おじさんも恋をする

村上いおり

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生まれた町でのこと

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そこには人工呼吸器をつけた母が横たわっていた。

俺は驚くでもなく悲しむでもなく、
ただただ茫然と何も感じないかの様に母を見つめていた。

先生や看護師から声を掛けられた事は覚えているのだが、
何を話しかけられて何と返答したのかまるで覚えていない。

母とは親子という言葉だけが切れそうな関係を繋ぎとめてくれていた様な関係だった。

死に目に会えるとも思っていなかったし、
死に目に会いたいとも思っていなかった。

ただ、人は必ず死ぬ。

現実を目にするとどうにも冷静ではいられない自分がいるのが本音だった。
 
立ちすくんでいると、
先生から『手を握ってあげてください』と手を掴まれ導かれた。

母の手を握るのは何年ぶりだろうか…
恐らくずっとずっと、昔…小学生の頃だろうか。

こんなにも婆さんになっていたのか。

俺は言葉を発することもなく、
反応もしない母の手をただ握り続けた。

すると俺の頭の中に小さな頃の記憶が自然と蘇り始めた。
 
決して裕福ではないどちらかといえば貧乏な家庭だった。

今では少なくなった長屋の古いアパートで俺は育った。

壁をなぞればボロボロと土が崩れ落ちる土壁で古汚いバランス釜と呼ばれるお風呂。

食事だってスーパーのタイムセールのお惣菜が並ぶのがやっとだった。
 
倒れる少し前の母は精神安定剤に溺れて生活保護で暮らしていた。

正義感があり真面目だった母親も父親の蒸発を境に自分自身を保つことを諦めたかのうように崩壊していった。

ことあるごとに借金を重ね昔とは別人のようになり俺も親戚も距離をとるようになった。

正直、軽蔑していた。

どうして、こんな母親の元に産まれてしまったのだろうと、
どうすることも出来ない現実に後悔さえした。

でも、後少しで母は死ぬ。

そう思うと少しだけ自分の気持ちが素直になっていった。
 
そんな家庭でありながら母は俺を塾に行かせ習い事に行かせ自分とは同じ人生を歩ませまいと必死だったのが子供ながらに伝わってきていた。

俺を愛してくれていての事だと、
子供の頃には分からなかった。

いや、分かっていて素直になれなかっただけだ。

そういえば、お願いにお願いを重ねて父には内緒でテレビゲームだって買ってくれたことだってあった。

今となれば金の出所はどこだったのだろう。

そういう俺の我儘も借金を作ってしまった原因なのだろうか。

馬鹿な俺は片づけるのを忘れて寝てしまい案の定、
父に見つかって信じられないほど殴られたことがある。

でも、必死に母は俺のことをかばってくれた。
身体をはって守ってくれた。

この子が欲しいと言ったんじゃないと言ってくれた。

修学旅行が近づいたり…俺の誕生日が近づくと夜のスナックのバイトが増えた。

お金が無いなりに、どこのメーカーか見たこともないが新しい服だって買ってくれた。
真っ赤なパーカーに大きな龍の刺繍に青ざめたあの日。

当時は何も感じなかったことが、
今になってものすごい大きな愛情だったのだと分かる。

分かり過ぎて素直になれなかった自分の心が痛い。

父親が蒸発した時にきっと、
繋ぎとめていた心が壊れてしまったのだろう。

理解しようと思ったこともなかった。
 
優しかったじゃないか。
必死で愛してくれていたじゃないか。
 
俺は薬漬けでおかしくなってしまった母だけを見て全てを否定してしまっていた。

面倒だと逃げた。

自分自身が生きていくので精一杯だと。

あんなにも愛情を注いでくれていたのに…無性に自分自身が情けなくなった。

自然と涙がこぼれはじめて気づいたら力強く母の手を握りしめていた。

自分の愚かさに最後の最後まで言葉をかけることが出来なかった。

それから数時間後…母を静かに息を引き取った。

死に際を見届けたのは俺だけだった。

母には友人や懇意にする親戚は一人も周りに残っていなかった。
 
何一つ親孝行出来なかった。

俺の心を深いを後悔が包み込み、
黒い絵の具で染められていくような気持ちだった。

赤や黄色に青…全てを真っ黒に。

元々、色鮮やかな人生ではないかと自分でさらに真っ黒に塗り上げる。

