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一章
どこにでもあった幸せ(1)
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鉄筋コンクリートの校舎、木製の椅子と机、緑色の黒板、同年代の仲間たち、物好きな先生、それが俺の周りを形作っている主な世界だった。
十歳の頃に親が死に、それからずっと家では独りの俺にとってはこの学校こそが自分の居場所だと感じている。
いや、家に限らず今の世界はどこに行ったって人がいない。街に出てもほとんど人なんて歩いちゃいないし、電車に乗っても乗客は一車両に一人や二人。人よりも野良猫を見かける回数の方が多いくらいだ。そんな世の中である程度の人が集まる学校は俺の心の支えだった。
その学校にしても、小中高合同の授業をしているにも関わらず、自分を含めて七人しか生徒がいないというのだから全く世の中は世知辛い。
昔はこのだだっ広い教室に同い年の人間がいっぱいいて、それが何クラスもあったと聞いたことがあるけど現状からはとても想像がつかない。
そんな学校での休み時間、俺はいつも通り教室の真ん中で幼馴染の野依葵と話をしながら時間を潰していた。
「なあ、葵。愛って何だと思う?」
唐突な質問に、葵は読んでいた本から顔を上げた。
「どうしたんだい、君が私に哲学的な質問をしてくるとは珍しいね」
葵は不思議そうな顔で首を傾げる。
野依葵という女を一言で表すとすると読書中毒者だ。
人口が減り、相応に娯楽も減った世の中。その中で確実に享受することが出来る娯楽にのめりこむ人は少なくない。
葵もそういった人間の一人で、ジャンルは問わず本ならどんなものでも読む。そのため葵は様々な蘊蓄に精通している。そして葵はその知識を他人に披露したがる癖があるのだ。そのせいで俺も大して興味の無い知識を蓄えてしまってたりする。
別にそのことが嫌なわけじゃないが、葵の話は長すぎてたまにうんざりしたりもする。だから俺は葵に明確な答えがある質問以外はあまりしないようにしていた。その俺がこんな愛とは何かみたいな抽象的な質問をする事は滅多にない、だから葵も疑問を感じたのだろう。
「ただの、気まぐれだよ」
一応理由はあるのだが、適当に誤魔化す。
何かあるとは思われても、こう言っておけば葵も無理に聞いてきたりはしないだろう。……今は。
「気まぐれ、か。私としてはそういった話は大好物だから良いんだけどね。最近は君が話を聞いてくれなくなってたから余計嬉しいよ」
「よく言うよ、こっちの事なんて気にせずいつもペラペラ話してるだろ」
そう、俺が何か聞かなくても葵は勝手に話し出す。この前なんて携帯電話の歴史について三時間も語られた。そろそろ帰ってくれないか、と何度言いそうになったか分からない。
俺は特に趣味があるわけでも無いし、いつだって暇してるから良いんだけど流石にキツイ時もある。
「気にしてない事なんてないさ、君が乗り気じゃ無さそうな時はちゃんと自重してるよ。君が話を全く聞いてくれなくなったら私も困るからね」
「その気遣いを感じられたことが無い……」
「何を言う、君が風邪を引いた時などはあまり長時間話さないようにしていただろう」
「体調不良の時の話だったのか」
日常生活で俺の気分が乗らない時の話だと思ったよ。それに風邪を引いた時だって、色んな話をされた覚えがある。ウイルスの話とか。睡眠導入剤になったから良いんだけども。
「まあ、あんまり考えなくたって俺がお前の話を聞かなくなるようにはならないから安心しろ。加減してほしい時は多々あるけどな」
片手を振って適当に言うと葵は嬉しそうに微笑む。
「そうかい、それは良かった。それで、愛についての話だったね。いつも通り私の見解を交えながら話していこうか」
「頼むよ」
葵は持っていた本を机の上に置いて足を組み、話す体勢を整える。
葵が足を組んで話し始めた時は長い話をする合図だ。本人曰く、こうした方が頭がよく働くような気になるらしい。
「まず一口に愛と言ってもいくつか種類がある。例えば古代ギリシアやキリスト教では愛は四つの種類に分けられる。君もアガぺーやエロスなどは聞いたことがあるんじゃないか?」
「ふんわりとは。ていうか葵から聞いたような気もするけど、えー……アガぺーは神様からの愛でエロスは異性愛だったか」
「大体その認識で良いよ。後は血縁関係にあるものに対する愛であるストルゲー、要するに家族愛だね。それともう一つ、友人間での信頼である友愛、フィリアの四つだ。君が今回知りたいのはその中でもエロスについてだと思ってるけど、それでいいかい?」
葵は微笑を携えたまま、こちらに手を向け話の内容の確認をしてくる。
「そうだな、その方向で大丈夫だ」
「よし、じゃあ次は異性愛の種類について話していこう」
「え、そっちにも種類とかあんの?」
ただ異性(人によっては同性)を好きになる事なんじゃないのか。
「当たり前だよ、愛とはそう単純なものではない。昔から哲学者たちの間でもよく考えられていた話題でもあるくらいだ。今でこそある程度体系化されているが、本来は人の数だけ愛の種類はあると私は考えているよ」
「ふーん?」
無理やり種類別に当てはめるなって事だろうか。
「……話を戻そうか。異性に対する愛についてはカナダの心理学者ジョン・アラン・リーのラブスタイル類型論が有名だね。リーは愛に関する文献の分析や面接での調査から愛を六つの型に分類した。さっきも言ったように、こういうのを無理やり人に当てはめるのはあまり好ましくないのだが、分かりやすくするためにクラスメイトたちを例として話していこう」
