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しおりを挟む手が何か温かいもので包まれている。
そのあまりの心地良さに少しずつ浮上してきた意識を再び沈めたくなってしまった。
(……朝?)
目を瞑ったままでははっきりとは言い切れないが、瞼の向こうで光っているような気がするのと頬にかかる熱いのが日射しだとしたら朝なのだろう。
飲み過ぎた頭はふわふわしているし、喉もカラカラに渇いている。
「長岡、ごめん、水ちょうだい」
てっきり長岡が泊めてくれたと思い、目を瞑ったままそう言う。
長岡の事だからとっくに起きていて、飲み過ぎだと文句を言いつつもすぐに水を持って来てくれるだろうと思っていると。
「水?ちょっと待ってて」
「!?」
手の温もりが消えるのと同時に、明らかに長岡のとは違う、静かに聞こえてきた声にがばりと飛び上った。
「ま……ひ、広瀬……!?」
そしてそこにいた人物に驚く。
無意識に真樹と呼んでしまいそうだったのを慌てて直せたのは、二日酔いの使えない頭で良く出来たと思う。
「真樹で良いよ」
「え?」
「昨日、そう呼んでたから」
「っ」
言われたセリフに息を飲む。
名を呼んでしまっただなんて。
あんなに我慢していたのに、やはり酔っ払うとタガが外れるのだろうか。
自分の失態に内心舌打ちをして、真樹に向き直る。
というよりも何故自分は真樹の家にいるのだろうか。
昨日の夜、繁華街のど真ん中で真樹達に会ったのはなんとなく覚えている。
真樹は杏と一緒にいて、そのままどちらかの家にでも行くのだろうという雰囲気だったはずだ。
それを目の当たりにして無意識に長岡にくっついたのを覚えている。
そしてそのまま長岡の家に泊まる気満々だったはず。
今現在真樹にあまり良い思いを抱いていない長岡が、はいどうぞと俺を任せるとは考え難い。
なのになんで?どうして?
そんな思いが顔にありありと浮かんでいたのだろう。
「俺んちの方が近かったから、俺が強引に連れて来たんだ。かなり酔っ払ってて危なかったから」
「え、あ、そ、そう」
強引に、なんて。
ますます疑問が広がる。
「はい、水」
「……ありがとう」
気まずい。
気まずすぎるけれど喉の渇きには耐え切れず、差し出されたそれを一気に飲み干す。
こうなったら適当に話を切り上げてさっさとお暇しよう。
覚えのありすぎるこの家に長居するのは辛い。
ああ、このベッドでも良く二人で寝たな。
水を入れてくれたこのコップは、きっと無意識なんだろうけどいつもここに来る度に俺が使っていたコップだ。
カーテンを閉めない癖もそのまま。
通りで顔に朝日が直撃して眩しいはずだ。
部屋の中は乱雑に見えるけれど本人だけがわかるように適当に整頓されているし、塵や埃は落ちていない。
積まれた雑誌もハンガーラックに服を乗せているのも見覚えがある。
何もかもがあの時のままだ。
なんて懐かしんでいる場合ではない。
俺が余計な事を口走ってしまう前に立ち去らなければ。
そう思っていると。
「なあ、これって川内の?」
「!」
目の前に出された物。
それは俺がいつも肌身離さず首からぶらさげていた指輪だ。
もちろん昨日も付けていたが、外した覚えはない。
とっさに首元を探るがそこにいつもの感触はなかった。
真樹の手にそれがあるのだから当然だ。
「な、なんで?」
「悪い、引っかかったら危ないかと思って外した」
「……」
「……これ、見覚えがあるんだけど」
「え?」
見覚えがある?
