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✠ 本編 ✠
050 幸せな日々③
しおりを挟む「トリシャ?トリシャ?」
そっと囁かれトリシャの意識が浮遊した。ゆっくりと目を開ければ気遣わしげに自分を見下ろすクリフォードと目があった。自分は眠っていたのだろうか?見ていた夢のせいかとても幸せな気分だ。
夢と現実が混濁している。そのせいで記憶があやふやだ。一つ一つ思い出していく。
確かクリフォード様と馬車で話をして気持ちが通じ合って、家に戻ってきて、それから———
脳裏に生々しい情事が一気に駆け抜けてトリシャは羞恥で目を伏せた。上掛けをかぶっているがクリフォードとトリシャは裸のままだ。身動ぎすれば膣内にどろりと溢れ出す感覚もある。クリフォードがトリシャの中で果てた証だ。
クリフォード様と本当に結ばれた。嬉しい。
どこか夢見心地で頬を染めるトリシャをクリフォードが気遣う。
「トリシャ?大丈夫か?」
「‥‥‥私、寝てしまいましたか?」
「少しだけだ。気分はどうだ?やりすぎてしまったな。久しぶりで思いが通じて色々嬉しくて抑えが利かなかった。すまない。ぼぅとしてるな、本当に大丈夫か?」
「夢を」
「ん?」
「夢を見ました」
それは幸せな夢だ。
夢の中、庭に二人の男性が立っていた。
視線が高いから自分は抱き上げられているのだとわかる。そのうちの一人、年若い青年が無愛想に正面の老人と話していたが、トリシャに気がついて蕩けるような優しい笑顔を向ける。その青年が自分を受け取り抱き上げてくれる。愛されている、笑顔が嬉しくて小さな手でその首に縋りついた。
そして視界にもうひとりの男性。満面の笑みを浮かべたその男が今まで自分を抱き上げていたとわかった。もう一人の老人はダグラス。記憶のダグラスより少し若々しく見える。ダグラスもやはり目尻に笑い皺を浮かべトリシャの頭を撫でてくれている。それがとてもくすぐったい。
トリシャが何かを喋ったのだが、それを聞いた目の前の二人が驚いた顔をしていた。耳元で吹き出すような笑い声が聞こえた。自分を抱き上げる手がトリシャの頭を撫でる。大きな手に撫でられて嬉しくて目の前の頬にトリシャは唇を寄せた。
その手の主、
トリシャを抱き上げる黒髪の青年は——
「夢にクリフが出てきました。髪が長い」
「———なんだって?」
「私を抱き上げて素敵な笑顔で、私はとても嬉しくて幸せで」
「トリシャ?」
「不思議な夢ですね。髪が長いクリフなんて」
「それは夢じゃない。昔の私だ」
「‥‥‥‥え?」
その言葉にトリシャが目を瞠る。トリシャがクリフォードに出会った十歳の頃、記憶に残るクリフォードの髪はすでに短かった。
「君に初めて出会った頃は髪を長く伸ばしていた。おそらく私が十八か十九、じいさんに弟子入りした頃だ。君は六歳か七歳だな。昔を思い出したのか?」
クリフォードとは以前から出会っていたと言われていたが記憶を失いその実感もなかった。だが昔の断片の夢を見て、改めて自分は幼い頃にクリフォードと出会っていたのだと、あれ程可愛がってもらっていたのだとトリシャは愕然とした。
「思い‥出したのでしょうか?」
思い出したという程のことではない。場所もわからず音もなく映像だけ。でもくすくったいくらいとても幸せだった。それはわかる。ならばもう一人いた優しい笑顔のあの人は———
「夢に‥‥父がいました」
「ああ、お父さんは君をいつも連れていたから。自慢していたよ、とびきり可愛い娘だって」
父の記憶はほとんどない。僅かな記憶ではいつも部屋で仕事をしていた。母を亡くした自分は父にとってはお荷物だと思っていた。だから売られたのだと。
ダグラスから父は自分を愛していたと聞いていた。絶対に手放すはずがないと。だがその記憶もなく実感はなかった。売買契約書にあった父のサインだけが脳裏にこびりついていた。だが夢を見て、自分が幼い頃の父を思い出し、実際は自分は父にこれほどに愛されていたとわかった。
「父が‥私を‥」
涙が溢れ出す。それは滂沱となりトリシャは堪らず声を出して泣き出した。両手で涙を拭っても止まらない。
「トリシャ」
「ごめんなさい‥でも嬉しくて」
クリフォードに優しく抱き寄せられその胸に縋り付く。クリフォードにもダグラスにも自分はあんなに愛されていた。それなのに自分はそれを忘れて怯えてばかりだった。あの幸せな日々をなぜ忘れていたのだろうか。忘れてしまってはなかったことと同じだ。
「無理に思い出さなくていい。記憶がなくても君は皆に愛されていた。それは事実だから」
トリシャのその心さえ読んだようにクリフォードに宥められる。クリフォードはトリシャのそんな心情さえ理解してしまう。
ああ、そうだ。忘れてしまっても誰かが憶えている。その事実は消えない。なくなったりしないんだ。
クリフォードがくすりと甘い笑みをこぼした。
「私も思い出した。君が可愛くてな、大の男が三人で小さな姫を取り合ってちやほやしたよ。私にもじいさんにも家族に女の子がいなかったからトリシャが可愛いんだろうと話してたが君のお父さんが親バカで『トリシャは格別に可愛いからだ!』って譲らなかったな。皆で誰がトリシャに一番好かれているか言い争っていたよ。ああ、そういえば」
クリフォードが目元を手で覆い珍しく笑いをかみ殺している。
「なんですか?」
「もう一つ思い出した。君は私の嫁になると言っていたな」
「‥‥‥‥え?」
「『クリフォードおじさまのお嫁さんになる』って。じいさんとゲイル‥君のお父さんが猛反対してたな。二十前の男におじさまはないだろうと衝撃を受けたが、幼い君には確かに私はおじさんだなと吹き出した記憶がある。懐かしいな。そこは覚えてないか?」
記憶はまったくない。音声はないがあの映像がその時だったのだろうか。だが先程の夢が何故あれほど幸せだったのか、わかったような気がした。と同時にトリシャの顔に熱が集まりばふんと真っ赤になった。
記憶をなくしてもまた同じ人に恋に落ちていた。全てを忘れた十歳の自分は無意識にわかっていたのかもしれない。
おそらく当時のクリフォードの愛情は慈愛、それでも幼い自分はそれを愛と感じ取っていたのだろう。今の自分にない大胆さにトリシャは愕然とうめき声を上げた。子供故とはいえ当時の自分は羞恥心がなかったのだろうか。
「クリフォード様をおじさま?!お嫁さん?!えぇぇ?!全然!私ったらなんてことを?!」
「君はあの頃からマセてたな。まさか今日こんな展開になるとはあの頃は思いもよらなかったよ。トリシャ、私の妻になってくれてありがとう。生涯大事にする」
「私も‥ありがとう‥ございます」
あの頃の三人のうち二人はもういない。
でもあなたが私の手を引いて導いてくれた。
私と出会ってくれて、私を守ってくれて、
私を愛してくれてありがとう。
クリフォードの腕の中は温かい。
トリシャはそっと目を閉じてその温もりに身を任せた。
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