病院から近くのホテルに帰る途中、
空を見上げていると暗闇に吸い込まれそうでハッとコンビニの街灯に目をやった。

すると閉店間際の花屋を見つけた。

彼女という存在が一気に俺の心にいっぱいの光を注いでいてくれている様だった。

俺は品定めをするでもなく一直線にアンスリウムに手を伸ばした。

彼女が俺のことを守ってくれたんだと素直に感じた。
 
俺は母の死と彼女との出会いが重なったこの頃から…少しずつ正しい感覚を失っていってしまった様な気がする。
 
翌日から俺は母の葬式の準備で慌ただしくしていた。

ささやかでも良いから式を開きたいと思った。

それが俺に出来る最初で最後の親孝行だと思ったからだ。

そんな時だ、母の弟で昔から素行の悪い伸治兄さんが現れた。

小学生位の頃に姿を見なくなってからはヤクザにでもなったのだろうと親戚で噂になっていたが、
まさこのタイミングで会うことになるとは。

でも少年時代の俺には優しく、
スポーツが得意でとても好きなお兄さんだった。

『お前の母親の世話に金が相当かかってな…分かるだろ?』

当時、野球をしたりして遊んでくれていた爽やかな叔父の姿はそこにはなかった。

俺は反抗することも言葉を荒げることもなく
『幾ら必要なんですか?』と答えた。

久しぶりの再会に敬語を使わなくていけない状況に少し寂しく、
苛立ちも同時に覚えた。

結局、持ち合わせていた3万ほどの現金を渡してその場を帰ってもらった。

前を向こうとした気持ちを強く踏みにじられたようだった。

畳をただただ強く踏み締めて堪えた。
 
母の遺影を見ながら俺は死に際に抱いた感謝の気持ちも忘れて、
自分の上手くいかない人生に嫌気が差していた。

ダメな人生はずっとダメだ。

這い上がることなど…出来ない。

明るい世界を生きられるのは、決められた人間なのだと。

馬鹿らしい。

俺は反抗の出来ない地面を何度も何度も踏みつけた。
 
電車で帰る途中…

俺はホームで何本も電車を見送った。

飛び込める勇気があったなら。

終わらせたい気持ちと恐怖が俺の心の中を交差する。

臆病な俺は何の希望もない平凡な生活に戻ることを選択した。

弱い人間だ。
 
絶望の最中、俺はふと彼女が勤める花屋の前を通ってみようかとも思ったが…
辞めた。

何もかも嫌な気持ちになっていた。

それから数日間、俺は会社を初めて無断で会社を休んだ。

そんな時だ玄関のチャイムが鳴ったので会社の人間だと思い、
丁度良い機会だもう会社は辞める告げようとドアを開けると伸治兄さんが立っていた。
 
『金を貸してくれないか?』

俺はとにかく大きなため息をついた。

疲れているでもなく、苛立つわけでもなく、とにかく大きな落胆だった。

お金はもう無いと答えると俺を払いのけて部屋に靴のまま上がり込んできた。

反抗する気力もなかった。

俺はただただ部屋の中を物色する彼のこと眺めていることしか出来なかった。

奪うか奪われるか。

こんな大人になってもそんなことが目の前で起きている。

机の上に無造作に置いてあった現金をグチャグチャにしてポケットにつっこみ
『借りただけだから』
と、一言だけ残して伸治兄さんは出て行った。

俺は無気力になり力が抜けて、
その場に膝から崩れ落ちて横たわり煙草に火をつけた。

煙が天井へと舞い上がり灰は顔に落ちた。

何も考えなかった…考えることが出来なかった。

もう、どうでもいい。
 
俺は眠ることも出来ず、
とにかく酒でも飲もうと冷蔵庫を開いたがちょうど切らしていた。

コンビニでも行くか。

その時は酒でも飲まないと、
とてもじゃないが平常心を保つのが難しくなっていた。

俺はふらふらと歩きながら、自分の運命呪っていた。

やっぱり何もかもが上手くいかない。

俺の人生はどう歩もうとそういう人生なんだと深く落胆していた。

今日は何故かコンビニの光りが強く輝いて見える。

コンビニに入ると、
いつも通りの日常が流れていた。

無論、虚ろな顔をしていようが、
俺のことを気にかける人間はいない。

誰か相談する様な人間がいたら俺の運命は変わっていたのだろうか。

過去を振り返っても現実は変わらない。

その時だ。

あの後ろ姿は…

心臓の鼓動が激しくなり目が離せなくなった。

まぎれもなく、そこにいたのはともちゃんだった。
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