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1巻
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第一話 あやかし姫と堅物軍人、オムライスを食べる
「まぁ、中尉さまはオムライスを召し上がったことがございませんの?」
明治から年号が変わって天興五年。正直なところ、自分のような男がなぜ、と見合いのその時まで小坂源二郎は疑問で仕方なかった。
世の大人も子どもも知るとおり、幕末に黒船が日本の海に姿を現し、徳川幕府が長く敷いた鎖国を解かんとした。
打ち込まれた大砲の音に、びっくり仰天、と慌てたのは時の政府だけではなく、あやかしや八百万の神々も同じであったよう。国がしっちゃかめっちゃかになるのは嫌だと、姿を現した大神や大妖が当時の政府とあれこれ相談事をした。
それ以来、お江戸は「帝都」と呼ばれるように。すっぽり霧で覆われるように。あやかしや神々、日本人や外国人が当たり前に暮らすように。帝都軍人である小坂源二郎中尉が、あやかしの姫と見合いをするように、なったのである。
「軍人たる者、朝は白米、味噌汁に漬け物で十分です」
「まぁ。でも、卵はとっても栄養があると聞きますし、それにふわふわしていて、きっとやさしいお味をしているのだと思いますよ。やさしいものは、良いものでしょう?」
座布団の上できっちりと背筋を正し、ちゃらついた洋食など不要、という態度を隠しもせず答えれば、目の前にいる少女の黒髪の上の、金の耳がぴくぴくと動いた。
尾はまだ一尾、金の毛の狐のあやかしという子ども。見合い相手の愛想のない態度にも臆せず、ころころと喉を震わせる。
普段は帝都軍人として執務室と訓練場、自宅を行き来するだけの源二郎が、こうしてこの少女の見合い相手になったのは、単なる偶然によるものであった。
黒船が来航した後、時の政府は突然姿を現した「あやかし」と「神々」と、共にこの国を治めなければならなくなった。
もちろん、人間の世の理やまつりごとは、あやかしや神々のものとは違う。だから、人間の世がこれまでどおり、というより、ちょっとの不思議が当たり前になる程度で済むように、みんなで仲良くしましょうね、という約束が交わされた。
人間側にはあやかしの姫が嫁いだ。その姫と夫婦になった男が、さて、亡くなった。八十を超えていたという。二十後半であやかし姫と夫婦になり、随分と長く生きた。
遺されたあやかし姫はというと、人との間には子どもが残せない。人間の世にいても仕方ないと、あやかしの世界に戻った。
それでは次の姫と「約束」をしようと、当初予定されていたのは六歳の少年。「長く生きるように」と選ばれたのだったのだが、はしかにかかってあっという間に亡くなってしまった。
それで急遽、その少年の叔父である小坂源二郎が、我が子を失って泣く姉を慰める言葉もかけられぬ不器用者が、駆り出されたのである。
見合いといえば料亭と相場が決まっているが、相手が相手。時は夕暮れ、薄明かり、あんどんの下での顔合わせとなった。
あやかしは赤子や獣の肉を食うという噂。好みの料理なんぞ出せないと、義兄は子の葬式と見合いの場所を一緒にした。つまり、ここは寺の一室である。
「……私は女、子どもの喜びそうな言葉は知りません。なので、単刀直入に言いますが、妖狐殿は私の妻になる気がおありか」
あやかしと言っても、目の前にいるのは幼い少女である。なるべく脅かさぬよう大声ではなく努めて低い声で訊ねた。
挨拶を交わして少し、妖狐の子どもがあれこれと物珍しそうに人の世のことを聞いてくるので、これもお役目だと辛抱して答えてきた。しかし、子どもというのはいつまでも興味が尽きない。それで互いの役目を思い出せ、とそう示した。
「中尉さまはどのようにお考えなのですか」
「私ではなく、妖狐殿の意思を訊ねているのです」
ふわり、とあやかしが微笑むので、源二郎は顔を顰めた。
あやかしと人は、まるで対等にはなれない。軍人である源二郎はそれをよくよく理解している。彼らが少しでも考えを変えれば、たとえ帯刀している軍人であっても、あやかしの爪や牙、怪しげな術にはひとたまりもない。
こうして一応は「見合い」の形を取り「双方の合意の上で」などという茶番を演じてはいるものの、あやかし側、つまりはこの少女が、人間側が差し出す「花婿」を気に入らねば仕方ないのだ。
源二郎は自分が時間稼ぎ、あるいは本来予定されていた「花婿」を用意できなかったことへの謝罪のための供物であると考えていた。自分のような、おおよそ夫に向かぬ性格の男を、政府が本気で「花婿」にしようとするわけもない。
であるので、ここであやかしに「気に入らない」と烙印を押されれば、そのまま食われるか何かと末路は決まっているのだろう。
「姫君とて、私では不服でしょう」
「どうして、ですか?」
「歳が離れすぎている」
源二郎は二十六歳になる。対してこの妖狐は十になるかならないかだろう。本来予定されていた花婿が六歳だったことを考えれば、もっと幼いのかもしれない。
「……中尉さまは、歳が離れすぎているとお嫌ですか?」
「私ではなく、妖狐殿の話をしているのです。――なぜ先ほどから、私のことばかり気にするのですか」
「わたし、中尉さまはこうしてわたしの気持ちを考えてくださるし、とてもおやさしい方だと思いました。やさしいことは良いことですわ。ですから、えぇ。わたし、中尉さまだったらいいなぁって、わたしが決めて良いのでしたら」
「……正気か?」
思わず、源二郎は素が出た。己の何を見て「やさしい」などと言うのか。これまで源二郎の半生で、自分を指してそのように評されたことがない。
