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第五章:その後
アンジェロ
しおりを挟むアンジェロは引見に応じ、近況報告のためにクレマンの元を訪れていた。
委細は報告書を読むからいい。私室に案内され早々に始めたアンジェロのその報告も閣下から止められた。ではなぜ自分は呼び出されたのだろうか?
そこでクレマンから本件の全容が語られた。
そして今、クレマンの正面に腰掛けたアンジェロは激しく脱力していた。それはもう再起不能なほどに。両手で目元を覆っている。
「‥‥つまり、要約しますと、本件は僕の縁談だった‥と?」
「まあその側面もあったな。」
満面の笑みを浮かべて茶を啜るクレマンにアンジェロはいっそ殺意を浮かべて睨み返した。
アナスタシアは事情は知らないが縁談と理解していた。つまりアンジェロだけが縁談と理解していなかったのだ。
話が全然違う!
クレマンからアナスタシア王女殿下の警護を依頼され、事情を話さぬままに婚約を申し入れたその日。
アンジェロはアナスタシアを見て凍りついていた。
姿絵はすでに見ていたのだが、おそらく三年前のものだったのだろう。姿絵にあったあどけない少女の姿はそこになかった。
二十になり美しい女性になっていた王女はアンジェロを見て目を瞠っている。そして表情がくるくると変わる。
姿絵ではわからない生き生きとした輝かんばかりの美しい表情に、きらきらと輝く虹色の瞳に、アンジェロは魅入られていた。
なるほど。これは執着されるわけだ。その時アンジェロは犯人の犯行心理を理解したのだが。
クレマンがにこやかに口を開く。
「お前は殿下の婚約者候補の最終選考には残っていたのだ。毎回な。」
「は?」
「だが年下という理由で最後にはねられた。年上なら五歳も七歳も問題ないとされたのにな。」
「は?」
「お前は早熟で精神年齢が高い。きっと殿下に付き添えると私は信じておった。」
「‥‥僕は殿下の婚約者に名乗りをあげておりませんでしたが?」
勝手に進むクレマンの話をなんとか押し留める。
「私が推薦した。」
そんな話、全く聞いていない!本人の了解もなく何を勝手に!
「僕に誰か意中の女性がいたらどうしたのですか?!約束を交わした相手もいるやもしれませんが?」
「おらなんだろ?あのような血生臭いことに夢中で手を染めているあたり、そんなことはないと理解しておった。」
三年前、誘拐されたアンジェロのクズ従兄弟をアンジーが助け出した。
この世界では誘拐イコール死亡。身代金を払っても助かることはほぼない。そんな中ので救出劇だったため、裏でクチコミが広まりその手の依頼が舞い込むようになった。
人質救出も攻撃的警護も最初はアンジーが好きでやっていたことだったが。その内アンジェロも狂ったように敵を狩りに出た。警護という正義のもとに己の手を血に染めることで自分の『死神』としての存在意義を見出したかったのかもしれない。
今思えば虚しいことをしたと反省している。
救出されたクズ従兄弟は救出後、アンジェロがボコボコにしてどこかに捨ててきた。運が良ければ生き残っているかもしれない、程度の話だった。
早熟?精神年齢で言うなら確かに高い。アンジーの影響だ。アンジーの精神年齢は三十二歳。アナスタシアより十二も年上だ。おかげで精神年齢だけで言うなら歳が離れた兄妹とも言える。
だからだろうか。これほどに保護対象に感情移入してしまったのは。
慈愛?庇護欲?そう錯覚させるほどの感情に。
外に出られない。
アナスタシアの心的障害を知りアンジェロは心を痛めていた。
ここまで殿下を追い詰めた害意が許せなかった。せめてこの心的障害からお救いしなければならない。
ゆっくり進めるつもりだった。だから毎日少しずつ面会し王女の心を部屋から外に向けさせようとしたのだが。
予想以上に自分の気持ちが殿下に向かってしまった。
この任務が完了すれば婚約は解消される。
全ての害意が取り除かれれば新しい婚約者の元に殿下は笑顔で嫁がれる。
もう殿下に会えなくなる。
それはとても悲しい、死別に似た別れだと思った。
だからせめて殿下の記憶に自分を留めたかった。
衝撃の体験。一生かかっても忘れない体験の引き金に自分がなろう。そうすればそのことを思い出すたびに自分を思い出してもらえる。
その焦りでつい外へ導くタイミングが性急になってしまった。無理を通したせいかアナスタシアの表情が青ざめていた。
まだ早い。理性ではわかっていたが、気持ちが制御できなかった。
愛している、は言えない。自分は血で穢れている。
だからせめて守ると言おう。
全身全霊でこの方をお守りする。それが今の僕にできること。
震える両手に触れるのもこの時が初めて。抱きつかれたのも初めてだった。
仮初の婚約。抱きしめることはできない。せめて頭に手を乗せる程度。これくらいは許されるだろうか。
そしてアンジェロはアナスタシアに、我儘に無理を強いた罪を心中で懺悔していた。
アンジェロは正面の老人を見やり何度目かの深いため息をついた。
「なぜこのような回りくどいこと?」
「まあ警護の依頼と抱き合わせにすればお前は必ず殿下に求婚しただろう。殿下からは求婚できない。お前が申し出なければ婚約は整わなかったのだからな。」
「回りくどすぎます!」
あれが?あの警護依頼のやりとりが全部演技?どれだけ面の皮が厚いのか。そしてなんという名優ぶり。疑いもしなかった!
