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一章
どこにでもあった幸せ(4)
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「すまない、少し喉が渇いてしまってね。それで彼女の目的の話だが、端的に言うと彼女が欲しいのは平穏さ」
「平穏って言ったって……、今の時代むしろ平穏じゃ無い所を探す方が難しいだろ」
放っておいても人はいなくなるのに、その時期を早めようとする人間は少ない。
自殺者は多けれど、殺人やテロは起こらない。喧嘩を見るのすら稀だ。つまり、現代は今までの時代のどんな時よりも平和だと言える。それなのに平穏が欲しいとはどういうことなのだろう。
言葉の意味を図りかねている俺を見て、葵は平野妹の言う平穏について補足をしてくれる。
「彼女が欲しているのは君が考えているような意味の平穏じゃない。彼女は社会的な意味の平穏ではなく、何より自分の心の平穏を求めているんだ」
「うーん……、いまいちピンとこないな」
「つまりはね、彼女は心が動かされるのが嫌なんだよ。誰かと関わって喜んだり、怒ったり、哀しくなったり、楽しくなったりすることを避けたいらしいんだ」
喜怒哀楽の感情から離れて心が波打たないようにするのが彼女の言う平穏さ、と葵は平野妹を見ながら言う。
そりゃあ人と関われば多かれ少なかれ心は動く。その過程で頻繁に怒ったり哀しくなるのは平穏ではないだろうが、喜んだりすることも駄目なのか。
それにそんな感情を捨てて生きていくのは人間の生き方と言えるのか、いやそんなのは……。
「そんなのは生きていると言えるのか、と考えているのかい?」
葵は俺の顔から、俺が何を考えているのか察したらしい。
流石に十七年の付き合いだ、良くも悪くも考えている事が筒抜けになってしまう。
「隠そうとしても無駄だな……。そうだよ、そんなのは生きてるなんて言えないだろ。そこら辺にあるロボットと同じようなものじゃないか」
葵はそう言った俺を嗜めるようにおでこを人差し指でつついてきた。
「人の人生観を軽々しく否定するものじゃないよ。生命活動さえ維持していれば、どんな状態であろうとそれは生きてると言えるんだ。それを否定する権利なんて誰にもないんだよ」
「……ああ、そうだな、悪かったよ。でも平野妹のその考え方なら、兄とだって縁を切るべきだろ」
生きていくのに労働や金銭が必要だった時代とは違う。今は子供でも生きようと思えば、一人で生きていける時代だ。実際このクラスにも親族が一人もいなくて自分だけで生活をしてる奴もいる。
そうした俺の考えを葵は首を振って否定する。
「私も最初はそう思ったんだけどね、どうやらそうもいかないらしい。彼女は今の時代においても一人で生きていく事が出来ないんだ」
「それはまた……何で?」
「例えば、君は家に帰ったら自分で料理をするだろう?」
「そりゃまあ、面倒くさい日はレトルトで済ますときもあるけど」
スーパーとかに置いてある食料は基本、原材料や長持ちするレトルト食品だけだ。惣菜などのすぐに食べられるものが置いてあった時もあったらしいが、あまりにも廃棄が多くて製造中止になったそうだ。だからレトルトで一生を過ごそうという人以外は、どうしたって料理を覚える必要がある。
「そうだ。今の時代、料理を出来ない者なんてそうはいない。健康的に生きていこうと思ったらレトルト食品だけに頼っていくわけにもいかないしね。だけど、彼女の場合そこから躓くんだ」
「いやいや、ちょっと待ってくれよ。料理とか学校でも習うだろ。それなのに出来ないっていうのは……」
「じゃあ思い出してみてほしい。君は、彼女が調理の授業で何かしていたのを見たことがあるかい?」
葵に言われて記憶を辿る。
学校での料理の授業は多い、というか学校で教わる事はロボット工学関連と料理、後は教師の趣味次第だ。
そのため思い出そうと思えばその場面はいくらでも出てくる。炒め物や煮物、日本食や洋食色んなものをこの学校で作ってきた、が……
「やばいな。俺、平野妹が包丁を握るところさえ見たことが無い」
普段は気にも留めてなかったが、思い出してみれば料理の授業に全く参加してないぞあいつ。