幼年期に同じ歳の子どもらと過ごした際には「いつも不機嫌そうな顔をしている」「何か言うと怒られるような気がする」と友らしい友もできず。武術稽古のために通った道場では「おまえを見ていると気を抜くことができなくなる」と師範に溜息をつかれた。
姉や義兄からは「顔が怖い」「おまえといてもつまらない」と再三言われてきたもので、源二郎は「なるほど、自分という人間は他人の心を落ち着かなくさせるのか」と知った。軍人となったのも、規則で律せられた場であれば己の性質もそれほど害にならぬだろうと判じてのこと。
そういう男だと自認している源二郎だ。女、子どもの機嫌を取ることのできる人間だと、周囲も思うわけがない。政府や上司たちが己に死んでこいと言うのなら、そうすべきかと考えていたというのに、このあやかしの姫は、それをやさしいなどとは。
気の毒にと思った。本来なら、今日の場、この幼いあやかしの姫は、己の甥と楽しく談笑し幼い子ども同士意気投合して、良い時間を過ごせたのだろう。
源二郎は眉間にしわを寄せ、押し黙る。それっきり何も言わずにいると、狐の子どもが困ったように眉をハの字にさせていた。
§
「食われずに済んだじゃあないか! 良かったね! 良か……ぐがっ!」
夜になれば霧が出る。あやかしたちの姿も見られるようになり、うっかりと足を滑らせては彼らの世界に落ちてしまうぞ、と脅かされる頃合い。
自宅に戻った源二郎は、誰もいないはずの家に当たり前のように入り込んで一杯やっている同僚を、無言で殴り飛ばした。軍服の上着もなく着崩した格好の青年が、畳の上に転がる。
「暴力は良くないんじゃないかな! 源二郎! そんなんだからきみは友達がいないんだぞ! ぼくくらいしかね!」
「友というのが貴様のようなだらけきった者なら願い下げだ。人の家で何をしている」
源二郎の自称友人、実際のところはただの腐れ縁というか、どれほど邪険にしても何をしてもしぶとく付きまとってくる面倒くさい男である。いつ出会ったのか定かではないが、士官学校に入った頃から目にはしていた。それで、気づけば自分の前によく出没するようになった。
神田湊という、同じく帝国軍中尉の地位にいる男。当人は「実家が名家だからね」と嘯くが、中尉というのはそれなりの地位である。
神田はわざとらしく「痛たたた」などと言いながらも、顔はへらりへらりと笑っている。
「ぼくはこれでもきみを心配していたんだぞ。あやかし姫の見合い相手、なんて言いながら、実際はきみを厄介払いしたい連中が都合良く仕立て上げたんだろう?」
「さぁな。姉が憔悴していた姿は哀れだった。おれが何かしてやれるなら、それがおれに死ねということなら、それでもいいだろう」
「きみは全くひどい男だなぁ! きみが死んだらぼくがどれほど悲しむか、考えてはくれないのかい」
悲しいと泣きながら、遊郭の女の膝に埋もれる口実にするだけだろう、と源二郎は鼻で笑い飛ばした。
「それで? どうだった。あやかしの姫、やはり口は大きく裂けていた? 目は火のように燃えていた?」
「馬鹿を言うな。そんなものは迷信だと知っているだろう。霧の出る前の世界じゃあるまいし、昨今あやかしなんぞ珍しくもない」
「狐のあやかしは珍しいよ。狐はほとんどが神族の連なりだからね」
神の眷属となり、神徒となるのが多いと神田は説明する。
「あやかしのままでいる狐は、あやかしの姫の一族くらいしかいないはずだ」
はたり、と源二郎は上着を脱ぐ手を止める。
実を言えば、源二郎はあやかしに詳しくはない。帝都軍人の多くがそうであるように、ただ軍事訓練と任務をこなし、食べて動いて寝る、そういう男である。
あやかしとの距離が以前よりは近くなったとはいえ、彼らに興味を持って近づかなければ詳しく知ることもない。所詮は別々の世界の生き物だ、とそのように考えられるだけの距離はまだあった。
「源二郎が食われなかったってことは、気に入られたのかな? 次の約束はしてる? 取り決めどおりなら、次は家に招くんだったっけ」
「よく知っているな」
「きみのことが心配でね!」
二言目にはそのように恩着せがましいことを言う男である。
源二郎はようやく軽装に着替え、すでに勝手に膳を持ってきて夕食を始めている神田の隣に、自分も酒を置いた。
から酒は良くない。台所に戻るが、源二郎は男の一人暮らし。食事は朝と昼は軍の食堂を使う。夕食は酒と、魚を焼いたりたくあんを切ったりで済ませたが、どうしたものかと見れば、神田の膳には見慣れぬ茶色い……妙なものがある。
「あぁ、これ? うちの女中が銀座の店で買ってきたんだ。メリケン粉に卵やバタ、牛乳を混ぜて焼いたものだそうだよ。いろいろ種類があって、これは干した果物が入っているんだ」
「相変わらずおまえは口が奢っているな」
「当然の権利だね。こうして健康で、そこそこの収入があって、いろんなものの集まる帝都に住んでいるんだからね。おいしいものを食べようとするのは道理だと思うよ」
そういえば、神田は美食家であった。諜報部の所属であるというのもあるだろうが、あちこちと出歩いてはどこぞの店の何がうまかっただのなんだのと言ってくる。
「で、実際のところなんだけどさ。きみはこのまま大人しく死ぬ気かい?」
「お国のために死ねというのなら、そうあるべきだろう」
「さて、どうかな。国のためだと言うのなら、きみはあやかし姫を娶るべきだ。そう都合良く、姫君の気に入る男が用意できるわけもない。きみの甥御さんは気の毒だったけれど、甥御さんに次いできみが辞退すれば、誰かがあやかし姫に気に入られるまで食われ続けるかもしれないよ」
「おれが気に入られた、とは思えんが」
源二郎は生きて寺を出たが、しかし自分があの子どもに気に入られたとは思えない。あの子どもは勝手に自分をやさしいと勘違いしてるだけだ。思い違いをした姿を気に入ったのなら、それは源二郎本人ではない。
「きみは融通が利かない堅物で、二言目にはお国のためだのなんだのと真面目なやつだけど。そのあやかし姫が、きみでなくていいとしても、きみでもいいなら、そうなればいいじゃないか」
「おまえはおれが良い夫になるとでも思えるのか」
源二郎は顔を顰める。学生時代、ただ道を歩いていただけなのに、女学校の生徒から「顔が怖くてこの道を通れないから帰路を変えてほしい」と訴えられたのを、指差して笑ったのは神田だ。
「さぁ。でも考えようによっては、きみは最高じゃないか。とにかく真面目だ。国のためにこの結婚が必要なんだとしたら、きみは全力で、きみが考えられる全ての方法で姫君を大切にするだろう?」
「おれは女、子どもの喜ぶようなことはわからん」
「でもきみはきっと誠実だ」
国のために、ということを源二郎は改めて考える。己のような男はこのお役目にふさわしくないと思ったが、なるほど、確かに、そういう考え方もあるかもしれない。
四の五の言っていても、どのみち、己もいずれはどこぞから妻を得る。家のための結婚が、お国のために変わるのであれば、それは名誉なことではないか。
「と、いうことで、きみの未来のお嫁さんが、家の下見に来るまでに……何か贈り物でも考えようよ。女性というものは、いくつでも誰かが自分のために何かを選んで贈ってくれることが好きなんだ」
毎週大量の請求書が届けられる神田はやはり言うことが違う。
源二郎は単純な手だとは思ったが、浮いた言葉の一つも知らない己でも何か適当に見繕うことくらいはできるだろう。
それで、あの狐の子どもはどんなものが好きなのか、見合いの中の会話でそれらしい情報はなかったか、と神田に問われるが、思いつくことはない。
「お見合いしたのに、趣味とか特技とか……好きなものの話をしなかった……⁉ きみたち、何してたの? かるたでもしてた?」
「馬鹿にしているのか」
「ごめん、すごろくかな」
もう一度殴り飛ばしてもいいだろうか。
しかし、こうして思い浮かばないのも情けない。面白がっているのだろうが、神田は協力すると申し出ているのだ。こちらも何か答えなければ、と記憶を探る。
「そういえば、オムライスがどうのと言っていたな」
「オムライス。へぇ、そりゃ可愛らしいものを。好きなのかな?」
「おれが食べたことがないというのを面白がっていただけだ」
なぜそんな話題になったのかは覚えていない。子どもがあれこれと次から次に話す言葉に意味などないと、聞き流していた。
「それじゃあ、オムライスを食べに行こうか! そうすれば、今度会った時にきみがもう初オムライスをしたって話ができるしね!」
「今からやっている店などあるのか」
「店はないよ」
あるわけないだろう、今何時だと思っているのだと神田に言われ、源二郎は苛立つ。
「でもオムライスが食べられる場所を知っているんだ。行こう! 君の結婚活動……婚活同盟といこうじゃないか!」
さぁ、と神田は素早く上着を着ると、乱れていた髪や装いを正す。すっきりとした顔立ちの美丈夫は、呑んでいたようには思えない足取りですたすたと玄関へ向かっていった。
「源二郎はオムライスを食べたことがないって言うけど、どんなものかくらいは知っているだろう?」
深夜というわけではないが、それなりに遅い時間。霧の出た屋外には辻馬車も見られるが、多くはあやかし、おぼろ車である。
源二郎は普段、夜中に外に出ることはしない。これは多くの模範的な帝都の民がそうであるが、夜はあやかしや神々の時間で、人は家で体を休め家族と過ごすべき時であるという考えからだ。
亥の刻を少し過ぎたくらいに理由なく出歩くことは「不真面目」「不信心」だなんだと、顔を顰められるもの。若くして中尉の座に就いている神田は、そういった他人に遊び人と言われようがどこ吹く風で、ひょうひょうと歩いている。
「それくらい知っている。血のように赤く染めた飯を薄焼きの卵で包んだものだろう」
「言い方! 物騒! まぁ、ひと昔前はね。今はもう明治じゃないんだ。昨今じゃ、煉獄亭や南極星だけが洋食店じゃない」
それでは、と神田は目的の場所まであれこれとオムライスについて語り始めた。
「きみも知ってのとおり、オムライスは卵料理だ。オムレツは食べたことが? ない? 帝都に生きているのに、きみは人生の大半を損しているね。まぁそんなつまらない日々とも結婚すればきっとおさらばさ! ――無言で蹴るのやめてくれないかい? まぁ、それはいいとして。オムレツをチキンライスの上に載せたものとか、まるで西洋婦人のドレスのすそのようにくるりと巻いた卵焼きを載せるものもあるんだ。ひと昔前はね、ライスを一つの具として混ぜてオムレツにしたり、薄焼き卵にただライスが包まれているだけだったけれど、今や我が国は豊かになり、卵はたっぷりと使える。分厚く焼いた半熟の卵に、熱く溶けたバタや米が絡み合うと一等うまいんだよ!」
オムライス、オムライス。たかが卵料理一つに熱く語られても困る。神田は同僚が無反応なので、ふてくされるように唇を尖らせた。
「いいさ、いいよ。きみはそういうやつだからね。あぁ、見えてきたよ。あの建物さ」
「学生街じゃないか」
少し歩いて着いたのは、源二郎の家のある旧武家屋敷の並びから離れた学生街。あちこちに国元から離れて帝都に来た若者たちが下宿しており、勉学に励むものたちはまだ眠りにつかず、どの部屋の明かりも煌々としている。
その一つの屋敷の玄関前に来れば、すぐにパタパタと、禿げ頭の初老の男がやってきた。
「おやま。おこんばんは。神田様。ふふ、またお腹を空かせてきたんですかぃ」
「やぁ、豆助。今日は友人を連れてきてね、オムライスを食べたことがないというやつだから、ぜひ拵えてやってくれよ」
小柄で貧相、だが妙に顔に愛嬌がある。神田が豆助と呼んだ男は丁寧に頭を下げ、源二郎にも夜の挨拶をした。
「ここはぼくがパトロンをしている下宿先でね。母の故郷で、帝都に上がりたいと志した若者を集めてる。簡単な面接と筆記試験をクリアしたら、無料で六年間、使用できるようにしているんだ」
「初耳だ」
「そりゃそうだ。言ってなかったからね」
へらり、と神田は笑う。なんでもないことのように言うが、源二郎には衝撃的だった。
いつもニヤニヤとして遊び歩いているような不真面目な男が、こういった活動をしているとは思いもよらなかった。
なるほど、学生の頃の自分の同級生にも、国元から出て住む場所や食うに困っていたものがいた。自分は実家からの支援があり不自由をしたことがなかったが、そういう同級生は金策に窮し、いつも薄い服を着ていて腹を空かせ、体を壊しがちだった。
それが成績にも影響していたことが、今なら理解できる。ただ、当時の了見の狭い己は、怠慢だと、そう感じていたことも思い出す。
「湊さん!」
「湊先輩! いらしてたのですか!」
「また面白い話を聞かせてください!」
食堂へと案内される途中、階段からひょっこりと、あちこちあれこれ、学生たちが顔を覗かせ、神田を認めて下りてくる。
あっという間に学生たちに囲まれて、源二郎は難儀した。
「あの、湊さん……ちょっと相談に乗ってもらいたいことがあって」
「こらこら、おまえたち。今日はぼくだけじゃあないんだ。帝都軍人、小坂中尉殿も一緒だぞ。礼儀正しくしなさい」
きらきらと目を輝かせるものたちに、どう対応すればいいかわからずにいると、それをけらけらと笑いながらも、神田が助け舟を出す。すると、学生たちははたり、と表情を変え、背筋を伸ばして礼儀正しい振る舞いになった。
「大変失礼いたしました! 小坂中尉殿!」
先ほど神田に向けていた無邪気に慕う様子とは一変し、きちんと礼儀作法をわきまえた様子に、この子どもたちはきちんと教育を受けているのだろうと感心した。
「今日は友人と食事をしに来たんだ。さぁ、おまえたちは寝るなり勉強に戻るなりしなさい。あとでみんなに汁粉を振る舞うように、豆助に言っておくから」
夜食の差し入れを聞いて、学生たちは嬉しそうに声を上げた。そして各々神田と源二郎に挨拶をして、階段の上に戻っていく。
「ごめんね、騒がしかっただろう」
「若者に活力があることは帝都の未来に活気があるということだ」
「かたいなぁ! はは、でもそう言ってもらえると嬉しいよ。彼らはみんな、ぼくの弟のようなものだからね」
源二郎の生真面目な答えに、神田は嬉しそうに笑った。
案内された食堂は、木製の大きなテーブルに椅子がいくつもある、学生食堂と言うにふさわしい場所だった。ただ、テーブルの上には花瓶にいけられた花があり、食堂の壁には源二郎の目にもわかるほど優れた画家の作品の絵がいくつも飾られている。
二人が学生たちに囲まれている間に、先に行った豆助がすでに用意をしていたらしく、テーブルの上には二人分のテーブルセット――銀のナイフやフォークなどといった、源二郎の目には珍しいものが並べられている。
「ここでは朝は和食、昼は弁当、夜は洋食と決めているんだ。夜はテーブルマナーも学べるように、晩餐会で使うものを用意してる」
「晩餐会に招かれるものなどわずかだろう」
ここの学生たちは神田の家の援助を受けている身。となれば家は貧しいものばかりなのだろう。晩餐会のような場に招かれる立場になるのはひと握りの成功者だけだ。
「ぼくが思うに、いつか霧が晴れたなら、きっと誰もが当たり前にナイフやフォークを扱える時代になると思うよ」
源二郎はぎょっとした。霧が晴れる、などと恐ろしいことを口にすべきではない。霧は国を外国から守る手段だ。霧がなくなればかつての黒船来航の恐怖が再びこの国を支配する。
「神田――」
「さぁ、席につこう! 豆助は手早いからね、あっという間にオムライスを仕上げてしまうよ!」
へらり、と神田が笑う。いつもの、人懐っこく軽薄な笑顔で椅子を引く。
神田に限って大それた思想なんぞあるわけがない。のらりくらりと生きるひょうひょうとした男。何も深いことを考えずにあれこれ言っているに違いない。
それに、源二郎は今は招かれた身であるし、これは長年の友人だ。もし当人が気づかぬうちに危険なことをしているのなら、それはその時、己が止めればいいのだと、源二郎は咎めようとした言葉を呑み込んだ。
実のところ、源二郎はオムライスはもとより、オムレツすらも、食べたことも見たこともなかった。
維新前はそれなりの武家であった家の長男。実家はかの有名な鹿鳴館への出入りも許されており、それこそ父は頻繁に夜会に出向いていた。
だが源二郎は「自分はそのように着飾る必要はなく、またこの身は常にお国のために精進すべきであるから」と届けられる招待状を断り続け、結果そういった華やかな世界から遠ざかり、西洋料理を口にする機会がなかった。
「……想像より、大きいのだな」
それであるので源二郎は、知識としてはオムライスを「薄く焼いた卵で飯を包んだ料理」と承知していても、それがどんな姿であるのかは知らなかった。
さて、午前は甥の葬儀に、午後はあやかし姫との見合い、夜には外出し、更に同僚の意外な側面を知るなど、情報量の多い一日であった。
それを締めくくるように、どん、と出されたのは、これも源二郎には馴染みのない真っ白い丸い皿と、そこに高く盛られた赤い飯、その上には辛子より明るい黄色の楕円に焼かれた卵。
「……なぜこんなに滑らかな表面になるんだ?」
卵焼きというものは、その表面がでこぼこしているものだ。それに、場合によっては茶色く焼きあともある。しかし、出された皿の上の卵焼きは、とても滑らかで美しい。
源二郎にとって食事というものは、飯があり汁があり、副食として小鉢に何か盛られているものだった。それが、このオムライスというやつは大きな平皿にぽん、と飯と副菜であろう卵焼きが載せられている。