「縁談の話をただ出しだだけではお前は受けなかっただろう?」
確かに。宰相閣下の命だとしても全力で逃げていただろう。
「まあ婚約が整わなくてもよかった。殿下の害意が取り除かれるか、せめて引き篭もりからお救いできるだけでもよかった。私としてはどちらに転んでもよかったのだ。よもや全てうまく運ぶとは思わなんだよ。」
くつくつと嬉しそうに笑う老獪な宰相をアンジェロは疲れたように見やった。
アンジェロは早い段階で自分の状況がまずいと理解した。
保護対象に恋をした。
それは禁忌だ。警護に支障をきたす。冷静な判断が下せない。だから全て封印しようとした。
だが毎日面会すれば恋心が募る。この心を見透かされそうで怖かった。
だから侯爵家当主の仕事という言い訳で面会を断った。距離をとろうとしたが、それも時すでに遅かった。会わなければさらに恋心が募る。
いっそこの気持ちに気がつかなければよかった。
だが気が付いてしまった。もう逃れられない。
さらに側にいないことでアナスタシアの身辺が気になった。
こうしている間にも奴の魔の手が伸びるかもしれない。城の守りは硬いが加護が封印されるだけ。身を忍ばせて近づくことは容易い。ひっそりと魔の手が伸びるかもしれない。
ぞわりと全身が逆立つ。
結局その恐怖にも耐えられず一日と空けずに面会に来ていた。
「ではなぜ今、そのことをお話しくださったのでしょうか?」
宰相閣下は策士だ。きっと他にも墓場まで持っていく案件をお持ちだろう。本件もそうすればよかったのに、わざわざアンジェロに真意を伝えた。
もう似たような案件が多すぎて抱えきれなくなったのだろうか?
クレマンは手のひらでするりと顔を撫でる。
「いやの、お前が気にしておるようだったからな。保護対象に手を出した、と。」
アンジェロはぐっと言葉を詰まらせる。
その通りだ。
「それはこちらがお膳立てしたのだから気にする必要はない。あの殿下と婚約して落ちなかったのならお前を男として疑っていたところだよ。状況に流されたと気に病んでおったろう?」
アンジェロはぐっとみぞおちに痛みを覚える。
その通りだ。
「婚約披露も盛大に行った。始まりはどうであれ気持ちが通じたのならそのまま婚礼をあげればよい。お前は気にせずその流れにただ流されておれば良いのだ。」
アンジェロは顔を伏せる。
この精神攻撃はいつまで続くのだろうか?