葵はそう言うと教室の真ん中、最前列に座っている生徒を指さした。
十歳の頃に親が死に、それからずっと家では独りの俺にとってはこの学校こそが自分の居場所だと感じている。
いや、家に限らず今の世界はどこに行ったって人がいない。街に出てもほとんど人なんて歩いちゃいないし、電車に乗っても乗客は一車両に一人や二人。人よりも野良猫を見かける回数の方が多いくらいだ。そんな世の中である程度の人が集まる学校は俺の心の支えだった。
その学校にしても、小中高合同の授業をしているにも関わらず、自分を含めて七人しか生徒がいないというのだから全く世の中は世知辛い。
昔はこのだだっ広い教室に同い年の人間がいっぱいいて、それが何クラスもあったと聞いたことがあるけど現状からはとても想像がつかない。
そんな学校での休み時間、俺はいつも通り教室の真ん中で幼馴染の野依葵と話をしながら時間を潰していた。
「なあ、葵。愛って何だと思う?」
唐突な質問に、葵は読んでいた本から顔を上げた。
「どうしたんだい、君が私に哲学的な質問をしてくるとは珍しいね」
葵は不思議そうな顔で首を傾げる。
野依葵という女を一言で表すとすると読書中毒者だ。
人口が減り、相応に娯楽も減った世の中。その中で確実に享受することが出来る娯楽にのめりこむ人は少なくない。
葵もそういった人間の一人で、ジャンルは問わず本ならどんなものでも読む。そのため葵は様々な蘊蓄に精通している。そして葵はその知識を他人に披露したがる癖があるのだ。そのせいで俺も大して興味の無い知識を蓄えてしまってたりする。
別にそのことが嫌なわけじゃないが、葵の話は長すぎてたまにうんざりしたりもする。だから俺は葵に明確な答えがある質問以外はあまりしないようにしていた。その俺がこんな愛とは何かみたいな抽象的な質問をする事は滅多にない、だから葵も疑問を感じたのだろう。
「ただの、気まぐれだよ」
一応理由はあるのだが、適当に誤魔化す。
何かあるとは思われても、こう言っておけば葵も無理に聞いてきたりはしないだろう。……今は。
「気まぐれ、か。私としてはそういった話は大好物だから良いんだけどね。最近は君が話を聞いてくれなくなってたから余計嬉しいよ」
「よく言うよ、こっちの事なんて気にせずいつもペラペラ話してるだろ」
そう、俺が何か聞かなくても葵は勝手に話し出す。この前なんて携帯電話の歴史について三時間も語られた。そろそろ帰ってくれないか、と何度言いそうになったか分からない。
俺は特に趣味があるわけでも無いし、いつだって暇してるから良いんだけど流石にキツイ時もある。
「気にしてない事なんてないさ、君が乗り気じゃ無さそうな時はちゃんと自重してるよ。君が話を全く聞いてくれなくなったら私も困るからね」
「その気遣いを感じられたことが無い……」
「何を言う、君が風邪を引いた時などはあまり長時間話さないようにしていただろう」
「体調不良の時の話だったのか」
日常生活で俺の気分が乗らない時の話だと思ったよ。それに風邪を引いた時だって、色んな話をされた覚えがある。ウイルスの話とか。睡眠導入剤になったから良いんだけども。
「まあ、あんまり考えなくたって俺がお前の話を聞かなくなるようにはならないから安心しろ。加減してほしい時は多々あるけどな」
片手を振って適当に言うと葵は嬉しそうに微笑む。
「そうかい、それは良かった。それで、愛についての話だったね。いつも通り私の見解を交えながら話していこうか」
「頼むよ」
葵は持っていた本を机の上に置いて足を組み、話す体勢を整える。
葵が足を組んで話し始めた時は長い話をする合図だ。本人曰く、こうした方が頭がよく働くような気になるらしい。
「まず一口に愛と言ってもいくつか種類がある。例えば古代ギリシアやキリスト教では愛は四つの種類に分けられる。君もアガぺーやエロスなどは聞いたことがあるんじゃないか?」
「ふんわりとは。ていうか葵から聞いたような気もするけど、えー……アガぺーは神様からの愛でエロスは異性愛だったか」
「大体その認識で良いよ。後は血縁関係にあるものに対する愛であるストルゲー、要するに家族愛だね。それともう一つ、友人間での信頼である友愛、フィリアの四つだ。君が今回知りたいのはその中でもエロスについてだと思ってるけど、それでいいかい?」
葵は微笑を携えたまま、こちらに手を向け話の内容の確認をしてくる。
「そうだな、その方向で大丈夫だ」
「よし、じゃあ次は異性愛の種類について話していこう」
「え、そっちにも種類とかあんの?」
ただ異性(人によっては同性)を好きになる事なんじゃないのか。
「当たり前だよ、愛とはそう単純なものではない。昔から哲学者たちの間でもよく考えられていた話題でもあるくらいだ。今でこそある程度体系化されているが、本来は人の数だけ愛の種類はあると私は考えているよ」
「ふーん?」
無理やり種類別に当てはめるなって事だろうか。
「……話を戻そうか。異性に対する愛についてはカナダの心理学者ジョン・アラン・リーのラブスタイル類型論が有名だね。リーは愛に関する文献の分析や面接での調査から愛を六つの型に分類した。さっきも言ったように、こういうのを無理やり人に当てはめるのはあまり好ましくないのだが、分かりやすくするためにクラスメイトたちを例として話していこう」
葵はそう言うと教室の真ん中、最前列に座っている生徒を指さした。
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