この指輪を覚えているのだろうか。
という事は、俺の事も思い出してくれたのだろうか。
淡い期待を抱くがどう見ても真樹の表情は硬く、俺を思い出したというような表情ではない。
「見覚えって」
「俺が『恋人』にあげた指輪にそっくりなんだ。なんで川内が持ってんの?」
案の定、希望は粉々に打ち砕かれた。
指輪の事だけでも思い出してくれて喜ぶべきなのか、物しか思い出してくれない現状に悲しむべきなのか。
指輪を持っている人=恋人=俺だと繋がらないのだからやはり現実は厳しい。
「なあ、なんで?なんでこれを川内が持ってるんだ?」
「そ、それは……」
「もしかして、俺の『恋人』のこと知ってんの?」
「っ」
びくりと震えた俺に何を思ったのか、両肩を掴まれ詰め寄られる。
「知ってるんだろ?なあ、知ってるならなんで教えてくれなかったんだよ!?そんな話しなかったって、あれは嘘だったのか!?」
「だから、それは……っ」
「頼むよ、教えてくれよ!俺の恋人って誰なんだよ!?」
「っ、なんで……?」
「え?」
「なんで、そんなに知りたいんだよ?」
恋人の有無を聞いた時はそんなに気にしていなかったはずだ。
それどころか昔好きだった杏に夢中だった。
きっと今も心の片隅には杏がいる。
「恋人なんて、覚えてないからしょうがないって、そう言ってたじゃん。なんで今更気にするんだよ?」
「気になるのは当たり前だろ!?」
「忘れたんだろ?思い出せないんだろ?」
「そうだけど、思い出したくて……っ」
「だから、なんで?」
今更気にした所で元には戻れない。
だって、もう真樹には杏という彼女がいるんだから。
高校の時からずっと好きだった彼女と付き合えるようになって、今の真樹はきっと凄く幸せなはずだ。
そんな時にわざわざ俺の話を蒸し返して、それで全てが収まるわけがない。
「なんでって……」
「なんで今更そんなこと言うんだよ」
「……川内?」
杏と付き合う前だったら良かったのに。
もっと早くに、もっと強く思い出したいと願ってくれれば良かったのに。
もっと早くこうして強引に聞き出してくれれば良かったのに。
自分から恋人だと名乗れなかったくせに真樹を責めるような事を考えてしまう。
だけどもう遅い。
遅いんだ。
「今更じゃない、俺はずっと気になってて……」
「今更だろ!?どんなに近くにいたって気付かなかったくせに!」
抑えていた感情が爆発する。
ずっと気になっていたなんてどの口が言うんだ。
気になっていたら杏と付き合うはずがない。
あんなに嬉しそうに杏と過ごすはずがない。
「どんなに気付いて欲しくても、気付いてくれなかったくせに……!」
「川内?何言って……」
「連絡なんて毎日してたよ!病院にだって真っ先に駆け付けたし、目が覚めるまでずっと傍にいたのに……っ」
「…………え?」
「あ……っ」
自分のセリフにしまったと思う。
ハッとして口を塞ぐが発した言葉は戻せない。
これでは明らかに俺が恋人だったと暴露しているようなものだ。
肩を掴んでいた手からは力が抜け、驚きに満ちた視線が寄越される。
「病院って、目が覚めた時って……」
まさか、と呟く真樹に、これはもうごまかせないと思い唇を噛み締めて小さな声で呟く。
「……そうだよ、真樹と付き合ってたのは俺」
「……!」
「でも、それももう終わりだから、心配するな」
「終わりって、何で」
「触るな!」
再び伸ばされた手を咄嗟に避ける。
「はっ、何でも何もない」
乾いた笑いが漏れる。
「今付き合ってるのは違う子だろ?記憶がないのにまた付き合ってなんて言えな いし、お前の中での俺はまだ未来なんだよ。まだ体験していない事なんだ。まあ、もう二度と体験出来ない『未来』だけど」
真樹の記憶は高校生の時のものだ。
俺の存在すら知らないし、男を好きになれると自覚すらしていない。
杏と付き合っている今、その『未来』はきっと消えてしまっている。
「ごめん。気にするなって言っても無理かもしれないけど、気にする必要はない」
ついうっかり口を滑らせてしまった俺が悪い。
言うつもりなんてなかったのに、まだ酔っ払ってんのかな俺。
こんな何でもないタイミングでバレたのはきっと、俺がいつまでも未練がましく真樹を思っていたから、それをいい加減諦めろという神様の思し召しなのかもしれない。
どちらにしろもう限界だった。
これ以上他の奴と寄り添い、他の奴を愛おしげに見つめ、他の奴に触れる真樹を見つめ続けるのは嫌だ。
だからもう……
「もう忘れる準備は出来てるから」
「え?」
「指輪、そのまま返すよ。悪いけど処分しておいて」
「川内、待って」
「……真樹」
「……っ」
滲んでくる涙をグッと堪え、真樹の顔を見て微笑む。
歪んでしまった視点ではほとんど真樹の輪郭すら捉えられなかったけど。
「……黙っててごめんな」
「川内……!」
真樹の声を背に、すぐさま部屋を飛び出した。
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