仮初の婚約のはずなのに盛大に婚約披露をおこなったあたりで気がつかない自分も自分だ。
警護のためという言い訳があったにしろ、毎日面会し城内を自由に連れまわし、挙句領地にまでかっ攫ってしまった。それが許されたあたりでさすがに疑うべきだ。
いや、疑うことを放棄していたんだ。
ラクロアにアナスタシアを迎え庭園を案内しながらアンジェロは遠い目をしていた。
いずれ婚約は解消される。それを思い煩う日々を放棄した。そんなことで今日を煩わせたくない。
今は殿下と共にいられる。その一番の幸せを謳歌しなくてはならない。でなければきっとあとで後悔する。そう言い聞かせる。
刹那主義。そうかもしれない。
殿下にそう指摘されたが、でもこの刹那を大切にすることで未来が明るくなるとも思えなかった。
だから未来を考えることを放棄したんだ。
「アンジェロ様を信頼しております。」
アナスタシアのその言葉にアンジェロの心が躍った。
真実を語った後、部屋から駆け出すアナスタシアの後ろ姿に打ちのめされた。これほどの絶望を知らなかった。仕事と割り切れず自分の行いを悔やみ罵った。
そこからのあの言葉だった。泣いてしまいそうだった自分をぐっと抑える。
作戦のための婚約だったのに、騙したのに自分を嫌わないでくれた。
ずっとお側に控えたい。この方をお守りしたい。
そう思うも次の瞬間絶望した。目の前で誰かと添い遂げた殿下の幸せを見続ける。
お別れを申し上げるとのとどちらが辛いだろうか。
どちらも修羅の地獄だ。
血に穢れた自分に相応しい場所。
どちらも同じ地獄なら選択はただ一つ。
血の涙を流して僕はそれを受け入れる。
自分のものにならないのなら
誰のものにもならなければいい
仄冥い思いがアンジェロの中に広がる。
同じように思う男はあと何人いるのだろうか。
今回の害意を退けてもまた新しい害意が現れるかもしれない。
否、自分がそれにならないと言い切れるだろうか。
嫉妬にまみれ狙撃用ライフルを手に婚約者候補に狙いを定める自分があっさり思い浮かべられて慄然とした。
それは闇堕ち。そちらに行ってはいけない。
それではあの狂信者と一緒だ。
天使が悪魔になる。
堕天とは存外容易いものなのかもしれない。
震えながらそう思った。
この後アナスタシアの差し出した手をアンジェロは取った。
アンジェロが闇に堕ちることはなかった。
クレマンと別れアナスタシアの部屋に向かう。
婚礼を一年待ってほしいと願い出たのは身長もあるが、自分の気持ちを整理するためでもあった。
もうずっと、いつ死んでもいいと思っていた。
誰かを守り死ぬことも、このまま死んだように、死神のように生きるよりは幸せかと思っていた。
守った誰かの心に残れるならそれでいい。
そんなふうに己の命を粗末にした自分に生きる望みができた。心から愛し守りたいと思う存在ができた。
それはこの身に過ぎたる望み。手の中のものを未だに信じられなかった。だからあのまま激情に流されて結ばれても何もかも壊れてしまいそうで怖かった。
今でも焦がれる気持ちは変わらない。でもだいぶ冷静にはなれたと思う。
王女の部屋を訪れればアナスタシアが輝く笑みで迎えてくれた。侍女たちは下がっていった。
「お仕事はもう終わったのですか?」
「はい。終わりました。お待たせいたしました、殿下。」
そう言えばアナスタシアはぷくっと頬を膨らませた。
「二人だけの時は殿下呼びは止めるお約束です。」
「すみません、つい癖で。アニア様。」
四歳年上で十二歳年下の愛らしい婚約者は名前呼びに無邪気に微笑む。アンジェロは茶を入れながら考える。
この愛しい婚約者の心をずっと自分に留めるためにはどうすればいいのだろうか。
それは衝動ではなく怜悧で残酷な策略。絶対に逃れられない包囲網を張る。
「何か悩み事ですか?」
俯くアンジェロにアナスタシアが気遣う。
アンジェロは目を細め苦笑した。
殿下にはなんでも見透かされてしまう。
この冥い心でさえ。
「いえ、アニア様の御心をどのようにしたら自分に向けられるか考えておりました。」
素直にそう答えれば王女はぼっと顔を火照らせる。
ああ、なんて可愛らしく愛おしいのだろう。本当に。
「そんなの、ずっと側にいてくださるだけで充分ですわ。」
頬を染めそう言うアナスタシアにアンジェロは眩しげに目をすがめる。
自分はもっと悪どい策を考えていたのに、殿下はあっさりと自分を光の中に引き戻す。
守っていたつもりなのに、本当の意味で自分はこの方にこれほど守られていた。
きっと出会った最初からそうだったのだろう。
この方こそ僕の『守護天使』なのだから。
アンジェロは天使を抱きしめてそっと口づけた。
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