「そうなんだよ。彼女だってやる気が無いわけじゃない、でも彼女が料理をしたら野菜の皮より指の皮の方が多く剥かれるといった有様になるらしい」
「痛い痛い痛い」
想像するだけで背筋が凍りそうな惨状だ、包丁もまな板も血まみれになる。
「料理だけじゃない、洗濯や掃除も彼女にとっては当たり前に出来ることじゃないんだ」
「それは確かに一人じゃ生きていけないな……」
「うん。彼女はね、そんな自分の絶望的な不器用さに気づくのがとても早かった。アイデンティティの確立もね。それで対策を講じた結果が彼さ」
葵は平野妹へと向けていた視線を兄へと移す。
「あー……、一人で生きていきたいけど生きていけないから、兄を自分の介護係に任命したって事か?」
「言葉は悪いけど内容的には間違って無いね。彼女が生きていくために、傍にいる事を望んだたった一人が彼なんだ。自分の能力では一人で生きていくことは出来ない、ならせめて自分と兄の二人だけの世界を強固にしよう。兄妹という関係に恋人同士という関係も付属させよう、そうなったら誰も自分の邪魔をする者はいなくなるはず。これが彼女の考え方だよ」
「なるほどな……、そこまで思うならいっそ異性だけじゃなくて同性も遠ざければいいのに」
「そこに関しては兄妹での折衷案らしい。彼女も君が言ったような主張をしたらしいが彼はそこまで束縛されるのを嫌った。いや、嫌ったというより拒んだといった方が正しいかな。そうして二人で話し合った結果、異性とは話さないという所で落ち着いたらしい」
同性よりも異性の方が、自分たちの関係性を乱す可能性が高いと考えての判断だったのか。
四歳と六歳でそんな話し合いをしてたなんて、にわかには信じがたいが二人とも早熟だったんだろう。
「ていうか、兄の方は平野妹の考えは知った上で付き合ってるのか?」
「もちろん、私が君に話している話だってその兄の目の前でしていたんだよ? 平野透も全て承知の上さ、というより全部分かった上で自分を受け入れてくれる人間だから彼女は彼を選んだんだ」
滅私、みたいなものだろうか。……兄は自分の目的のためだけに自分を利用している妹をどう思っているのだろう。
「かくして少女は、自分の目的達成のための伴侶を手に入れた。自分の面倒を一生見てくれる相手だと見込んで、実の兄と結ばれた。そうなると次は兄の話だ」
葵は机に肘を置き、指を三本立ててこちらに見せてくる。
「平穏って言ったって……、今の時代むしろ平穏じゃ無い所を探す方が難しいだろ」
放っておいても人はいなくなるのに、その時期を早めようとする人間は少ない。
自殺者は多けれど、殺人やテロは起こらない。喧嘩を見るのすら稀だ。つまり、現代は今までの時代のどんな時よりも平和だと言える。それなのに平穏が欲しいとはどういうことなのだろう。
言葉の意味を図りかねている俺を見て、葵は平野妹の言う平穏について補足をしてくれる。
「彼女が欲しているのは君が考えているような意味の平穏じゃない。彼女は社会的な意味の平穏ではなく、何より自分の心の平穏を求めているんだ」
「うーん……、いまいちピンとこないな」
「つまりはね、彼女は心が動かされるのが嫌なんだよ。誰かと関わって喜んだり、怒ったり、哀しくなったり、楽しくなったりすることを避けたいらしいんだ」
喜怒哀楽の感情から離れて心が波打たないようにするのが彼女の言う平穏さ、と葵は平野妹を見ながら言う。
そりゃあ人と関われば多かれ少なかれ心は動く。その過程で頻繁に怒ったり哀しくなるのは平穏ではないだろうが、喜んだりすることも駄目なのか。
それにそんな感情を捨てて生きていくのは人間の生き方と言えるのか、いやそんなのは……。
「そんなのは生きていると言えるのか、と考えているのかい?」
葵は俺の顔から、俺が何を考えているのか察したらしい。
流石に十七年の付き合いだ、良くも悪くも考えている事が筒抜けになってしまう。
「隠そうとしても無駄だな……。そうだよ、そんなのは生きてるなんて言えないだろ。そこら辺にあるロボットと同じようなものじゃないか」
葵はそう言った俺を嗜めるようにおでこを人差し指でつついてきた。
「人の人生観を軽々しく否定するものじゃないよ。生命活動さえ維持していれば、どんな状態であろうとそれは生きてると言えるんだ。それを否定する権利なんて誰にもないんだよ」
「……ああ、そうだな、悪かったよ。でも平野妹のその考え方なら、兄とだって縁を切るべきだろ」
