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「再会」の入学式

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「では各自、机の上にある冊子の一ページ目を見てください」

 細く、神経質な声が、静まり返った教室に響いた。教壇に立っているのはメタルフレームの眼鏡を掛けた痩せ型の男性教師、塚本《つかもと》先生。彼が私のクラスの担任だ。四十代前半、といったところだろうか。
 明日からのスケジュールと今年一年の大まかな流れを淡々と読み上げるその表情からは、私たちをこの学校に迎え入れた喜びなど微塵も感じられない。紺色のスーツの胸元につけられた紅白の花飾りは、何かの手違いで混入した異物のようだった。

「――以上。なにか質問は?」

 探り合うような沈黙。かさ、かさ、とプリントをめくる音だけが耳につく。

「それでは、今日はこれで終了です。明日からの授業に備えて、教科書には必ず目を通しておくこと。いいですね」

 レンズ越しの鋭い視線にねめつけられて、生徒たちにぴりっと緊張が走る。この瞬間からもう「始まって」いるのだと、その目がはっきりと言っていた。
 塚本先生が姿を消すと、教室の空気がほっと緩んだ。席を立つ音と「どこの中学校?」なんて初々しい会話が聞こえてくるなかで、配られた大量のプリントを見るともなしにめくっていると、オレンジ色のネイルが視界に入り込んできた。

「ね、澤野さん。よかったら一緒に帰らない?」

 前の席に座る近藤こんどう瑞希みずきが、振り返って私を見ていた。
 ダークブラウンのアイラインと極盛りのマスカラに縁取られた大きな目(カラーコンタクトのせいで薄く灰色がかっている)が私を見つめている。背中の真ん中ほどまである長い髪はミルクティーベージュに染められ、毛先はゆるくカールしている。チェックのスカートも規定より十センチは短いはずだ。
 星山高校は、成績さえ問題なければ外見における多少の校則違反は黙認される。とはいえ、入学初日からこの姿で現れるのはよっぽどだ。

「どうして?」

 黒髪ストレートロングで校則通りのスカートを履く私とは違うカテゴリーに属する彼女が、私と帰りたがる理由なんかないはずだ。

「えー、なんとなく」

 なんだそれは。

「私、電車だし」
「うわ、奇遇。あたしもなんだ。駅まで一緒に行こ」
「……用事もあるし」
「じゃ、急がないとヤバくない?」

 オレンジ色の指先が私の腕をつかんだ瞬間、背筋がぞくりと粟立って、思わずその手を払ってしまった。ごてごてと飾り立てられた彼女の目が、驚いたように見開かれる。

「……ごめん。びっくりして、つい」

 彼女が触れたところが、じんと熱を帯びているような気がして、気付かれないようにそっと撫でさする。誰かに触れられるのは嫌いだ。

「ううん、こっちこそゴメンねー。あたし、人との距離感おかしいってよく言われるんだ」

 私の様子など気にする素振りも見せず、へらりと笑い、なおも「行こっか」と言う彼女に、私はしぶしぶ折れた。

「じゃあ……駅まで」

 不釣り合いな私たちが連れ立って歩いているせいで、嫌でも注目が集まってしまう。
 近藤さんはそんな周囲の視線などちっとも気にせず、ぺらぺらと自分語りを続けていた。
 それによれば、彼女は電車で一時間以上かかるところから通ってきているのだという。

「このメイクとか髪巻くのとかすっごく時間かかるから、めっちゃ早起きしなきゃいけなくてさぁ。もう大変なんだよぉ」
「だったらどうしてこの高校を選んだの? もっと楽に通えるところなんていくらでもあるでしょ」
「んーと、なんとなく?」

 近藤さんが階段の最後の二段をぴょんと飛び降りると、短いスカートが翻って、近くを歩いていた男子生徒が慌てて目をそらした。

「あ、見えた? よかったら全然見てもいーよ。今日は可愛いパンツだから」

 み、見てないし、と顔を真っ赤にして走り去ったこの高校そのものみたいな男子生徒の後ろ姿を、この高校にちっとも似合わない近藤さんがケラケラ笑いながら見送る。

「そうだ。千佳って頭いいんでしょ。やっぱり塾とか行ってる?」

 こちらに向き直った彼女は、いつの間にか私を呼び捨てにしていた。彼女に「距離感がおかしい」と指摘した誰かとは気が合いそうだな、と思いながら質問に答える。

「塾は行ってないけど、父の知り合いが家庭教師をしてくれてる」
「それより、さっきからずっと考えてたんだけど」

 会話の展開がさっぱりつかめない。しかも、そっちから聞いておいて「それより」とはどういうことなんだ。
 ――でも、もしかしてやっと気付いたのかもしれない。自分が「一緒に帰ろう」と声を掛けるべきだったのは私ではないことに。
 比較的真面目で大人しい生徒が多いこの星山高校にだって、近藤さんほどではないにしても、スカートを規定より短くし、髪を明るい色に染めている、彼女と同じカテゴリーに属する人たちがいる。自分が一緒にいるべきはそっちなんだと、彼女も気付いたのだろう。
 しかし、神妙な顔をした近藤さんが口にした言葉に、私は盛大に肩透かしをくらってしまう。

