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彼は鬼クルー
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明治三五年の初夏。
広瀬は戦艦朝日に赴任した。
春に露国から帰国し、休暇や残っていた仕事を終えてからの赴任であった。久々の艦隊勤務である。役職は水雷長であった。
彼は役職の他に関心を寄せているものがあった。
端艇競漕である。
『三笠』『朝日』『敷島』『初瀬』『八島』『富士』
主要戦艦対抗の端艇競漕が幾度か開催されていた。各艦の対抗意識は相当で、大いに盛り上がった。
この競漕に、勝ち気な性質の広瀬が食いつかない訳がなかった。
毎回『朝日』は負けていた。しかし、それが却って広瀬を刺激したのだ。
「競うからには勝たねばならない」
広瀬による熱血指導が始まったのであった。
しかし、今まで勝てていなかったチームがすぐに勝てる様になる筈もなく、負けが続いた。
にも関わらず、広瀬は競漕開始前に
「今日は勝ちます。きっと勝ちます!」
と大きな声で宣言するのだ。
主要艦隊対抗レースであるから、各艦長のみならず長官も同席してる。そこで高らかと勝利を宣言するのだが、結果は振るわず。『朝日』の艦長は面目が立たない、と止めて欲しそうであった。
負け続きにもへこたれず、広瀬の熱血指導は続いた。
毎朝、起床から朝食までの小一時間、熱心に指導にあたった。
艇員達はこれまでとは段違いの熱の入った指導と練習に戸惑っていたのだが、回を重ねる毎に慣れ、また熱が入る様になった。
「水雷長も乗られるのですか」
「あぁ。言葉だけでは分からんだろう。ほら、オールをよこせ」
時より広瀬自身も端艇に乗って艇員達に親しく指導をする事もあった。
最初こそ熱心・熱血に指導する様を五月蝿く思っていたが、シャツの袖を捲り上げて汗まみれになって下士官と共に練習に励むこの士官を、皆憎めなくなっていたのだ。
ある日、下士官の食事の場に広瀬が顔を出した。
何事かと思っていると、艇員達の食事内容を確認して回っている。
もっと食え、等と一言二言零して、去って行った。
その数日後である。
また、広瀬が食事の場に現れた。
今度は何だ、と思っていると、手に持った籠から卵を取り出し、配り始めた。
「栄養をつけろ。力になるものを食え」
そう言って一度きりならず、何度も卵を艇員達に配って回ったのだ。
卵は当時、高級食材であった。
下士官の給料では頻繁に口にするのは難しい。普段の食事でさえ、貯金や家族の仕送りに回す為に、内容をケチる者もいるのだ。
広瀬は少佐であるからと言って、こんなに頻繁に多量の卵を振舞っていて平気なのだろうか。
一人の下士官が聞いた。
「こんなに何度も頂いて良いのですか」
「俺には養う相手が居ないからなぁ」
と言って、はにかんだのだった。
広瀬の熱心な指導によって、『朝日』の競漕の成績は向上していった。
明治三六年七月に開催された主要艦隊の競漕では、惜しくも二位であった。
競技終了後、広瀬は艇員を甲板に集めた。
「負けてしまったのは致し方ない。だが、次こそは一層奮励努力してこの恥を雪いでくれ」
頬を熱涙が伝っていた。
あまりにもの情熱に黙りこくる者も釣られて涙を流す者もいた。
今回の競技開始前も、広瀬は勝つぞ勝つぞ、と騒いでいた。
慕われる事の多い広瀬だが、勿論万人に好かれる訳はなく、性格の相性が悪く嫌われたり不仲な者も存在する。
「水雷長は兵学校にいた時から既にカッターには五月蝿かったそうだぞ」
「カッターだけじゃないぜ、きっと。当時の号長だった人とは今でも犬猿の仲と聞くし」
「そりゃきっと佐藤中佐の事じゃないか。あんな大人しそうな人に嫌われるなんて相当だよ」
佐藤中佐とは佐藤鉄太郎中佐の事である。広瀬の一期上に当たる。
佐藤とは後々和解する事になるのだが、それはまた別のお話——
「俺はカッター艇員じゃないからよく分からんが、あんなに五月蝿く指導されて嫌にならないのか」
一人の下士官が不思議に聞いた。
「まぁ、最初はなぁ」
「でも、不思議と嫌いにはなれないんだよ。実際、競漕の成績は上がってるしなぁ」
勝つぞという宣言が現実になろうとしている。
これまで負け続けても、仕方がないと割り切っていたが、順位が上がって勝利が目前に迫る喜びと快感を知ってしまったから、もう以前には戻れない。
多くの艇員がこういった風であった。
端艇の指導のみならず、毎度の合戦準備の演習において、広瀬は真っ先に飛び出して遅れをとっている所を自ら手伝っていた。『朝日』は新しい仕様の戦艦であったので慣れず扱い辛かったらしいのだが、広瀬が赴任し加わってからというものメキメキ早くなり、仕舞いにはほぼ毎度『朝日』が一番に旗を掲げる様になった。
やるぞと決めたら手が抜けぬ男なのだ。
端艇競漕も合戦演習も、士気を高める為に熱血を注いでいたのは広瀬だけではない。
しかし、(あぁ『朝日』の広瀬ね——)と多くの者が認知する程に抜きん出て目立っていた。
「鬼クルー」
広瀬の熱血指導が故に付いたあだ名である。冗談抜きで怖いのだ。
さて、九月の事である。
またも艦隊対抗の端艇競争が開催された。
これまた広瀬は、勝つぞ勝つぞと宣言し、艇員達を鼓舞していた。
いざ競漕が始まり、端艇が一斉に飛び出した。オールが波を切ってぐんぐんと進んで行く。
優勝もあり得るぞ、と思ったが、相手の端艇もかなり強かった。
負けてたまるかと全員一所懸命、必死でオールを漕いだ。皆力いっぱい漕いでいて、余力は少なくなっていた。眩暈はするし、耳も塞がってしまった様に機能しない。吐きそうだ。もうこのままオールを手放してしまいたい——
ゴールまであと少しの所で相手に抜かれてしまった。
これまでか、と思った時であった。
「コラァ、萎えるなっ。気張れェ!」
突如、広瀬の激烈で猛烈な叱咤の大声が艇員の耳を貫通した。
鬼クルーが叫んでいる!
