上 下
6 / 115

中川先生の野望

しおりを挟む
中空会空手道場の指導員になって早くも2年が経ちました。

このころの私は当然ですが平日はサラリーマンとして会社勤めをしていて、休日は空手の指導員という生活パターンにすっかり慣れていました。

プライベートはというと、驚くなかれ。真理子とはまだ交際が続いていました。
彼女が絶対嫌といっていたパートタイムなデートでしたが、それでもまあまあ楽しくやっておりました。

つまりなかなか充実した毎日を送っていたわけです。

そんなある日のことです。

「冨井、ちょっと話がある。今日の稽古の後で付き合ってくれ」

中川先生に声をかけられました。会合場所は例によって駅前の牛丼店。

稽古を終えて牛丼店に向かうと、すでに中川先生が店頭で待っていました。

「冨井、こっちだ」言うなり店内に入ります。

「押忍、先生。話というのはなんでしょう?」

「うん、実は昨日なんだけど、スリランカのデワから国際電話があったんだ」

「ああそうなんですか。デワ元気にやってますか?」

「うん、元気そうだったよ。それでデワが俺に折り入って相談があるって言うんだ」

ここで運ばれてきた牛丼に七味と紅ショウガをたっぷり振りかけて先生は話を続けました。

「実はデワの奴、スリランカで空手道場を開きたいって言うんだね」

「デワがですか?空手道場ってあいつ、空手なんか一年もやってないし、どうやって教えるつもりなんですかね。調子こいてやがるなあ。日本に居たらシメてやるのに」

「いやシメなくてもいいよ。要するにデワはスリランカに中空会の支部道場を作るっていうんだから」

私も牛丼に七味と紅ショウガをたっぷり振りかけながら聞き返しました。

「スリランカ支部道場ですか。しかしそれを先生が認可したとしても、デワじゃ何も教えられませんよ」

「うん、だからね、日本から優秀な指導員を派遣してほしいってんだな」

「へえ、指導員ですか。そんなスリランカくんだりまで行ってくれる奇特な指導員て、先生心当たりでもあるんですか」

「居るじゃん。俺の目の前に」

私は思わず口に含んだ牛丼を吹き出しそうになりました。

「え?えっ?なんですか?それ僕にスリランカまで行けってことですか?」

「だってウチに指導員ていったらお前しか居ないじゃない。派遣するならお前だよ」

そういって旨そうにお茶を飲む中川先生が小面憎くなってきました。

「先生、いったい何考えてるんですか。僕には仕事だってあるし、行けるわけないじゃないですか」

「あのなあ冨井。考えてみろ、中空会の海外支部第一号だぞ。世界に俺たちの空手を広める第一歩じゃないか。チャンスだよ、俺たちの夢がかなう」

・・・いやそれはあんたの夢で、僕はそんな夢見たことない・・・とはなぜか言えなかった。

「いいから考えてみろ。お前このまま一生が終わってもいいのか?悔いは残らないか?平凡なサラリーマンとしての一生で。薄給で女房子供を養うだけの毎日だぞ。それでいいのか?」

大手企業の偉いさんで、安定した生活を営んでいる中川先生に言われたくはないですが、もしかしたらそれは中川先生自身が持っている悔いだったのかもしれません。

「とにかく考えてくれ。返事はすぐにじゃなくてもいいからな。ここの勘定は俺が払っておくからお前はゆっくり食べていけ。じゃあな」

言うなり先生は立ち上がって会計をすませ、そそくさと出ていきました。

それから二日後。
私は中川先生に電話していました。

「先生、例の話ですが、やらせていただきます」

今もってこのときの自分の行動が謎なのです。なんであんな電話かけちゃったのだろう。
この一本の電話で私は平凡だけど安定した人生を失ったのですから。

それと引き換えに得たものは何?このホラ話と、まあまあ面白おかしかった若い日々でしょうか。
とにかくその時の私は自分の好奇心に抗えなかったのかもしれません。

・・・徒手空拳。空手を武器に世界を渡り歩く。なんだかカッコイイかも?・・・
そんなことを考えていたのかもしれません。なんとガキっぽいことを。

だいたい武器にできるほどの空手の腕なんか、まったく持っていないという事実を失念しているし。

まったくバカだったとしか言いようがありませんが、私はすぐに会社に退職願を提出しました。
そして真理子には・・・さんざん罵倒されたあげくきっぱりと別れを告げられたことは言うまでもありません。

こうして馬鹿で間抜けな私の新しい人生が幕を開けたのです。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

夫の不貞現場を目撃してしまいました

秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。 何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。 そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。 なろう様でも掲載しております。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

愛されていないのですね、ではさようなら。

杉本凪咲
恋愛
夫から告げられた冷徹な言葉。 「お前へ愛は存在しない。さっさと消えろ」 私はその言葉を受け入れると夫の元を去り……

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

2番目の1番【完】

綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。 騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。 それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。 王女様には私は勝てない。 結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。 ※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです 自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。 批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…

処理中です...