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嫉妬
しおりを挟むある世界に「七つの大罪」なるものがあった。
傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲。
それはこの世界にはないものだが、その世界の倫理観から悪しとされたもの。それぞれの謂れはわかる。そう説かれれば確かに罪かもしれない。
ただ一つだけ。嫉妬。これは罪なのだろうか?
妬みは羨望と、愛憎は愛情と表裏一体。嫉妬を罪というのであれば、対である羨望や愛情も悪となってしまうのではないか。何も知らない幼い俺はそう思っていた。
ブリュンヒルデを知るまでは。
レオンハルトは訝って王妃を見ていた。
夜の王妃の寝室。目の前にはレオンハルトの王妃、ディートリントが立っている。いつもと様子が違う。というか最近様子がおかしい。グライド・アニス夫妻と面会してからずっと。日中多忙な合間を縫って面会してもその様子が窺えた。
ディートリントの『魅了』が強くなったという言い訳のもとに王妃の周りから異性を排除し後宮に閉じ込めた。その罪悪感から面会を許可したのだが‥‥。
愛妻と同席の条件をつけたがやはりグライドに会わせたのはいけなかったか。レオンハルトの心がざわついた。
「妃殿下とのお時間をもう少しとってください。」
グライドにそう言われ猜疑の目を向けた。
グライド夫妻が王妃と面会した。そして先に出てきたグライドをすぐに執務室に呼びつけた。王妃の『魅了』にかからなかったか確認するために。かかっていたらこいつをどうしていただろうか。
「あれが何を言った?」
「何も。忘れました。」
目を閉じて静かにそういうグライドにむっとなった。
「俺に言う前に忘れるな。思い出せ。」
「申し訳ありません。もう忘れましたので、妃殿下にご確認を。」
こいつは普段こういうやつではない。
わざと俺を煽っているのか?なぜ?
「殺されたいのか?」
「ご随意に。」
変わらず澄ますグライドにどす黒いものを抱いたが、目を閉じてそれを押さえ込み下がらせた。ディートの『魅了』にかからなかった事を良しとしたが、面会自体が面白くなかった。
公務で連日遅くなりディートに会えない夜が続いた。どす黒いものを抱えたまま堪えた。だから今晩、ディートにそのことを質そうと思い通ってきたのだが。
今日はなぜか茶の用意がされている。これから寝るのに?香りからすでにいつでも飲めるように茶葉まで蒸らされているのがわかる。そして王妃は下を向いてもじもじしている。
茶をこれから飲むのか?なんで恥じらっている?
王妃は手に何か持っているのがわかる。そして茶。何か飲ませたいのか。わかりやすい。だが意図がわからない。
レオンハルトの心に再び黒いものが広がった。
—— 足元には深淵の闇。堕ちそうなギリギリで踏ん張っている。堕ちればそこから逃れられない。
「これから茶を飲むのか?夜も更けているが。」
「えっと、少しお話したいことがありまして。」
そうしてまたもじもじと俯いた。その姿は愛らしいが動く気配がない。これでは話が進まない。仕方がない。
レオンハルトはティーポットを片手で持ち上げ、粗雑に茶を注いた。そして席に着く。
「ディート、座れ。」
おずおずと正面に座る王妃に直球を投げる。グライドに煽られ、黒いものを抱えたまま王妃の事情を少しずつ聞く余裕もない。
「で?俺に何を飲ませたい?」
びくりと体を震わせる王妃にさらに問い詰める。
「手の中のものを出せ。」
低い声に再び王妃はびくりと体を震わせるが、レオンハルトの無言の圧に震えながら手の中のものをテーブルに置いた。
小瓶。濃い色の液体が入っているのがわかる。レオンハルトが眉根を寄せる。黒いものが一気に心を支配した。
毒か。
—— 足元の闇がずぐりと肥大した。
小瓶を手に取り近くの明かりに透かして見る。ただの小瓶。そんな恐ろしいものが入っているとも思えない。獣の力では毒と判別できなかった。