皆、気つけ薬を飲まされた様に回復し、残った力をこれでもかと振り絞ってオールを漕いだ。
抜かれた端艇を抜き返し、一着でゴールを決めた。
ついに、宣言通りに『朝日』が優勝を納めたのであった。
競技後の『朝日』乗員の歓喜っぷりは凄まじかった。
艇員に至っては喜びのあまりに、あの鬼クルー広瀬を胴上げしたのだ。
「ワッショイ、ワッショイ!」
掛け声に合わせて、広瀬のがっしりと締まった大きな体躯が宙に浮いた。
その後は艦長を含め艇員全員で優勝旗を囲んで記念写真を撮った。
競漕で優勝したらかといって、広瀬の熱血指導が止んだ訳ではない。
チャンピオンの旗を奪われてなるものか、と熱血指導は続いた。
因みに、佐世保で行われたマラソン競争においても、『朝日』が一着優勝を決めた。
勝因の一端は言わずもがな、である。
『朝日』の甲板には獲得した優勝旗たちがはためいていた。
戦争が始まる直前のお話。
終
広瀬は戦艦朝日に赴任した。
春に露国から帰国し、休暇や残っていた仕事を終えてからの赴任であった。久々の艦隊勤務である。役職は水雷長であった。
彼は役職の他に関心を寄せているものがあった。
端艇競漕である。
『三笠』『朝日』『敷島』『初瀬』『八島』『富士』
主要戦艦対抗の端艇競漕が幾度か開催されていた。各艦の対抗意識は相当で、大いに盛り上がった。
この競漕に、勝ち気な性質の広瀬が食いつかない訳がなかった。
毎回『朝日』は負けていた。しかし、それが却って広瀬を刺激したのだ。
「競うからには勝たねばならない」
広瀬による熱血指導が始まったのであった。
しかし、今まで勝てていなかったチームがすぐに勝てる様になる筈もなく、負けが続いた。
にも関わらず、広瀬は競漕開始前に
「今日は勝ちます。きっと勝ちます!」
と大きな声で宣言するのだ。
主要艦隊対抗レースであるから、各艦長のみならず長官も同席してる。そこで高らかと勝利を宣言するのだが、結果は振るわず。『朝日』の艦長は面目が立たない、と止めて欲しそうであった。
負け続きにもへこたれず、広瀬の熱血指導は続いた。
毎朝、起床から朝食までの小一時間、熱心に指導にあたった。
艇員達はこれまでとは段違いの熱の入った指導と練習に戸惑っていたのだが、回を重ねる毎に慣れ、また熱が入る様になった。
「水雷長も乗られるのですか」
「あぁ。言葉だけでは分からんだろう。ほら、オールをよこせ」
時より広瀬自身も端艇に乗って艇員達に親しく指導をする事もあった。
最初こそ熱心・熱血に指導する様を五月蝿く思っていたが、シャツの袖を捲り上げて汗まみれになって下士官と共に練習に励むこの士官を、皆憎めなくなっていたのだ。
ある日、下士官の食事の場に広瀬が顔を出した。
何事かと思っていると、艇員達の食事内容を確認して回っている。
もっと食え、等と一言二言零して、去って行った。
その数日後である。
また、広瀬が食事の場に現れた。
今度は何だ、と思っていると、手に持った籠から卵を取り出し、配り始めた。
「栄養をつけろ。力になるものを食え」
そう言って一度きりならず、何度も卵を艇員達に配って回ったのだ。
卵は当時、高級食材であった。
下士官の給料では頻繁に口にするのは難しい。普段の食事でさえ、貯金や家族の仕送りに回す為に、内容をケチる者もいるのだ。
広瀬は少佐であるからと言って、こんなに頻繁に多量の卵を振舞っていて平気なのだろうか。
一人の下士官が聞いた。
「こんなに何度も頂いて良いのですか」
「俺には養う相手が居ないからなぁ」
と言って、はにかんだのだった。
広瀬の熱心な指導によって、『朝日』の競漕の成績は向上していった。
明治三六年七月に開催された主要艦隊の競漕では、惜しくも二位であった。
競技終了後、広瀬は艇員を甲板に集めた。
「負けてしまったのは致し方ない。だが、次こそは一層奮励努力してこの恥を雪いでくれ」
