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1 猫と暮らす
しおりを挟む十二年前、上野の御徒町にある古い靴屋と乾物屋の隙間に野良猫が多く住み着いていた。なんでも、その靴屋のご主人、当時既に高齢で、といっても足はしっかりしているし受け答えもはっきりしている。後期高齢者ではないくらいの歳の、ご老人が世話をしていたらしい。
その靴屋には既に八匹の猫がいて、路地裏に住み着いている猫たちも靴屋に出入りしたり、野良というより半野良。今でいう地域猫、というのかもしれない。
私はその頃、その靴屋からすぐ近くの求人広告の代理店に勤めていた。田舎町から、家を出たいという思いだけで決めた職場であった。営業職、それも求人広告の営業だ。毎日百本以上の電話をして、昔の求人雑誌から引っ張ってきた電話番号に電話をかける。
求人広告を頻繁に出している所は既に決まった代理店がある。採用担当も既に原稿のやりとりをして電話一本で「また出してくれよ」と、簡単に済む所があるからと、新規の獲得は中々に難しい。私が勤めていたような小さな会社では、大体辞めた先輩方が持っていた、そういう「昔から使ってくれているところ」を引き継いで売り上げとしているようなものだった。それでも、新人がいきなりお得意様を頂けるわけもなく、とにかく電話でアポイントを取って、会いに行け、とそういうやり方をしていた。
夜さん、キジトラのオス猫と出会ったのは、私がヒールの踵を折ってしまって「これからすぐに電車に乗らなければいけない。でも靴屋がない」という、時だった。
目の前に、尻尾の長くとてもすっきりとした様子の、とても美しい猫が通り過ぎたのだ。
実家に猫が二匹いた。私が高校生の頃、姉が拾ってきた子と、その数年後に母が職場の人から貰い受けた子だ。とても聞き分けの良い、というよりも、子供を三人育てた母が溺愛し、きちんと目を見て話しかけた結果、きちんとこちらの話がわかる猫に育った。
私は猫がとても良いものだと知っていた。だからそのキジトラをひと目で好きになった。キジトラは靴屋の路地裏に消えて行き、私はその靴屋で黒いパンプスを買った。古めかしいデザインで、踵は一センチあるかないか、結局その一日しか履かなかったけれど、九千円したので暫く取って置いた。いつ捨ててしまったのかわからないが、その後の何度かの引っ越しで気付いたらなくなっていたから、捨てたのだろう。
靴屋を買う時に、ご主人に「さっきキジトラの猫をみましたよ」と話す。ご主人は「あぁ、春ごろに産まれた子でね。よく膝の上に乗ってくるよ。妹がいるんだ。そっちはてんで寄ってこないけど」と教えてくれて、その時に私はこの靴屋の猫事情を知った。
今思えば、去勢や避妊手術をしてあげるべきなんじゃないのか、等思う事は多々あるし、靴屋の主人が「きちんと」していなかった、という面で私は夜さんとその妹の千さんを引き取ることになったのだけれど、当時はそういうことは考えもしなかった。
その後、度々、会社に行く前に靴屋を通りかかってみると尻尾の長いキジトラとよく会うようになった。オモチャを買ってビジネスバッグに入れて、彼に会うことが楽しみになっていた。
それから一か月、二か月くらいだろうか。靴屋のご主人が「猫たちが保健所に連れていかれる」とそう話してくれた。なんでも近所で、野良猫を快く思わない人がそういう対処を望んだらしい。詳しいことはわからない。だけどあちこち、公園の砂場や花壇で用を足す猫たちを嫌だと思う人もいる。
「知り合いにあっちこち声をかけてるんだけど、引き取り手がいなくてね」
「それなら、一匹くらいなら、私が引き取りますよ」
収入的にも育てられるだろうと請け負うと、ご主人は渋い顔をした。
「でもねぇ、お姉さん一人暮らしでしょう?」
「はい」
「一匹じゃねぇ……二匹だと、留守番してても寂しくないだろうけど」
そう言われて、私は二匹引き取る事にした。
キジトラの夜さんと、その妹の、少し白がまじったキジ猫の千さんだ。
夜さんはその後、十一年後に腎不全で亡くなった。千さんは、これを書いている今、肝臓の病気で入院し、一週間後に大学病院で大掛かりな手術をすることになっている。お医者さんは手術をするのは治すためというより、今の辛い状況を少しでも良くして、苦しみが少なく終わらせてあげるためのものだ、と説明してくれた。だから、今これを書いている。
+
猫の兄妹を引き取ります、と約束すると靴屋のご主人は「それなら次のお休みの時に迎えに来れるよう、捕まえておくよ」と請け負ってくれた。二匹分なのでゲージを二つお渡しして、土曜日に靴屋を訪ねた。
「いやぁ、やられちゃった」
靴屋に行くと、ご主人が右腕から血をダラダラと流しながら笑っていた。二つのゲージのうち一つは空だった。