誰かに唆されたか。王の健康のためとか言いようはある。守りの硬い王より幼い王妃を崩す方が容易かったろう。最近の不審な行動も頷ける。いや、毒とわかっているかもしれない、だから、か。
栓をひねればこともなげに開いた。レオンハルトはそれを一気に呷る。ディートリントが衝撃で目を瞠った。
「陛下?!」
「うぇっ」
思わず声が漏れる。顔を俯かせるほどに。それほどにそれはエグく甘ったるかった。予想外に無味ではなかった。
なんだこの味は?毒が存在を示すなど意味がないだろうに。何か飲みたい衝動をグッと堪える。飲めば毒が中和してしまう。
「そんなっ なぜ?なぜ飲まれたのです?!」
真っ青になったティートリントが慌てて傍に駆け寄って膝をつき、涙目でカップの茶を飲ませようとする。レオンハルトはそれを手で制した。
「なぜ?お前が俺に飲ませたがっていたからだろう?だから飲んだ。」
「ほんの一、二滴で良かったのです!全部など!」
「その方がよく効くはずだ。」
ひどい眩暈にさらに顔を伏せる。今までに感じたことがない感覚に毛が逆立った。呼吸が早まる。ゾクゾクして四肢が震える。全身から嫌な汗が出る。なかなか即効性のある強い毒だったか。
—— 足元の闇を覗き込む。底が見えない。
涙目で青ざめ震えるディートリントの顔を見下ろしレオンハルトは仄昏く笑った。
そう、この顔が見たかった。
憐憫でもいい、侮蔑でさえ構わない。何でもいい。俺を想い俺に向けられるその顔を。
愛しきディートリント。俺のただ一人の小鳥。
俺に毒を盛るなら茶など準備せず飲めと言えばいい。そうすれば俺は飲む。それだけのことだ。
「さあ、俺の毒耐性とあの薬‥‥、どちらが強いか。‥強い方の‥‥勝利だ。」
「あれは毒ではありません!!」
浅い呼吸をしながらレオンハルトはディートリントを見下ろした。毒ではない?
「ではあれは‥なんだ?」
「媚薬です!」
「びや‥く?」
「私が陛下に毒を盛るなどあり得ません!!なぜ疑われたのですか?!」
意味がかわらず繰り返せば、ディートリントはそう悲痛な声を上げ、真っ赤になって視線を外した。しばしの沈黙ののち、ディートリントは震えながらぼそりと呟いた。
「レオンハルト様に‥‥、私をもっと好きになって欲しくて準備しました。毒などと‥愛しい方を殺すなどあり得ません。」
そう言われてもやはり意味がわからなかった。
なぜ?どうしてそうなる?もっと好きになれ?俺にこれ以上お前を愛せよと?もうこれ以上はないというのに。なのにお前はそれを強いるのか?!
これ以上など、それこそ狂気しかない!
レオンハルトは愕然とした。だからびやく?毒ではなく媚薬だと?!
それでは毒耐性も効かないわけだ。この息苦しさも頷ける。そこで初めてレオンハルトは得心がいった。だからディートは先ほどあんなに恥じらっていたのか!
納得すれば体から力が抜けた。そのままテーブルに突っ伏す。眩い金髪がテーブルに広がった。ディートリントが悲鳴をあげる。
「レオン!だめ!死なないで!!」
「死ぬものか、この程度で‥‥」
力なくカップの茶を飲み干す。もう我慢する必要はないのだから。しかし毒ではない薬に存外弱い自分に驚いていた。毒耐性を過信しすぎていた。今後そういう意味でも気をつけなければいけない。
レオンハルトは眉間を揉んだ。王妃にも色々言いたかった。
こんな小瓶など紛らわしい。媚薬と言って入手しても媚薬かどうかわからない。媚薬だったとしても、王に薬を盛った時点で弾劾される危険もある。王妃をその座から追い落としたい輩もいるのだから。
だが今回は誤解した自分も悪い。純粋な王妃を疑って傷つけた。だから、ひどい眩暈に悩まされながらディートリントになるべく怖くならない様に優しく問いかけた。
「‥‥すまない、ディート。誤解した。でもなぜ‥このようなものを準備した?」
「ですからもっと私を好きに‥‥」
「俺の愛を‥‥疑っていたのか?」
頬に触れてそう優しく尋ねれば王妃は言葉を詰まらせ涙をこぼした。
ああ、そんな顔されては愛おしくて堪らなくなってしまう。俺の暗い闇がお前を閉じ込めて外に出さなくなってしまう。
ディート、お前も俺と同じだったのか?
