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しおりを挟むこちらを向いた真樹にびくりと震えた後。
真樹はゆっくりと手を伸ばし、流したままだった俺の涙を拭った。
そして
「……律」
「……!」
小さく呼ばれた名前に息を飲む。
今、聞き間違いでなければ、真樹は俺の事を『律』と呼ばなかったか。
『川内』ではなく。
記憶を失う前に呼んでくれていたように『律』と。
耳にはそう聞こえたけれど、今の自分の状況ではどんな言葉もそう聞こえたのだと勘違いしてしまいそうで。
「……今、なんて……?」
震える声で真樹に問う。
「……律」
「っ」
真樹は、確かに俺の名を呼んでくれた。
聞き間違えじゃなかった。
はっきりと『律』と言われた。
ずっと聞きたかった、ずっと待っていた。
真樹がまた前のように『律』と呼んでくれるのを。
「なん、で……?」
でもどうして今俺の名前を呼んでくれるのだろうか。
まさか。
もしかして。
(いや、そんなはずない、だって、真樹は俺を忘れてて)
杏という彼女まで作って、俺の事なんて忘れて幸せになっているはずなんだから。
俺が恋人だったと知って同情しているのだろうか。
だから追い掛けてきたのか?
涙を拭ってくれたのか?
名前を呼んでくれるのか?
ぐるぐると色んな事を頭の中に巡らせていると。
「律……!」
「!」
強い腕に引かれ、身体が暖かいものに包まれた。
「……ま、き……?」
「律、ごめん……!」
一言そう謝られた瞬間。
(思い出してくれたんだ)
俺の事を。
俺の存在を。
俺が恋人だという事を、思い出してくれたんだと。
全ての記憶が戻ったのだと、そう確信した。
「真樹……?」
「うん」
呆然と呟くと答えてくれる声はまさしく『恋人』の時のそれで。
「真樹……!」
「律」
思い出してくれた事が嬉しくて、抱き締めてくる背中に、ぎゅうっとしがみつく。
(真樹だ……っ、真樹だ……)
友達なんかじゃない。
恋人の真樹が戻ってきてくれたのだと、実感した途端に、どんどんと涙が再び溢れてくる。
「ひっ、うっ……っ」
「律、律、ごめんな」
そのうちに、ずっと我慢していたセリフをやっと真樹本人へとぶつけられるようになった。
「……ッ、ばか……!思い出すのが、遅いんだよ……っ」
「……うん」
「っ、なんで、俺の事だけ忘れんだよ……!」
「うん、ごめん……」
ぽかぽかと力なく目の前の胸を叩く。
真樹は全く抵抗せず、俺のするがままを受け入れている。
「も、もう、俺の事なんて、どうでも良くなったって……っ」
「そんなわけないだろ……!」
「ッ、もう、絶対、思い出してくれないって、思った」
「もう忘れない……!絶対、忘れないから……!」
「……っ、真樹、真樹……!」
「律……!」
最後には言葉もなく、ただただ真樹の名前を呼び続ける。
その間、真樹はずっと俺の背中や頭を撫でていてくれた。
*
ひとしきり抱き締め合い、年甲斐もなく泣きじゃくって落ち着いた後に、真樹の部屋に二人で戻った。
もう二度と入る事はないと思っていたし、入りたくもないとさえ思っていたのに。
「律、これ」
「あ……」
部屋に入るなり差し出された指輪。
いつもあった通りに、俺の首にそっとかけられた。
「もう返すとか、処分しといてとか言うなよ?」
「……言わせたのは誰だよ」
「……ごめん」
ちくりと刺した途端にしょんぼりとなる真樹にくすりと笑う。
「本当にごめん。俺、酷い事いっぱいしたし、いっぱい言ったよな……」
後ろから俺の腹に腕を回し、肩口に顔を埋めて謝る真樹。
だが、二度と離さないと言われているかのように抱き締められたら、それだけでこれまでの辛い事など吹き飛んでしまう。
「……もう良いよ」
「でも」
「本当に、もう良いんだって」
「……」
納得のいかなそうな真樹の腕の中で顔を振り向かせ、その唇に触れようとしたが。
「……」
「……律?」
不自然に動きを止めた俺に真樹が首を傾げる。
明らかに触れようとしていたのに止めたのにも気付かれているだろう。
しかし、おいそれと唇に触れる訳にはいかないのだ。
「キスはダメだろ」
「な、なんで!?」
「だって俺、真樹の『恋人』じゃないし」
「!!!!!!」
杏の存在を匂わせ、ぷいと顔を逸らす。
