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濡れ衣
失敗
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あのあと、円香と私は逃げるようにして教室に戻った。
円香は「どうしよう、どうしよう」と泣きながら肩を震わせている。
「ヤバいよ。もうぜったい終わった。終わったよね?」
そんなことないよ、とは言えなかった。
「謝るしかないと思うけど……」
勝手な告白と突然の失恋。
きっと紗英は烈火のごとく怒るだろう。その怒りは今日の昼休みの比じゃないかもしれない。
「あたし、紗英ちゃんとみちるちゃんと仲良くなりたいだけなのに、なんでいつもうまくいかないんだろう」
円香がぽつりと呟いたあと、涙に濡れた顔を上げて私を見る。
「なんで莉愛はよくて、あたしはダメなの?」
いつもの人に媚びるようなベタついた喋りかたとは違う、円香の切ない声に、私は胸を突かれた。もしかしたら、こっちが円香の素なのかもしれない、と思った。
そのとき、遠くからワイワイと騒がしい声が聞こえてきた。ハッとした円香が、両手で素早く涙を拭う。
教室に入ってきたのは数人の男子グループだった。
「あれー。日野さんも深山さんもまだ残ってたの?」
そのグループの中心にいて、私たちに声をかけてきたのは柴崎くんだった。にこやかな笑顔を見て、私は切羽詰まっていた気持ちが少し緩んだ気がした。
「俺たちは図書室で勉強してたんだよ。ほら、もうすぐテストあるから。でも高橋がもう飽きたってうるさくて――」
「あれ、こいつ泣いてね?」
いつも円香をからかっている高橋くんが、円香の顔をのぞき込みながら大声で言った。
円香は、確認しようとする視線を避けるように身をよじらせたけれど、高橋くんはそれを執拗に追いかけて逃がさない。
「もしかして深山にいじめられたとか? 大人しい顔してやるじゃん、深山」
「ち、違うよ。私――」
私は絶対にそんなことしない。
誰かをいじめるなんて、死んでもするものか。
「やめろよ」
柴崎くんが高橋くんの肩をつかんで、円香から引き剥がした。いつも明るい柴崎くんの、怒りを含んだ低い声に、そこにいた全員が凍りついたようになる。
「あ……ほら、女の子の涙は特別なものなんだからさ。からかっちゃダメだよ」
いつもの口調と笑顔に戻った柴崎くんに、高橋くんはホッとしたように「分かったよ」と肩をすくめた。
「深山さんも失礼なこと言ってごめん。深山さんはそんなことしないって、ちゃんと分かってるから」
急に円香が勢いよく立ち上がった。そして、まだ涙の残った目で全員をにらみつける。
「……ムカつく」
そう呟いてバッグをつかむと、柴崎くんを突き飛ばすようにして教室を飛び出していった。
「なんだあれ。あいつ、やっぱり変だよな」
円香の走り去った先を見ながら高橋くんがそう言うと、柴崎くんと私をのぞいた全員がうなずいた。
男子グループが去った教室で、私はのろのろと帰り支度をしていた。
それは、これから自分がどうなるのかという不安のせいというより、頭の中で柴崎くんの言葉を反芻していたせいだった。
――深山さんはそんなことしないって、ちゃんと分かってるから。
胸にじわじわと広がる熱の正体が分からなくて戸惑っていた。けれど、その戸惑いはどこか心地よいものでもあった。
******
「莉愛、今日は何かいいことあったの? なんだか嬉しそう」
夕食の席でママがそんなことを言った。
「そ、そうかな。普通だよ」
明日はどうなるか分からないというのに、嬉しそうだなんて変だ。
私はアジフライにかぶりついて誤魔化した。スーパーで買ってきたのをレンジで温めたものだから、味は悪くないんだけれどちょっとだけ脂っこい。
「そんな顔してる莉愛、なんだか久しぶりに見た気がするわ」