どうも、お兄さん、キジトラのオス猫をつかまえようとして、いつも膝の上に乗ってくるくらい懐いているから簡単だと思ったら、ゲージに入れられる異常事態に気付いたのか激しく抵抗されたらしい。
「病院に行ってくるよ」
と、ご主人は私に無事に捕まえられた妹猫を託して、結局三針縫ったらしい。今考えると、私に治療代を請求してきてもいいものだったが、そういえばご主人はそういうことはなかった。
ご主人は「もしキジトラが戻ってきたら(警戒してもう来ないかもしれないから)捕まえてみるよ」と、そんな目に遭っても私に約束してくれた。というか、この時点で縄張りを変えたら保健所行きは免れたのかもしれない。
まぁとにかく、最初の一週間。私はその妹猫、千さんと二人(一人と一匹)の生活をした。
千さんは、警戒心が強すぎる子だ。その後ずっと過ごしたけれど、抱っこさせてくれたことは一度もなく、避妊手術やワクチン接種などで動物病院へ連れて行かなければならない時は、酷ければ一時間以上、タオルや洗濯ネットを広げて攻防戦を繰り広げた。最初の二日間はベッドの下から出てきてくれなかった。それでも食欲というか、さすがは野良というか、食への嗅覚はすさまじく、私が朝食用に買っておいたパンは朝起きると食い散らかされていたり、大変お元気でなにより、という有様だった。
それで一週間、やっと兄猫も捕まえたと靴屋のご主人が連絡をくれて、千さんの兄猫(兄というか、同じ生まれだけど)の夜さんも私の家にやってきた。
やはりきょうだいなだけあって、それから二匹はすっかりおちついて一緒に寝たり、遊んだりするようになった。靴屋のご主人のいうように、きょうだいで引き取ってよかった。
その後その家では二年過ごした。
私は猫に対して誠実な飼い主ではなかったと思う。仕事で遅くなって夕食の時間はバラバラ、トイレはその当時二匹なのに一つしか置いていなかったり(通常、頭数+1用意するものとされている)、きちんと毎日構ってあげられるわけでもなかった。
それでも千と夜は私と一緒にいてくれた。猫とはそいうものらしかった。
+
それにしても、夜さんは私によく懐いた。初日から膝の上に乗ってきて、自分がどう振る舞えば愛されるのかをよくわかっているような子だった。私も夜さんを可愛がった。
私は三人姉妹なのだけれど、親はきっと「素直でできのいい妹や、聞き分けのいい姉の方が好きなのだろう」と長年考えていた。だけど、自分が猫を二匹、それぞれ性格の違う子を迎えて見て心底驚いたことは、「よく懐いている夜さんも、全く触らせてくれない千さんも、平等に愛している」という事実だった。
たとえばこれが友人などなら、自分と話が合ったり、慕ってくれている相手に心の比重がいくだろう。物なら、自分の気に入った性能や姿のものに愛着が沸く。それは当然だと思う。
けれど千と夜は友達や、物ではなくて家族だったし、私にとっては生まれて初めて「自分が守るもの」だった。クラスメイトは学年が変わるまで一緒にいてくれればいい、同僚は職場が変わったら二度と合わない付き合い、という、おおよそ他人に関心、関わろうとする心がなかった私には、それはとても不思議な感覚だった。
一緒にいたい。良くしてあげたい。好かれなくていい。全力でこちらが愛している。
私には、そう思える存在がこれまで一人もいなかったのできっと自分は酷いやつなんだと諦めていたし、それが世間一般的に「褒められたことではない」とわかっていても、それはそれ、という帝度だった。
だから驚いた。
猫のことを大切だと心から思っている。
寒い思いをしていないか、お腹はすいていないか。
部屋に閉じ込められてストレスを感じていないか、感じているのならどうしてあげられるか。
自分の事しか考えていなかった人間が、なんともまぁ。
私はいくつか小説を書いているが、それを読んだ人から「基本的に人間のことを信じていないだろう」と言われるし、容赦なく人の死ぬ嫌な展開をよく書く。それでも、私は人には善性があると思っているし、吐き出すものはエグい話だが人には善性があると思っている。
私の善性は、猫たちがくれたものだ。
一緒に暮らしていて、私は彼女たちが私を頼りにしていることを感じて、それに応えたいと、それを義務感からではなくて「好きだから」という感情から行動している。不思議なものだ。奇妙なものだ。自分の誕生日に、新しい服や靴ではなく、キャットタワーや新しい猫ベッドが欲しくなる。
なんというか、自分以外の命を大切に思う、ということができるようになったのだ。
客観的に見て、なぜ人は猫と暮らすのだろう。
たとえば、現実的に金銭的な話をしてしまうと動物を飼育するというのはとてもお金がかかる。簡単に毎日の食事に、猫ならいつもきれいな砂をたっぷりと用意したトイレが必要だ。避妊・去勢手術は2万円前後。ワクチンは1年に1回(1万円前後)血液検査やレントゲンなどをして健康状態をチェックする(2万円から3万円)など。