レオンハルトに愛を強いたその懺悔の涙に、背筋を這い上がる歓喜に、底暗い笑みが溢れた。
—— 覗き込んだ足元の深い深い闇に魅入られた。
ディートリントから満ち出る『魅了』が濃くなった。
すでに魔道具だけでは抑えきれず溢れ出るそれをレオンハルトは初めて甘いと感じた。
浅い呼吸が速くなり鼓動が耳にうるさい。ドクドクと脈打つ獣の血が『魅了』で甘くなり、猛毒のように全身を蝕みながら駆け巡る。その快感がゾクゾクと背筋を伝いレオンハルトは苦しげに目を閉じる。
ああ、これが『魅了』か。悪くない。大量の媚薬を以って初めて俺の抵抗値を上回ったか。
この甘さは俺だけのものだ。誰にも与えたくない。
浅い呼吸の中でレオンハルトは口元に魔素を纏う。そこには獅子の牙。鋭く剥き出されたそれにディートリントは目を見開いた。
「ディート‥‥」
そう甘く囁きディートリントの首筋にレオンハルトは顔を近づける。レオンハルトの浅い呼吸が首筋にかかり、ディートリントは堪えきれず震えて目をきつく閉じた。
王は王妃のその首にかかる『魅了』封じの鎖を咥える。そして獅子の牙でがちゃりと噛み切った。するりと『魅了』封じが床に落ちた。
王妃の中でこんこんと秘められていた『魅了』が一気に噴出しレオンハルトを飲み込んだ。そこは深い深い闇。堕ちまいと懸命にもがいていた深淵。いやもうすでに ———
レオンハルトがディートリントに微笑んだ。
「俺の前だけで‥『魅了』封じを外すことを‥‥許す。だから他のものにこれを‥向けてくれるな。」
それはレオンハルトの渇望。その意味を理解した銀色の小鳥は黄金の王を抱きしめた。むせび泣きが聞こえる。
「これでもう‥‥媚薬も要らない‥だろう?あれを飲むのは‥もう懲り懲り‥だ。」
抱きしめられる腕の中で息も絶え絶えにそう囁けば、ディートリントが泣きながら笑った。
「はい、我が愛しき君。心から、愛しています。」
愚かなるブリュンヒルデ。
その狂愛から、お前は始祖王の愛を疑い嫉妬して自ら『核』となった。そこまでして始祖王の愛を試さなければならなかったのか。
だが今の俺もお前と同じだ。
ディートの心を乞うて毒だと思ったものを呷った。
今回は薬、次は刃か?それともディートの大切な者たちを手にかけるか?そうして泣きながら俺を憂い、大切なものを捨て俺を選ぶディートに俺は満足する。そうしないと不安で嫉妬で狂って堪らないから。
ブリュンヒルデよ、これがラウエン家に脈々と続いた呪いの血なのか。
いつか俺は彼女のために国を一つ潰してしまうかもしれない。ただ彼女の心を得たいがためだけに。
ああ、やはり嫉妬とは罪深いものなのかもしれない。
—— 足元の深淵の闇を覗き込めば、すでにそこに堕ちた自身が見えた。底無しの闇にもうとっくに、ずっと前に堕ちていた。もう逃れられない。
息苦しくひどい眩暈を患い重い瞼を閉じる。そしてレオンハルトはその甘い『魅了』の闇の中で愛しき王妃を掻き抱いた。
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