恋人云々言うのならこうして抱き締められている体勢も完全にアウトだと思うけど、やっと思い出してくれたのだからこのくらいはセーフだろうと勝手に線引きをする。
恋人じゃなくたって男同士で抱き締めあったりはするし。
……こんな体勢では抱き締めないだろうけど、うん、良いんだ、良いって事にしておこう。
「あ、その、俺……!!」
俺のセリフに愕然として焦り始める真樹。
あたふたと両手が忙しなく当てもなく動き、辿り着いた先は携帯電話。
「すぐ別れる!!!」
「へ!?」
一も二もなく杏に連絡しようとその画面を操作し始めた。
え、ちょっと待って、いくら何でも昨日の今日で、しかも直接ではなく携帯で別れ話なんて酷すぎる。
一刻も早く別れて欲しいし、本音を言うとかなり嬉しいのだがそれはちょっとどうなのだろうかと考えてしまう。
「真樹、あの……」
「…………ん?」
「ん?」
止めるべきかどうするべきか悩みながら声を掛けると、今度は真樹が不自然に固まった。
「真樹?どうした?」
「……フラれた」
「え?」
「今見たら、こんなの来てた」
「?」
見せられた画面を確認すると、差出人はちょうど話題に出ていた杏その人。
時刻は昨夜遅く。
メッセージの内容は
『あんな夜中に彼女放って行くなんてありえない!』
『何回も電話してるのにどうして出てくれないの?』
『心配じゃないの?』
『このままだともう付き合えないよ?』
『それで良いの?』
『私の事好きなんだよね?』
『好きなら今すぐ連絡して!迎えにきて!』
というのが暫く続き、それから少し経った時刻に最後のメッセージ。
『私の事一番に考えてくれない彼氏なんかいらない!別れる!じゃあね!』
というものだった。
メッセージの合間に着信が物凄い勢いで来ていた。
ていうか杏ってこんな子だったんだ。
もっとこう、溌剌としてはいるけれど他人の事も考えられる優しい子だと思っていた。
いやまあ確かに彼女よりも酔っ払い、しかも男の方を優先するなんてありえないけれど、文面からは『私を好きなら何に置いても優先して然るべき』『私と付き合えたのだからそれだけで感謝すべき』というのがありありと見てとれて何とも言えない気分になってしまった。
(彼女はきっと、真樹自身じゃなくて『自分を好きな真樹』が好きだったんだろうなあ)
恋愛や人間関係に疎い自分ですらすぐにそう気付いてしまったのだから、真樹も気付いただろう。
「真樹」
ずっと片想いしていた相手にこんなタイミングでこんな形でフラれてしまい、少なからずショックを受けているのではとおずおず様子を伺う。
「律」
「ん?」
ぐいっと上半身を傾けられ、真樹の膝にそれを預けるような体勢になる。
一瞬の事で反応出来ずにいると。
「んっ」
そのまま覆い被さるように真樹の唇が降ってきた。
まさに、降ってきたという表現が正しい。
唇を荒々しく塞いだと思ったら、次いで唇の端、頬、鼻、鼻筋、瞼、額、そしてまた唇にと顔中にキスの嵐が吹き荒れる。
「ちょっ、待っ……!」
「何で?もう待たなくても良いだろ?」
「いや、でも……」
「向こうからもういらないって言ってきたんだから、もう良いんだろ?」
「それは、確かにそうなんだけど」
待て待て、これじゃあまるで真樹がフラれて大喜びしてるみたいじゃないか。
いや、これはもしやもしかしなくてもしているのか?
「真樹、嬉しいの?」
「当たり前じゃん、どう別れ話切り出そうか悩まなくて済んだし」
「辛くない?」
「何で?俺が?ああ、ずっと杏に片想いしてたから?」
質問の意図に気付きふっと笑う真樹。
「あの片想いはとっくの昔に吹っ切れてたんだよ。知ってるだろ?」
「知ってる、けど」
杏と付き合ってもう一度その熱が復活したかもしれない。
記憶を取り戻してもまだその熱が残ったままかもしれない。
そんな心配をしていたのだが。
「律」
「……っ」
こちらを見下ろし、愛おしそうにふわりと微笑む真樹。
その表情を見ただけで、俺の心配など無用だったのだとすぐにわかった。
……それにしても別れ話の切り出し方を悩まず済んだ、なんて言い切るのは少し酷い気もするが。
(それを嬉しいと思ってる俺も大概酷いから、おあいこかな)
そんな事を考えながら込み上げる笑いを浮かべつつ、再び降りてくるその唇を今度はゆっくりと受け止めた。
終わり
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