載していた【拝啓、15年前より】という作品を、時代背景や登場人物などを一新してフルリメイクしました)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる