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2 ブルーチーズチキン

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 金子の眼鏡が吹っ飛んだ。

 左腕を噛み付かれているのですぐに拾いに行けないが、まぁ、割れてはいないだろう。目の前には興奮し暴れる小柄な老婦人、Y野様だ。目は血走り、老人とは思えない力で金子の腕を握り、噛み付いている。

 金子の後ろには新人職員が、尻もちをついてこの光景を眺めている。唖然としている様子の、まだあどけなさが残る青年だ。もう二十五だと聞いているが、働くのは初めてらしい。三か月前に介護士の一番簡単な資格を取って入職した。

 さて、金子は本日も夜勤だ。四時半から夜勤入り。日勤からの申し送りを受け、全館夕礼に参加して、夕食後の就寝介助を行う遅番たちとは別に、食堂で食器を洗ったり就寝薬の確認をしたり、誘導前のご利用者様の見守りをするのが今のところの仕事、のはずだった。

 金子の勤務先は短期入所であるので、夜勤時のご利用者様の顔ぶれは毎回変わる。大部屋と個室合わせて30名の収容がが可能だが、短期入所が終わり夕方に帰るご利用者様もいるので30名が夜間いらっしゃることはない。

 昨晩の夜勤は20名。午前中に6名いらっしゃって、夕方に10名お帰りになられた。ので、お泊りされるのは16名と少な目だ。

 だから油断していた、というわけではないのだが「明日の夜勤明けは何食べよう」と考えていた金子の耳に、女性の悲鳴が聞こえた。

「あ、あのっ、僕、何もしてないんです!でも突然、暴れ出して……!」

 個室には介護ベッドとテレビと簡単なタンスがある。慌てて部屋に入ると、新人職員が尻もちをついて、ベッドに腰かけたY野様に服を掴まれて身動きが取れなくなっていた。

「Y野さん止めてくださいよ!僕、なにかしました!?」

 新人職員の手には更衣させようとした寝間着が握りしめられている。就寝介助は、まず口腔ケアをする。Y野様はバギーを使いご自身で歩行されるが、ふらつきがみられるため必ず付き添いが必要な方だ。ご自身で歯磨きすることはできるものの、歯ブラシに歯磨き粉を付けてお渡しし、ゆっくり五分くらい考えながら行う。うがいは洗面台に吐き出す事が出来ないため、口元にガーグルベースを持って行って「ぺってしてくださいね」とお願いすると、口を開いて真下に流す。

 ショートステイを利用するまで認知症の薬を飲んだ事がなく、一か月前にやっとご家族様にお願いして受診して頂き、メマンチン5mgを処方された。進行を抑制する薬であるが、食欲不振になりやすく、傾眠されることが増えるなど副作用も多い。

「わかってますから、とりあえず、居室から出てください」

 金子は怯える新人職員に退室を促す。
 服を掴まれている手を何とか離そうとした結果、金子の腕が噛み付かれる事態となっているが、まぁ、これは金子が悪い。

 認知症の方は、感情のコントロールが上手くできないことがある。常に「ここはどこ」「自分は何をしていたのか」「なんで知らない人がいるのか」と不安と恐怖でいっぱいだ。

 今、Y野様は、見知らぬ男性に衣服を剥がれて怖くて仕方ない。興奮し、怯えて抵抗した結果、というのがなんとなく現状わかることだが、実際のところはご本人様ではないとわからない。

 さて、噛み付かれている腕だが無理に引くと肉を持って行かれる。義歯でなくご自身の歯でいらっしゃるので、とても丈夫だ。

「まぁまぁ、Y野さん。ほら、彼は出て行きましたよ。どうしたんです?」

 金子はフーフーと荒く鼻で息をするY野様に、出来る限り穏やかで落ち着いた声を出しながら話しかける。肩を叩こうとした反対の手は乱暴に払い落とされた。その拍子に噛み付いていた口が離れる。

「なんなんだよぅ!!なんなんだ!!」

「お騒がせして申し訳ありませんでした」

 一礼して、その場を離れる。ベッドに深く腰掛けているので、暴れない限りずり落ちもないだろう。居室のドアを閉めて、少しだけ隙間を開け中の様子を窺う。

「あの、僕、本当になんにもしてないです」

「まぁ、あぁいう感じになったら、いったん離れるしかないですよ~」

 部屋の外では新人職員の八木が立っていた。金子が出て来たことを見ると泣きそうな顔で弁明してくる。性格的に、この新人職員が暴力や暴言を吐いて興奮させたわけでないことはわかる。一生懸命で、悪い子ではない。

「池田さん一緒じゃないんですか?」

 金子は彼のメンター(新人を個別に担当し、教育支援する先輩職員)ではないが、一緒にいるはずの先輩職員がいないので聞いてみた。

 新人職員は入職して三か月間は先輩職員と行動を共にする。

「あ、はい。他の人の介助に入ってます」

「え、なんで」

「え、Y野さんはパジャマを渡せばご自分で着替えられる簡単な方だから僕一人で大丈夫だって……」

 おい池田。

 金子からしても池田は先輩職員だが、思わず心の中で呼び捨てにしてしまった。

 確かに、就寝介助は時間との勝負だ。夕食は六時から。遅番の定時は八時。食事介助や服薬介助をしてどんなに早くても、就寝介助は六時半からの一時間半しか時間がない。

 ちなみに金子の勤めるこの施設は定時以降の残業は「理由があって残業しますと事前申請すれば残業代が出る」というクソみたいな制度である。つまり就寝介助が中々終わらず定時を過ぎても、別に残業代は出ない。

 池田さんはお子さんのいらっしゃるお母さまだ。定時で帰りたいだろう。定時で帰れない職場はクソだと金子も思っている。

 遅番職員は1名。自立してご自身で居室に戻り就寝の支度が出来るご利用者様も2,3名はいるがそれ以外は車椅子で全介助、歩行は出来るが自主的には何もできない方など等。

 もちろん入所者全員を1人で対応するのではない、まだ眠りたくない方や就寝役を飲んでから居室に戻らないといけない方などいるので、実際は10人以下だが……それでも大変な仕事だ。

 手間のかからないご利用者様を新人に任せて自分は別に動く、のも、まぁ、良くあるケースではあった。

「そうですかー。そうですか……」

 金子はうんうん、と頷いた。

 頭の中は「夜勤明けたら何食べよう」と、もう、それ以外考えたくない。

 今食べたいものは、と思い浮かべてみる。最近出来たファストフード店がいいだろうか。良い油で揚げたチキンを売りにしている、韓国発のお店だ。金額も飲み物とポテトが付いたセットが千円以下。チキンの他にサラダ類も充実していて、トッピングを色々自分で選べるスタイルになっている。

 そこのブルーチーズソースを使ったチキンバーガーが絶品なのだ。

 ブルーチーズというと、クセが強い。好きなひとは好きだろうが、あの「なんでこんなん食おうと思った、イカレてるのか」と聞きたくなるような臭さと味。金子もブルーチーズ単体は食べられない。無理だ、嫌だ。

 だがそのお店の、ブルーチーズソースバーガーはチーズの青かび特有の臭さ、酸味がそれほど強くなく、ソースにする過程でマスタードや何かまろやかになるものを入れているのだろう。

 苦みの中に甘さがあり、サクサクっとしたフライドチキンの衣と、新鮮なレタス、トマト、ふわっふわのバンズで「バーガー」という料理にされると、もう芸術作品としか思えない。

 絶品、という表現がこれほど相応しい商品はないだろうと金子は食べた時に感動した。

(よし、夜勤明けたら買いに行こう)

 お店は十時から開店なので余裕で間に合う。明日は絶対に定時に上がってやると金子は強く心に誓った。

「あの、血出てますけど……」

「え?あぁ……消毒してきます~」

 見れば金子の腕は血まみれになっていた。皮膚が食い破られ、紫色に変色している。きちんと丸く歯の噛み痕になっているのに妙に感心しながら食堂の隣のステーションに入ると先輩職員の池田がご利用者様に塗る軟膏を探していた。

「あ、池田さん。八木くん一人にしない方がいいんじゃないでしょうか。まだわからないことも多いですし」

「Y野さん寝かせるだけでしょ?それくらいやって貰わないと困るわよ」

 池田は金子は後輩なのに自分に説教をするのかと嫌そうな顔をする。

「いや、でもほら。Y野さん、ちょっと扱いが難しいですし~」

「自分でなんでも経験して利用者さんのこと理解してかないと覚えないでしょ」

「そうですね~」

 きちんとした知識がない職員が担当して、興奮させられるご利用者様的にはたまったもんじゃないだろうなぁ、という言葉を金子は飲み込んだ。

 介護職は、人間関係が悪い現場がとても多い。女性の多い職場であるから、というのは偏見だろうか。陰口やら、少しでも気に入らないと「困っていても手伝わない」という事態に発展してしまう。協力しあい、チームワークが大切な職場であるのだが、一人でなんとかできなくもないので、そういうことになってしまう。

 金子は下の階で先輩職員に入浴介助時、シャワーから水をつぎ足ししなければならず、蛇口からつぎ足したら怒られ「結果は一緒だと思うんですが!」と口答えしてから無視されるようになり、一年後ショートステイに移動になった。

「そうですよね~、そうですよねぇ~」

 にこにこと頷いて、消毒液で傷を洗う。池田はそれを見ていたが、特に何か質問することはなく業務に戻って行った。








「やらかしやがったあのクソババァ」

 朝からかかってきたクレームの電話を切って、金子は天を仰いだ。

 昨日お帰りになられたご家族様からのお電話だ。事務の出勤時間である八時半丁度にお電話をくださったのは良識的な方である。

 ご内容。

『入浴後に塗ってくださいとお渡ししている保湿クリーム、使ってませんよね?グラムが一緒なんですけど』

 介護記録 ”入浴後保湿クリームを全身に塗布する”:入浴担当 池田・八木

 該当のご利用者様は全身まひされている長身の男性だ。しっかりとした体格で二名介助でないと難しい。寝たきりで入れる特浴を使用しなければならず、ご自宅での入浴は不可能だ。ご家族は息子様と娘様がいらっしゃって、海外で暮らしている息子様が資金援助を、広いお庭の付く豪邸に住む娘様が日々の介助をされている。

 入浴して貰うためにショートステイを利用されていて、それ以外がご自宅に介護士とお手伝いさんがいてお世話をされているらしい。金子も送迎でご自宅に伺ったことがあるが、玄関を開けたら広間で階段があり、絵が飾っているという豪邸はフィクションではなかったのかと驚いたものである。

 娘様はお父様をとても大切にされているので……こちらのご家族様の扱いは要注意と周知されているはずだ。

 金子はクレーム対応をする立場の職員ではない。すべきことは、まずショートステイの主任に報告。主任は九時から出勤し入所者のスケジュール管理やら面談やらあれこれ事務仕事が多い。ご家族様対応も主任の仕事の一つだが、朝からクレーム対応をお願いするのは申し訳ないな、と金子は思った。まぁ、するが。

 池田は土日はお休みなので、次の出勤は明後日。それまでにはこの問題も解決しているだろうし、犯人探しはしないで主任が責任を取るのだろう。

 気の毒に、と思いながら金子は定時になったのでタイムカードを打刻して、お店に向かった。




本日の夜勤明け飯:ブルーチーズソースチキンバーガーセット 880円



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