生きていくのに労働や金銭が必要だった時代とは違う。今は子供でも生きようと思えば、一人で生きていける時代だ。実際このクラスにも親族が一人もいなくて自分だけで生活をしてる奴もいる。
そうした俺の考えを葵は首を振って否定する。
「私も最初はそう思ったんだけどね、どうやらそうもいかないらしい。彼女は今の時代においても一人で生きていく事が出来ないんだ」
「それはまた……何で?」
「例えば、君は家に帰ったら自分で料理をするだろう?」
「そりゃまあ、面倒くさい日はレトルトで済ますときもあるけど」
スーパーとかに置いてある食料は基本、原材料や長持ちするレトルト食品だけだ。惣菜などのすぐに食べられるものが置いてあった時もあったらしいが、あまりにも廃棄が多くて製造中止になったそうだ。だからレトルトで一生を過ごそうという人以外は、どうしたって料理を覚える必要がある。
「そうだ。今の時代、料理を出来ない者なんてそうはいない。健康的に生きていこうと思ったらレトルト食品だけに頼っていくわけにもいかないしね。だけど、彼女の場合そこから躓くんだ」
「いやいや、ちょっと待ってくれよ。料理とか学校でも習うだろ。それなのに出来ないっていうのは……」
「じゃあ思い出してみてほしい。君は、彼女が調理の授業で何かしていたのを見たことがあるかい?」
葵に言われて記憶を辿る。
学校での料理の授業は多い、というか学校で教わる事はロボット工学関連と料理、後は教師の趣味次第だ。
そのため思い出そうと思えばその場面はいくらでも出てくる。炒め物や煮物、日本食や洋食色んなものをこの学校で作ってきた、が……
「やばいな。俺、平野妹が包丁を握るところさえ見たことが無い」
普段は気にも留めてなかったが、思い出してみれば料理の授業に全く参加してないぞあいつ。
「そうなんだよ。彼女だってやる気が無いわけじゃない、でも彼女が料理をしたら野菜の皮より指の皮の方が多く剥かれるといった有様になるらしい」
「痛い痛い痛い」
想像するだけで背筋が凍りそうな惨状だ、包丁もまな板も血まみれになる。
「料理だけじゃない、洗濯や掃除も彼女にとっては当たり前に出来ることじゃないんだ」
「それは確かに一人じゃ生きていけないな……」
「うん。彼女はね、そんな自分の絶望的な不器用さに気づくのがとても早かった。アイデンティティの確立もね。それで対策を講じた結果が彼さ」
葵は平野妹へと向けていた視線を兄へと移す。
「あー……、一人で生きていきたいけど生きていけないから、兄を自分の介護係に任命したって事か?」
「言葉は悪いけど内容的には間違って無いね。彼女が生きていくために、傍にいる事を望んだたった一人が彼なんだ。自分の能力では一人で生きていくことは出来ない、ならせめて自分と兄の二人だけの世界を強固にしよう。兄妹という関係に恋人同士という関係も付属させよう、そうなったら誰も自分の邪魔をする者はいなくなるはず。これが彼女の考え方だよ」
「なるほどな……、そこまで思うならいっそ異性だけじゃなくて同性も遠ざければいいのに」
「そこに関しては兄妹での折衷案らしい。彼女も君が言ったような主張をしたらしいが彼はそこまで束縛されるのを嫌った。いや、嫌ったというより拒んだといった方が正しいかな。そうして二人で話し合った結果、異性とは話さないという所で落ち着いたらしい」
同性よりも異性の方が、自分たちの関係性を乱す可能性が高いと考えての判断だったのか。
四歳と六歳でそんな話し合いをしてたなんて、にわかには信じがたいが二人とも早熟だったんだろう。
「ていうか、兄の方は平野妹の考えは知った上で付き合ってるのか?」
「もちろん、私が君に話している話だってその兄の目の前でしていたんだよ? 平野透も全て承知の上さ、というより全部分かった上で自分を受け入れてくれる人間だから彼女は彼を選んだんだ」
滅私、みたいなものだろうか。……兄は自分の目的のためだけに自分を利用している妹をどう思っているのだろう。
「かくして少女は、自分の目的達成のための伴侶を手に入れた。自分の面倒を一生見てくれる相手だと見込んで、実の兄と結ばれた。そうなると次は兄の話だ」
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