腎不全になった兄猫・夜さんの、亡くなるまでにかかった治療費は一日五千円×九十日。
今回の千さんの入院費(1日1万円×20日)と手術代(40万円~50万円)と、高額になる。ペット保険やその他対処方法がないわけではないが、「ペットを飼う」というのは、現実的に言えば「とてもお金がかかる」ものだ。
このエッセイを書こうというきっかけとなったのは、獣医さんの言葉だ。自分の中で引っかかった。
「千ちゃんは手術をしても長くは生きられません。飼い主さんの中には、酷ですが『どの道亡くなるのなら高額な治療はしない』と選択される方もいます」
酷い話、というわけではない。ようは、延命治療をしないという考え方だ。手術や治療は猫にとってストレス、負担になる。腎不全でなくなった夜さんの、三か月間の生活は今思い出しても、お互い苦しいだけだった。毎朝早起きして、動物病院に行って一番に点液してもらう。当然、夜さんは嫌がる。点液を自宅で出来るように整えても、やはり嫌がった。むしろ、落ち着けるはずの自宅が落ち着けない場所になって、最後は二階の窓から無理にでも脱走して外へ行きたがった。家が嫌になっていた。
千さんの今回の手術も、今の体力では難しい。だから一週間、集中治療室に入院して手術に耐えられる体力になるまで様子を見る。今までずっと自宅で、こたつや段ボールハウス、ベッドやクッションでのんびり過ごしていた千が、今は動物病院の檻の中でひとりぼっちでいる。今どんな思いでいるのだろうか。私が迎えにくるのを待っているのかもしれない。捨てられたと思っているのかもしれない。わけがわからず、ただ恐怖に震えているのかもしれない。
私が選んだ「手術をする」という選択肢は正しいのだろうか。
手術をしなければ千はこのままゆるやかに弱って、最後は死ぬ。その死に方がどんなものなのかはわからない。ただ、何日も檻の中に入れられることはないし、お腹を開かれて手術をすることもない。
手術をしても一年は生きられない。
獣医さんは『余命を考えて治療を制限する人もいる。それは仕方のない事だ』と説明してくれた。私はそのことが、どうにも、消化しきれなかった。
確かに、そうなのだ。それはわかる。わかる。
夜さんの治療費を稼ぐため、私は死ぬまで人に言えないような仕事もした。その時は「それでも夜さんが元気になってくれるなら。元通りになってくれるなら。冬を越せるなら」と期待したけれど、最初から、それは間違っていた。完治する病気ではなかったから。その時の治療は、「あとは苦しみを出来るだけ取り除いて、楽になるように、命が終わる速度をゆっくりにすること」が目的だったのに、私は「もっと長くいられるように」治療するのだと、そう考えた。
今、病院でひとりでいる千のことを考える。
私は「どうせ無駄になるお金を使うのか」と、それを気にしているのだろうか。
それとも、千が苦しいから、負担になるから、手術をためらっているんだろうか。
夜さんのことがあったから、最初は延命治療や大掛かりな手術はしないつもりで行った。でも、今日、動物病院で「入院した方がいい」と言われた時に、今後どうなるのか聞いたときに、私は「連れて帰ります」とは言えなかった。
人はどうして、猫を飼うんだろう。
可愛いから。好きだから。一緒にいたいから。
猫は必ず、自分より先に死んでしまうのに、私は死を看取るために拾ったんだろうか。
いや、野良で生きているよりも、飼い猫として生きる方が条件は良い。だから、私は千や夜に「良い事をした」のだろうか。治療で散々苦しませたのに?いや、違う。そうではない。そうではなくて。
猫を拾う。一緒に暮らして、最期を決める。そこまでが責任だと、それはわかってる。死ぬとわかっていて、それでも一緒にいたくて暮らす。
だから、ただ、もっと一緒にいたい。
ただ「私は出来る事は全部した」と後悔したくないからじゃなくて、苦しめるとわかっていても、何かして、ただ待つだけじゃなくて、何かして、何とかして、もっと、ずっと、生きて欲しいと、たぶん、そういうことなのだと思う。
私のような人でなしが、肉親の死にさえ関心のなかった私が、よくもまあ、ここまで悩んでいるものだと、思う心もある。だけど、私が持つ良心は千と夜がくれたものなので、そりゃあ、苦しいだろうよ、辛いだろうよ、とそうも考える。
自分の大切な存在が「死ぬ」ことが、こんなにもむごいものだとは、きっと千と夜に出会わなければ理解できなかっただろう。
それでも、どうか、一週間後の手術が無事に成功して、とても良い状態が長く続いて、もう十年、千が一緒にいてくれますようにと、今やっぱり、そんなことを、願っている。
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