頬を熱涙が伝っていた。
あまりにもの情熱に黙りこくる者も釣られて涙を流す者もいた。
今回の競技開始前も、広瀬は勝つぞ勝つぞ、と騒いでいた。
慕われる事の多い広瀬だが、勿論万人に好かれる訳はなく、性格の相性が悪く嫌われたり不仲な者も存在する。
「水雷長は兵学校にいた時から既にカッターには五月蝿かったそうだぞ」
「カッターだけじゃないぜ、きっと。当時の号長だった人とは今でも犬猿の仲と聞くし」
「そりゃきっと佐藤中佐の事じゃないか。あんな大人しそうな人に嫌われるなんて相当だよ」
佐藤中佐とは佐藤鉄太郎中佐の事である。広瀬の一期上に当たる。
佐藤とは後々和解する事になるのだが、それはまた別のお話——
「俺はカッター艇員じゃないからよく分からんが、あんなに五月蝿く指導されて嫌にならないのか」
一人の下士官が不思議に聞いた。
「まぁ、最初はなぁ」
「でも、不思議と嫌いにはなれないんだよ。実際、競漕の成績は上がってるしなぁ」
勝つぞという宣言が現実になろうとしている。
これまで負け続けても、仕方がないと割り切っていたが、順位が上がって勝利が目前に迫る喜びと快感を知ってしまったから、もう以前には戻れない。
多くの艇員がこういった風であった。
端艇の指導のみならず、毎度の合戦準備の演習において、広瀬は真っ先に飛び出して遅れをとっている所を自ら手伝っていた。『朝日』は新しい仕様の戦艦であったので慣れず扱い辛かったらしいのだが、広瀬が赴任し加わってからというものメキメキ早くなり、仕舞いにはほぼ毎度『朝日』が一番に旗を掲げる様になった。
やるぞと決めたら手が抜けぬ男なのだ。
端艇競漕も合戦演習も、士気を高める為に熱血を注いでいたのは広瀬だけではない。
しかし、(あぁ『朝日』の広瀬ね——)と多くの者が認知する程に抜きん出て目立っていた。
「鬼クルー」
広瀬の熱血指導が故に付いたあだ名である。冗談抜きで怖いのだ。
さて、九月の事である。
またも艦隊対抗の端艇競争が開催された。
これまた広瀬は、勝つぞ勝つぞと宣言し、艇員達を鼓舞していた。
いざ競漕が始まり、端艇が一斉に飛び出した。オールが波を切ってぐんぐんと進んで行く。
優勝もあり得るぞ、と思ったが、相手の端艇もかなり強かった。
負けてたまるかと全員一所懸命、必死でオールを漕いだ。皆力いっぱい漕いでいて、余力は少なくなっていた。眩暈はするし、耳も塞がってしまった様に機能しない。吐きそうだ。もうこのままオールを手放してしまいたい——
ゴールまであと少しの所で相手に抜かれてしまった。
これまでか、と思った時であった。
「コラァ、萎えるなっ。気張れェ!」
突如、広瀬の激烈で猛烈な叱咤の大声が艇員の耳を貫通した。
鬼クルーが叫んでいる!
皆、気つけ薬を飲まされた様に回復し、残った力をこれでもかと振り絞ってオールを漕いだ。
抜かれた端艇を抜き返し、一着でゴールを決めた。
ついに、宣言通りに『朝日』が優勝を納めたのであった。
競技後の『朝日』乗員の歓喜っぷりは凄まじかった。
艇員に至っては喜びのあまりに、あの鬼クルー広瀬を胴上げしたのだ。
「ワッショイ、ワッショイ!」
掛け声に合わせて、広瀬のがっしりと締まった大きな体躯が宙に浮いた。
その後は艦長を含め艇員全員で優勝旗を囲んで記念写真を撮った。
競漕で優勝したらかといって、広瀬の熱血指導が止んだ訳ではない。
チャンピオンの旗を奪われてなるものか、と熱血指導は続いた。
因みに、佐世保で行われたマラソン競争においても、『朝日』が一着優勝を決めた。
勝因の一端は言わずもがな、である。
『朝日』の甲板には獲得した優勝旗たちがはためいていた。
戦争が始まる直前のお話。
終
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