「まぁ、中尉さまはオムライスを召し上がったことがございませんの?」
明治から年号が変わって天興五年。正直なところ、自分のような男がなぜ、と見合いのその時まで小坂源二郎は疑問で仕方なかった。
世の大人も子どもも知るとおり、幕末に黒船が日本の海に姿を現し、徳川幕府が長く敷いた鎖国を解かんとした。
打ち込まれた大砲の音に、びっくり仰天、と慌てたのは時の政府だけではなく、あやかしや八百万の神々も同じであったよう。国がしっちゃかめっちゃかになるのは嫌だと、姿を現した大神や大妖が当時の政府とあれこれ相談事をした。
それ以来、お江戸は「帝都」と呼ばれるように。すっぽり霧で覆われるように。あやかしや神々、日本人や外国人が当たり前に暮らすように。帝都軍人である小坂源二郎中尉が、あやかしの姫と見合いをするように、なったのである。
「軍人たる者、朝は白米、味噌汁に漬け物で十分です」
「まぁ。でも、卵はとっても栄養があると聞きますし、それにふわふわしていて、きっとやさしいお味をしているのだと思いますよ。やさしいものは、良いものでしょう?」
座布団の上できっちりと背筋を正し、ちゃらついた洋食など不要、という態度を隠しもせず答えれば、目の前にいる少女の黒髪の上の、金の耳がぴくぴくと動いた。
尾はまだ一尾、金の毛の狐のあやかしという子ども。見合い相手の愛想のない態度にも臆せず、ころころと喉を震わせる。
普段は帝都軍人として執務室と訓練場、自宅を行き来するだけの源二郎が、こうしてこの少女の見合い相手になったのは、単なる偶然によるものであった。
黒船が来航した後、時の政府は突然姿を現した「あやかし」と「神々」と、共にこの国を治めなければならなくなった。
もちろん、人間の世の理やまつりごとは、あやかしや神々のものとは違う。だから、人間の世がこれまでどおり、というより、ちょっとの不思議が当たり前になる程度で済むように、みんなで仲良くしましょうね、という約束が交わされた。
人間側にはあやかしの姫が嫁いだ。その姫と夫婦になった男が、さて、亡くなった。八十を超えていたという。二十後半であやかし姫と夫婦になり、随分と長く生きた。
遺されたあやかし姫はというと、人との間には子どもが残せない。人間の世にいても仕方ないと、あやかしの世界に戻った。
それでは次の姫と「約束」をしようと、当初予定されていたのは六歳の少年。「長く生きるように」と選ばれたのだったのだが、はしかにかかってあっという間に亡くなってしまった。
それで急遽、その少年の叔父である小坂源二郎が、我が子を失って泣く姉を慰める言葉もかけられぬ不器用者が、駆り出されたのである。
見合いといえば料亭と相場が決まっているが、相手が相手。時は夕暮れ、薄明かり、あんどんの下での顔合わせとなった。
あやかしは赤子や獣の肉を食うという噂。好みの料理なんぞ出せないと、義兄は子の葬式と見合いの場所を一緒にした。つまり、ここは寺の一室である。
「……私は女、子どもの喜びそうな言葉は知りません。なので、単刀直入に言いますが、妖狐殿は私の妻になる気がおありか」
あやかしと言っても、目の前にいるのは幼い少女である。なるべく脅かさぬよう大声ではなく努めて低い声で訊ねた。
挨拶を交わして少し、妖狐の子どもがあれこれと物珍しそうに人の世のことを聞いてくるので、これもお役目だと辛抱して答えてきた。しかし、子どもというのはいつまでも興味が尽きない。それで互いの役目を思い出せ、とそう示した。
「中尉さまはどのようにお考えなのですか」
「私ではなく、妖狐殿の意思を訊ねているのです」
ふわり、とあやかしが微笑むので、源二郎は顔を顰めた。
あやかしと人は、まるで対等にはなれない。軍人である源二郎はそれをよくよく理解している。彼らが少しでも考えを変えれば、たとえ帯刀している軍人であっても、あやかしの爪や牙、怪しげな術にはひとたまりもない。
こうして一応は「見合い」の形を取り「双方の合意の上で」などという茶番を演じてはいるものの、あやかし側、つまりはこの少女が、人間側が差し出す「花婿」を気に入らねば仕方ないのだ。
源二郎は自分が時間稼ぎ、あるいは本来予定されていた「花婿」を用意できなかったことへの謝罪のための供物であると考えていた。自分のような、おおよそ夫に向かぬ性格の男を、政府が本気で「花婿」にしようとするわけもない。
であるので、ここであやかしに「気に入らない」と烙印を押されれば、そのまま食われるか何かと末路は決まっているのだろう。
「姫君とて、私では不服でしょう」
「どうして、ですか?」
「歳が離れすぎている」
源二郎は二十六歳になる。対してこの妖狐は十になるかならないかだろう。本来予定されていた花婿が六歳だったことを考えれば、もっと幼いのかもしれない。
「……中尉さまは、歳が離れすぎているとお嫌ですか?」
「私ではなく、妖狐殿の話をしているのです。――なぜ先ほどから、私のことばかり気にするのですか」
「わたし、中尉さまはこうしてわたしの気持ちを考えてくださるし、とてもおやさしい方だと思いました。やさしいことは良いことですわ。ですから、えぇ。わたし、中尉さまだったらいいなぁって、わたしが決めて良いのでしたら」
「……正気か?」
思わず、源二郎は素が出た。己の何を見て「やさしい」などと言うのか。これまで源二郎の半生で、自分を指してそのように評されたことがない。
幼年期に同じ歳の子どもらと過ごした際には「いつも不機嫌そうな顔をしている」「何か言うと怒られるような気がする」と友らしい友もできず。武術稽古のために通った道場では「おまえを見ていると気を抜くことができなくなる」と師範に溜息をつかれた。