目を細めて私を見るママのほうが、ずっと嬉しそうな顔をしている。ママのそんな顔を見るのだって久しぶりだ。
ずっと専業主婦だったママは、ここに引越してから近くのホームセンターでパートを始めた。工具売場の担当になったと聞いたけれど、家で家事ばかりしていたママが、チェンソーやドリルを扱う姿なんて想像もつかない。
週四回、朝の九時から五時まで。土曜日と日曜日は必ずどちらか出勤。
私とパパが休みの日に仕事に行くママを見送ることも、疲れて帰ってくるママに「お疲れ様」を言うことにもまだ慣れていなかった。
「このアジフライ、特売だったの。けっこうイケるわね」
「そうだね」
すでに刻まれた状態で売っている千切りキャベツを口に入れる。少し乾燥していて、瑞々しいとは言い難い。
総菜も出来合いのサラダも嫌じゃない。冷凍食品でもインスタントでもカップ麺でもなんでもいい。
だけど……言ってくれたら、キャベツくらい私が刻むのに。
私が何か手伝おうとすると、ママはいつもさり気なく拒否する。
「もっと友達と遊んできたら?」
「家のことは気にしなくていいからね」
「学校のことだけ考えてくれたらいいの」
こういった言葉を包む優しさという薄皮を剥いだら、どうにかして私から家にいる理由を奪わなくては、外に出さなければ、でなければまた――というママの恐怖が残るんじゃないかという気がしていた。
私はただ、パパやママの力になりたいだけなのに。
パパとママに気を遣われるたびに、優しさと、自分が家族の中の異物であることを思い知らされる。
「パパ、今日も遅いの?」
「そうねぇ。ずっと経理畑の人だったから営業の仕事はちょっと大変みたい」
全部、私のせいだ。
パパが会社を辞めて、慣れない仕事に就いたのも。専業主婦だったママが工具売り場で働くのも。アジフライが脂っこいのも。千切りキャベツがパサついているのも。
あのとき、私が間違えたから。
柴崎くんがくれた言葉の熱が、少しずつ小さくなっていく。
また間違えてしまった私の明日は、いったいどうなるんだろう。
円香は「どうしよう、どうしよう」と泣きながら肩を震わせている。
「ヤバいよ。もうぜったい終わった。終わったよね?」
そんなことないよ、とは言えなかった。
「謝るしかないと思うけど……」
勝手な告白と突然の失恋。
きっと紗英は烈火のごとく怒るだろう。その怒りは今日の昼休みの比じゃないかもしれない。
「あたし、紗英ちゃんとみちるちゃんと仲良くなりたいだけなのに、なんでいつもうまくいかないんだろう」
円香がぽつりと呟いたあと、涙に濡れた顔を上げて私を見る。
「なんで莉愛はよくて、あたしはダメなの?」
いつもの人に媚びるようなベタついた喋りかたとは違う、円香の切ない声に、私は胸を突かれた。もしかしたら、こっちが円香の素なのかもしれない、と思った。
そのとき、遠くからワイワイと騒がしい声が聞こえてきた。ハッとした円香が、両手で素早く涙を拭う。
教室に入ってきたのは数人の男子グループだった。
「あれー。日野さんも深山さんもまだ残ってたの?」
そのグループの中心にいて、私たちに声をかけてきたのは柴崎くんだった。にこやかな笑顔を見て、私は切羽詰まっていた気持ちが少し緩んだ気がした。
「俺たちは図書室で勉強してたんだよ。ほら、もうすぐテストあるから。でも高橋がもう飽きたってうるさくて――」
「あれ、こいつ泣いてね?」
いつも円香をからかっている高橋くんが、円香の顔をのぞき込みながら大声で言った。
円香は、確認しようとする視線を避けるように身をよじらせたけれど、高橋くんはそれを執拗に追いかけて逃がさない。
「もしかして深山にいじめられたとか? 大人しい顔してやるじゃん、深山」
「ち、違うよ。私――」
私は絶対にそんなことしない。
誰かをいじめるなんて、死んでもするものか。
「やめろよ」
