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1974~1975年のプロローグ

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サイキック【psychic】(名詞)
超能力者、霊能力者、霊媒など、超自然的な精神能力を有する者。
超心理学においては主に超感覚(Extra Sensory Perception=ESP)と念動力(Psycho kinesis=PK)の能力者を指すことが多いが、さらに広範囲な能力者を指す場合もある。しばしばエスパー【esper】と誤用されるが、これは極めて狭義な文学的表現であり、学術用語としては正しくない。

ジョセフ・リッチフィールド著「超心理学の基礎知識」より


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「いいんだよ純一君。君が出来るのは知っている。僕は何度も目の前で見せてもらったからね」

 テレビ朝売のディレクター真崎は、10歳の少年・御影純一みかげじゅんいちにやさしい口調で話しかけた。

 真崎は彼自身の言うとおり、実際に何度も目の前でそれを見たのだ。

 1974年、日本は空前の超能力ブームの真っただ中にあった。

 海外から来日した超能力者が実演した、スプーン曲げが発端となり、全国に自称・超能力少年が溢れかえったのだ。

 それらの少年たちの大部分は稚拙な手品を演じたに過ぎなかったが、数名の少年は本物としか思えない能力を見せた。

 その中でも突出した能力を見せた少年が、御影純一であった。

 スプーンを曲げる程度なら、手を触れる必要すらなかった。

 放り投げて空中で曲げることも出来たし、テーブルに置かれた数本のスプーンを手を触れず同時に曲げたこともある。

 束ねた真っ直ぐな針金を空中に投げると、それらは鎖状に繋がった。

 彼は金属だけでなく、普通なら折れてしまうはずの割りばしを曲げることもできた。

 プラスチック製のスプーンを曲げて見せたこともある。

 しかし時代の寵児となった純一は、アイドルスターなみの過密スケジュールに、すでに疲労困憊だったのだ。

「ごめんなさい、僕はもう出来ません」

 泣き出しそうな声で純一は言った。

「疲れているのはわかるよ。でも、これはお仕事なんだ。本番で出来ませんでしたは通用しないからね。でも大丈夫だよ」

 真崎は純一にスプーンを手渡した。

 そのスプーンはすでに90度を超える角度で曲げられていた。

「本番ではこれを投げてくれるだけでいい。テレビというのはどうにでも写せるから大丈夫。こちらでちゃんと編集するから、わかったね」

 純一少年は力なく頷いた。

 真崎は純一を残しその場から離れると、スタジオの片隅でさきほどから2人の会話をじっと聞いていた、週刊朝売の記者・小野寺に話しかけた。

「待たせたな小野寺。ブームは俺たちテレビが作り出す。ブームを終わらせるのは君たち週刊誌の仕事だ。しかし他局の系列誌にやらせるわけにはいかないからな」

「感謝するよ、真崎。持ち上げて、そして落とすか。ひとつのネタで2度稼がせてもらうわけだ。つくづく阿漕な商売だな、マスコミというのは」

「どうせ放っておいてもこんなバカなブームが長続きするわけないんだ。どこで幕を引くかが腕の見せ所なんだよ」

 真崎はそう言うと、ひとりで不安げな表情をして折りたたみ椅子に座っている純一に目を向けた。

『お粗末!超能力はトリックだった』

『本誌カメラマンがスプーン曲げのトリックを見破る』

 翌週発売された週刊朝売は爆発的に売れた。

 雑誌にはストロボ連続撮影された写真が掲載されていた。

 そこには、御影純一少年が最初から曲がっているスプーンを投げている一部始終が写っていたのだ。

 発売の翌日のテレビでは、純一の母親が泣きながら謝罪するシーンが放映された。

 こうして空前の超能力ブームは幕を下したのである。

 この話には世間ではあまり知られていない後日談がある。

 超能力ブームが跡形もなく消え去った1975年の6月。

 ブームの仕掛け人であった朝売テレビの真崎、ブームを終わらせた週刊朝売の記者・小野寺の両名は、同月ともに急性心不全によって急死したのだ。

 事件性はまったくなかったため、単なる病死として片づけられたが、マスコミ業界人の間では『超能力少年の呪い』という都市伝説になっている。

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