姉や義兄からは「顔が怖い」「おまえといてもつまらない」と再三言われてきたもので、源二郎は「なるほど、自分という人間は他人の心を落ち着かなくさせるのか」と知った。軍人となったのも、規則で律せられた場であれば己の性質もそれほど害にならぬだろうと判じてのこと。
そういう男だと自認している源二郎だ。女、子どもの機嫌を取ることのできる人間だと、周囲も思うわけがない。政府や上司たちが己に死んでこいと言うのなら、そうすべきかと考えていたというのに、このあやかしの姫は、それをやさしいなどとは。
気の毒にと思った。本来なら、今日の場、この幼いあやかしの姫は、己の甥と楽しく談笑し幼い子ども同士意気投合して、良い時間を過ごせたのだろう。
源二郎は眉間にしわを寄せ、押し黙る。それっきり何も言わずにいると、狐の子どもが困ったように眉をハの字にさせていた。
§
「食われずに済んだじゃあないか! 良かったね! 良か……ぐがっ!」
夜になれば霧が出る。あやかしたちの姿も見られるようになり、うっかりと足を滑らせては彼らの世界に落ちてしまうぞ、と脅かされる頃合い。
自宅に戻った源二郎は、誰もいないはずの家に当たり前のように入り込んで一杯やっている同僚を、無言で殴り飛ばした。軍服の上着もなく着崩した格好の青年が、畳の上に転がる。
「暴力は良くないんじゃないかな! 源二郎! そんなんだからきみは友達がいないんだぞ! ぼくくらいしかね!」
「友というのが貴様のようなだらけきった者なら願い下げだ。人の家で何をしている」
源二郎の自称友人、実際のところはただの腐れ縁というか、どれほど邪険にしても何をしてもしぶとく付きまとってくる面倒くさい男である。いつ出会ったのか定かではないが、士官学校に入った頃から目にはしていた。それで、気づけば自分の前によく出没するようになった。
神田湊という、同じく帝国軍中尉の地位にいる男。当人は「実家が名家だからね」と嘯くが、中尉というのはそれなりの地位である。
神田はわざとらしく「痛たたた」などと言いながらも、顔はへらりへらりと笑っている。
「ぼくはこれでもきみを心配していたんだぞ。あやかし姫の見合い相手、なんて言いながら、実際はきみを厄介払いしたい連中が都合良く仕立て上げたんだろう?」
「さぁな。姉が憔悴していた姿は哀れだった。おれが何かしてやれるなら、それがおれに死ねということなら、それでもいいだろう」
「きみは全くひどい男だなぁ! きみが死んだらぼくがどれほど悲しむか、考えてはくれないのかい」
悲しいと泣きながら、遊郭の女の膝に埋もれる口実にするだけだろう、と源二郎は鼻で笑い飛ばした。
「それで? どうだった。あやかしの姫、やはり口は大きく裂けていた? 目は火のように燃えていた?」
「馬鹿を言うな。そんなものは迷信だと知っているだろう。霧の出る前の世界じゃあるまいし、昨今あやかしなんぞ珍しくもない」
「狐のあやかしは珍しいよ。狐はほとんどが神族の連なりだからね」
神の眷属となり、神徒となるのが多いと神田は説明する。
「あやかしのままでいる狐は、あやかしの姫の一族くらいしかいないはずだ」
はたり、と源二郎は上着を脱ぐ手を止める。
実を言えば、源二郎はあやかしに詳しくはない。帝都軍人の多くがそうであるように、ただ軍事訓練と任務をこなし、食べて動いて寝る、そういう男である。
あやかしとの距離が以前よりは近くなったとはいえ、彼らに興味を持って近づかなければ詳しく知ることもない。所詮は別々の世界の生き物だ、とそのように考えられるだけの距離はまだあった。
「源二郎が食われなかったってことは、気に入られたのかな? 次の約束はしてる? 取り決めどおりなら、次は家に招くんだったっけ」
「よく知っているな」
「きみのことが心配でね!」
二言目にはそのように恩着せがましいことを言う男である。
源二郎はようやく軽装に着替え、すでに勝手に膳を持ってきて夕食を始めている神田の隣に、自分も酒を置いた。
から酒は良くない。台所に戻るが、源二郎は男の一人暮らし。食事は朝と昼は軍の食堂を使う。夕食は酒と、魚を焼いたりたくあんを切ったりで済ませたが、どうしたものかと見れば、神田の膳には見慣れぬ茶色い……妙なものがある。
「あぁ、これ? うちの女中が銀座の店で買ってきたんだ。メリケン粉に卵やバタ、牛乳を混ぜて焼いたものだそうだよ。いろいろ種類があって、これは干した果物が入っているんだ」
「相変わらずおまえは口が奢っているな」
「当然の権利だね。こうして健康で、そこそこの収入があって、いろんなものの集まる帝都に住んでいるんだからね。おいしいものを食べようとするのは道理だと思うよ」
そういえば、神田は美食家であった。諜報部の所属であるというのもあるだろうが、あちこちと出歩いてはどこぞの店の何がうまかっただのなんだのと言ってくる。
「で、実際のところなんだけどさ。きみはこのまま大人しく死ぬ気かい?」
「お国のために死ねというのなら、そうあるべきだろう」
「さて、どうかな。国のためだと言うのなら、きみはあやかし姫を娶るべきだ。そう都合良く、姫君の気に入る男が用意できるわけもない。きみの甥御さんは気の毒だったけれど、甥御さんに次いできみが辞退すれば、誰かがあやかし姫に気に入られるまで食われ続けるかもしれないよ」
「おれが気に入られた、とは思えんが」
源二郎は生きて寺を出たが、しかし自分があの子どもに気に入られたとは思えない。あの子どもは勝手に自分をやさしいと勘違いしてるだけだ。思い違いをした姿を気に入ったのなら、それは源二郎本人ではない。
「きみは融通が利かない堅物で、二言目にはお国のためだのなんだのと真面目なやつだけど。そのあやかし姫が、きみでなくていいとしても、きみでもいいなら、そうなればいいじゃないか」