柴崎くんが高橋くんの肩をつかんで、円香から引き剥がした。いつも明るい柴崎くんの、怒りを含んだ低い声に、そこにいた全員が凍りついたようになる。
「あ……ほら、女の子の涙は特別なものなんだからさ。からかっちゃダメだよ」
いつもの口調と笑顔に戻った柴崎くんに、高橋くんはホッとしたように「分かったよ」と肩をすくめた。
「深山さんも失礼なこと言ってごめん。深山さんはそんなことしないって、ちゃんと分かってるから」
急に円香が勢いよく立ち上がった。そして、まだ涙の残った目で全員をにらみつける。
「……ムカつく」
そう呟いてバッグをつかむと、柴崎くんを突き飛ばすようにして教室を飛び出していった。
「なんだあれ。あいつ、やっぱり変だよな」
円香の走り去った先を見ながら高橋くんがそう言うと、柴崎くんと私をのぞいた全員がうなずいた。
男子グループが去った教室で、私はのろのろと帰り支度をしていた。
それは、これから自分がどうなるのかという不安のせいというより、頭の中で柴崎くんの言葉を反芻していたせいだった。
――深山さんはそんなことしないって、ちゃんと分かってるから。
胸にじわじわと広がる熱の正体が分からなくて戸惑っていた。けれど、その戸惑いはどこか心地よいものでもあった。
******
「莉愛、今日は何かいいことあったの? なんだか嬉しそう」
夕食の席でママがそんなことを言った。
「そ、そうかな。普通だよ」
明日はどうなるか分からないというのに、嬉しそうだなんて変だ。
私はアジフライにかぶりついて誤魔化した。スーパーで買ってきたのをレンジで温めたものだから、味は悪くないんだけれどちょっとだけ脂っこい。
「そんな顔してる莉愛、なんだか久しぶりに見た気がするわ」
目を細めて私を見るママのほうが、ずっと嬉しそうな顔をしている。ママのそんな顔を見るのだって久しぶりだ。
ずっと専業主婦だったママは、ここに引越してから近くのホームセンターでパートを始めた。工具売場の担当になったと聞いたけれど、家で家事ばかりしていたママが、チェンソーやドリルを扱う姿なんて想像もつかない。
週四回、朝の九時から五時まで。土曜日と日曜日は必ずどちらか出勤。
私とパパが休みの日に仕事に行くママを見送ることも、疲れて帰ってくるママに「お疲れ様」を言うことにもまだ慣れていなかった。
「このアジフライ、特売だったの。けっこうイケるわね」
「そうだね」
すでに刻まれた状態で売っている千切りキャベツを口に入れる。少し乾燥していて、瑞々しいとは言い難い。
総菜も出来合いのサラダも嫌じゃない。冷凍食品でもインスタントでもカップ麺でもなんでもいい。
だけど……言ってくれたら、キャベツくらい私が刻むのに。
私が何か手伝おうとすると、ママはいつもさり気なく拒否する。
「もっと友達と遊んできたら?」
「家のことは気にしなくていいからね」
「学校のことだけ考えてくれたらいいの」
こういった言葉を包む優しさという薄皮を剥いだら、どうにかして私から家にいる理由を奪わなくては、外に出さなければ、でなければまた――というママの恐怖が残るんじゃないかという気がしていた。
私はただ、パパやママの力になりたいだけなのに。
パパとママに気を遣われるたびに、優しさと、自分が家族の中の異物であることを思い知らされる。
「パパ、今日も遅いの?」
「そうねぇ。ずっと経理畑の人だったから営業の仕事はちょっと大変みたい」
全部、私のせいだ。
パパが会社を辞めて、慣れない仕事に就いたのも。専業主婦だったママが工具売り場で働くのも。アジフライが脂っこいのも。千切りキャベツがパサついているのも。
あのとき、私が間違えたから。
柴崎くんがくれた言葉の熱が、少しずつ小さくなっていく。
また間違えてしまった私の明日は、いったいどうなるんだろう。
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