「おまえはおれが良い夫になるとでも思えるのか」
源二郎は顔を顰める。学生時代、ただ道を歩いていただけなのに、女学校の生徒から「顔が怖くてこの道を通れないから帰路を変えてほしい」と訴えられたのを、指差して笑ったのは神田だ。
「さぁ。でも考えようによっては、きみは最高じゃないか。とにかく真面目だ。国のためにこの結婚が必要なんだとしたら、きみは全力で、きみが考えられる全ての方法で姫君を大切にするだろう?」
「おれは女、子どもの喜ぶようなことはわからん」
「でもきみはきっと誠実だ」
国のために、ということを源二郎は改めて考える。己のような男はこのお役目にふさわしくないと思ったが、なるほど、確かに、そういう考え方もあるかもしれない。
四の五の言っていても、どのみち、己もいずれはどこぞから妻を得る。家のための結婚が、お国のために変わるのであれば、それは名誉なことではないか。
「と、いうことで、きみの未来のお嫁さんが、家の下見に来るまでに……何か贈り物でも考えようよ。女性というものは、いくつでも誰かが自分のために何かを選んで贈ってくれることが好きなんだ」
毎週大量の請求書が届けられる神田はやはり言うことが違う。
源二郎は単純な手だとは思ったが、浮いた言葉の一つも知らない己でも何か適当に見繕うことくらいはできるだろう。
それで、あの狐の子どもはどんなものが好きなのか、見合いの中の会話でそれらしい情報はなかったか、と神田に問われるが、思いつくことはない。
「お見合いしたのに、趣味とか特技とか……好きなものの話をしなかった……⁉ きみたち、何してたの? かるたでもしてた?」
「馬鹿にしているのか」
「ごめん、すごろくかな」
もう一度殴り飛ばしてもいいだろうか。
しかし、こうして思い浮かばないのも情けない。面白がっているのだろうが、神田は協力すると申し出ているのだ。こちらも何か答えなければ、と記憶を探る。
「そういえば、オムライスがどうのと言っていたな」
「オムライス。へぇ、そりゃ可愛らしいものを。好きなのかな?」
「おれが食べたことがないというのを面白がっていただけだ」
なぜそんな話題になったのかは覚えていない。子どもがあれこれと次から次に話す言葉に意味などないと、聞き流していた。
「それじゃあ、オムライスを食べに行こうか! そうすれば、今度会った時にきみがもう初オムライスをしたって話ができるしね!」
「今からやっている店などあるのか」
「店はないよ」
あるわけないだろう、今何時だと思っているのだと神田に言われ、源二郎は苛立つ。
「でもオムライスが食べられる場所を知っているんだ。行こう! 君の結婚活動……婚活同盟といこうじゃないか!」
さぁ、と神田は素早く上着を着ると、乱れていた髪や装いを正す。すっきりとした顔立ちの美丈夫は、呑んでいたようには思えない足取りですたすたと玄関へ向かっていった。
「源二郎はオムライスを食べたことがないって言うけど、どんなものかくらいは知っているだろう?」
深夜というわけではないが、それなりに遅い時間。霧の出た屋外には辻馬車も見られるが、多くはあやかし、おぼろ車である。
源二郎は普段、夜中に外に出ることはしない。これは多くの模範的な帝都の民がそうであるが、夜はあやかしや神々の時間で、人は家で体を休め家族と過ごすべき時であるという考えからだ。
亥の刻を少し過ぎたくらいに理由なく出歩くことは「不真面目」「不信心」だなんだと、顔を顰められるもの。若くして中尉の座に就いている神田は、そういった他人に遊び人と言われようがどこ吹く風で、ひょうひょうと歩いている。
「それくらい知っている。血のように赤く染めた飯を薄焼きの卵で包んだものだろう」
「言い方! 物騒! まぁ、ひと昔前はね。今はもう明治じゃないんだ。昨今じゃ、煉獄亭や南極星だけが洋食店じゃない」
それでは、と神田は目的の場所まであれこれとオムライスについて語り始めた。
「きみも知ってのとおり、オムライスは卵料理だ。オムレツは食べたことが? ない? 帝都に生きているのに、きみは人生の大半を損しているね。まぁそんなつまらない日々とも結婚すればきっとおさらばさ! ――無言で蹴るのやめてくれないかい? まぁ、それはいいとして。オムレツをチキンライスの上に載せたものとか、まるで西洋婦人のドレスのすそのようにくるりと巻いた卵焼きを載せるものもあるんだ。ひと昔前はね、ライスを一つの具として混ぜてオムレツにしたり、薄焼き卵にただライスが包まれているだけだったけれど、今や我が国は豊かになり、卵はたっぷりと使える。分厚く焼いた半熟の卵に、熱く溶けたバタや米が絡み合うと一等うまいんだよ!」
オムライス、オムライス。たかが卵料理一つに熱く語られても困る。神田は同僚が無反応なので、ふてくされるように唇を尖らせた。
「いいさ、いいよ。きみはそういうやつだからね。あぁ、見えてきたよ。あの建物さ」
「学生街じゃないか」
少し歩いて着いたのは、源二郎の家のある旧武家屋敷の並びから離れた学生街。あちこちに国元から離れて帝都に来た若者たちが下宿しており、勉学に励むものたちはまだ眠りにつかず、どの部屋の明かりも煌々としている。
その一つの屋敷の玄関前に来れば、すぐにパタパタと、禿げ頭の初老の男がやってきた。
「おやま。おこんばんは。神田様。ふふ、またお腹を空かせてきたんですかぃ」
「やぁ、豆助。今日は友人を連れてきてね、オムライスを食べたことがないというやつだから、ぜひ拵えてやってくれよ」
小柄で貧相、だが妙に顔に愛嬌がある。神田が豆助と呼んだ男は丁寧に頭を下げ、源二郎にも夜の挨拶をした。
「ここはぼくがパトロンをしている下宿先でね。母の故郷で、帝都に上がりたいと志した若者を集めてる。簡単な面接と筆記試験をクリアしたら、無料で六年間、使用できるようにしているんだ」
「初耳だ」
「そりゃそうだ。言ってなかったからね」
へらり、と神田は笑う。なんでもないことのように言うが、源二郎には衝撃的だった。
いつもニヤニヤとして遊び歩いているような不真面目な男が、こういった活動をしているとは思いもよらなかった。
なるほど、学生の頃の自分の同級生にも、国元から出て住む場所や食うに困っていたものがいた。自分は実家からの支援があり不自由をしたことがなかったが、そういう同級生は金策に窮し、いつも薄い服を着ていて腹を空かせ、体を壊しがちだった。
それが成績にも影響していたことが、今なら理解できる。ただ、当時の了見の狭い己は、怠慢だと、そう感じていたことも思い出す。
「湊さん!」
「湊先輩! いらしてたのですか!」
「また面白い話を聞かせてください!」
食堂へと案内される途中、階段からひょっこりと、あちこちあれこれ、学生たちが顔を覗かせ、神田を認めて下りてくる。
あっという間に学生たちに囲まれて、源二郎は難儀した。
「あの、湊さん……ちょっと相談に乗ってもらいたいことがあって」
「こらこら、おまえたち。今日はぼくだけじゃあないんだ。帝都軍人、小坂中尉殿も一緒だぞ。礼儀正しくしなさい」
きらきらと目を輝かせるものたちに、どう対応すればいいかわからずにいると、それをけらけらと笑いながらも、神田が助け舟を出す。すると、学生たちははたり、と表情を変え、背筋を伸ばして礼儀正しい振る舞いになった。
「大変失礼いたしました! 小坂中尉殿!」
先ほど神田に向けていた無邪気に慕う様子とは一変し、きちんと礼儀作法をわきまえた様子に、この子どもたちはきちんと教育を受けているのだろうと感心した。
「今日は友人と食事をしに来たんだ。さぁ、おまえたちは寝るなり勉強に戻るなりしなさい。あとでみんなに汁粉を振る舞うように、豆助に言っておくから」
夜食の差し入れを聞いて、学生たちは嬉しそうに声を上げた。そして各々神田と源二郎に挨拶をして、階段の上に戻っていく。
「ごめんね、騒がしかっただろう」
「若者に活力があることは帝都の未来に活気があるということだ」
「かたいなぁ! はは、でもそう言ってもらえると嬉しいよ。彼らはみんな、ぼくの弟のようなものだからね」
源二郎の生真面目な答えに、神田は嬉しそうに笑った。
案内された食堂は、木製の大きなテーブルに椅子がいくつもある、学生食堂と言うにふさわしい場所だった。ただ、テーブルの上には花瓶にいけられた花があり、食堂の壁には源二郎の目にもわかるほど優れた画家の作品の絵がいくつも飾られている。
二人が学生たちに囲まれている間に、先に行った豆助がすでに用意をしていたらしく、テーブルの上には二人分のテーブルセット――銀のナイフやフォークなどといった、源二郎の目には珍しいものが並べられている。
「ここでは朝は和食、昼は弁当、夜は洋食と決めているんだ。夜はテーブルマナーも学べるように、晩餐会で使うものを用意してる」
「晩餐会に招かれるものなどわずかだろう」
ここの学生たちは神田の家の援助を受けている身。となれば家は貧しいものばかりなのだろう。晩餐会のような場に招かれる立場になるのはひと握りの成功者だけだ。
「ぼくが思うに、いつか霧が晴れたなら、きっと誰もが当たり前にナイフやフォークを扱える時代になると思うよ」
源二郎はぎょっとした。霧が晴れる、などと恐ろしいことを口にすべきではない。霧は国を外国から守る手段だ。霧がなくなればかつての黒船来航の恐怖が再びこの国を支配する。
「神田――」
「さぁ、席につこう! 豆助は手早いからね、あっという間にオムライスを仕上げてしまうよ!」
へらり、と神田が笑う。いつもの、人懐っこく軽薄な笑顔で椅子を引く。
神田に限って大それた思想なんぞあるわけがない。のらりくらりと生きるひょうひょうとした男。何も深いことを考えずにあれこれ言っているに違いない。
それに、源二郎は今は招かれた身であるし、これは長年の友人だ。もし当人が気づかぬうちに危険なことをしているのなら、それはその時、己が止めればいいのだと、源二郎は咎めようとした言葉を呑み込んだ。
実のところ、源二郎はオムライスはもとより、オムレツすらも、食べたことも見たこともなかった。
維新前はそれなりの武家であった家の長男。実家はかの有名な鹿鳴館への出入りも許されており、それこそ父は頻繁に夜会に出向いていた。
だが源二郎は「自分はそのように着飾る必要はなく、またこの身は常にお国のために精進すべきであるから」と届けられる招待状を断り続け、結果そういった華やかな世界から遠ざかり、西洋料理を口にする機会がなかった。
「……想像より、大きいのだな」
それであるので源二郎は、知識としてはオムライスを「薄く焼いた卵で飯を包んだ料理」と承知していても、それがどんな姿であるのかは知らなかった。
さて、午前は甥の葬儀に、午後はあやかし姫との見合い、夜には外出し、更に同僚の意外な側面を知るなど、情報量の多い一日であった。
それを締めくくるように、どん、と出されたのは、これも源二郎には馴染みのない真っ白い丸い皿と、そこに高く盛られた赤い飯、その上には辛子より明るい黄色の楕円に焼かれた卵。
「……なぜこんなに滑らかな表面になるんだ?」
卵焼きというものは、その表面がでこぼこしているものだ。それに、場合によっては茶色く焼きあともある。しかし、出された皿の上の卵焼きは、とても滑らかで美しい。
源二郎にとって食事というものは、飯があり汁があり、副食として小鉢に何か盛られているものだった。それが、このオムライスというやつは大きな平皿にぽん、と飯と副菜であろう卵焼きが載せられている。
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