「千佳よりチッカのほうが可愛いよね? うん、そうしよう。ね、チッカ」

 この人、たぶんすごく変わってる。
 だから、気まぐれに進学先を選んだり、スカートの中を見せつけるような真似をしたり、カテゴリー違いの私に声をかけたりするんだ。
 不可解な彼女の行動に、一応の理由を見つけられたことに安堵する。どうして、は早めに解消しておかなくちゃいけない。
 放っておけばどんどん増えて、積もって、身動きが取れなくなってしまうから。

「……勝手に呼ばないでよ」
「えー、なんで?」
「なんでも。だいたいセンスなさすぎ」

 そんな下っ端妖精みたいな名前で呼ばれてたまるか。

「チッカつめたーい」
「定着させないで」

 まずい。なんだかじわじわと彼女と私の距離が縮まっているような気がしてならない。このままでは数分後には「ズッ友」的存在だと認定されてしまうかもしれない。

「私、やっぱり一人で帰るから」
「そんなこと言わないでよぉ」

 後を追ってくる近藤さんを振り切るように、私は足を速めた。
 生徒玄関で靴を履き替え、外に出ると、ふわりと暖かい風が吹いた。目の前に広がる春の陽光に桜のピンクが舞う美しい世界に思わず目を細めた。
 真新しいブレザーの藍色を身にまとった新入生。祝福と喜び、そして希望に満ちた興奮。けれど、私はちゃんと知ってる。この世界は嘘だらけだって。ちゃんと知ってるんだから。
 ふっ、と太陽の光が陰った。

「危ないぞー!」
「あ……チッカ、上!」

 知らぬ声と近藤さんに注意を促されて視線を上げると、澄み渡る青い空に球体が浮かんでいる――と思ったら、それは私に向かって落ちてきた。ぐんぐんと近付いてくる白と黒が入り混じった丸い物体。自分を庇うように反射的に両手を上げ、ぎゅっと目をつぶる。
 その瞬間、ぐいっと腕を引かれた。

 ――いや、はなして!

 喉の奥で炸裂した叫びが幼いころの記憶を揺さぶる。
 ぽぉん。と、弾む空洞な音に目を開けると、私の足元に白と黒のサッカーボールが転がっていた。
 赤いユニフォームを着た先輩と思しき男子生徒が、手を振りながら走り寄ってくる。私たちの目の前に来たとき、かすかに汗のにおいがした。

「いやー、ごめんごめん。ちょっとコントロール、ミスっちゃって。でもこれもなにかの縁だよね。どうかな、サッカー部のマネージャーやらない?」
「やりません」

 汗をかくのは嫌い。なにかがまとわりついてくる感触を思い出して、私は顔をしかめた。

「そんなこと言わないでよー。あ、君、新入生代表やってた子だろ? 威勢のいいスピーチしてたじゃん。そんな子が入ってくれたらうちの部も盛り上がると思うんだ」
「いやですやりませんごめんなさい」
「ねえチッカ、それより」
「ほら、せっかくだし」
「せっかくって何が――」
「チッカ、ねえってば」
「だからその名前で呼ばないでってば!」

 怒鳴りつけた勢いで近藤さんを見ると、彼女は私の腕のあたりを指していた。
 そこには誰かの手があった。そういえばさっき、腕を引っ張られたような……。その先を視線で追うと、私の世界から音が消え、色が弾けた。
 私も、近藤さんも、ユニフォームの先輩も、周囲の人たちも、時間が止まったように固まっていた。みんなが「彼」を見ていた。見ずにはいられなかった。それほどに「彼」は美しい。
 ネクタイに入ったラインの色は私たちと同じ新入生。百八十センチ以上はある長身で真新しい制服を着こなして、うっすらと茶色がかった髪に春の日射しが柔らかく反射してきらめいていた。
 誰かに触れられるのは嫌い。なのに、藍色のブレザーを通して伝わってくるその体温に、なぜか不快感はなかった。

「千佳」

 かたちのよい唇から、私の名前がこぼれ落ちる。それと同時に世界が動き出した。音が戻ってくる。

「やば、ちょーイケメンじゃん。チッカ知り合い?」

 硬直から解放された近藤さんがはしゃいだ声で私に問い掛けた。

「俺のこと覚えてない? 幼稚園で一緒だった藤原ふじわらはるか

 固まったままの私に「彼」は不安そうな表情を浮かべた。そんな表情も、本当に綺麗だ。
 思わず空を見上げる。透明なセロファンを張ったような、嘘みたいに透きとおった青空。甘さと苦さが入り混じっったものが胸を満たす。
 見つけたよ、チー。ちゃんと、見つけられた。

「短い間だったし、やっぱ忘れちゃったよな」
「――ううん。遥のこと、ちゃんと覚えてる。四歳のときに私が引越すまでよく一緒に遊んだよね。待ち合わせはジャングルジムのてっぺん」

 私の言葉に「彼」――遥はホッとしたように顔を綻ばせた。
 春の陽光、暖かく優しい風、桜のピンク、祝福と喜び、そして興奮を帯びたざわめき。たとえ仮初めだとしても、きらめく世界は優しさに満ちあふれ、美しい。けれど、彼の笑顔の前ではなんの価値もないガラクタみたいだ。

「入学式で見てすぐ分かった。千佳、全然変わってないから。――約束、ちゃんと覚えててくれたんだな。本当にここで会えるなんて、夢みたいだ」

 遥がそっと私の手を取った。誰かに触れられるのは嫌い。でも、大丈夫。ちゃんとできる。やってみせる。そのためにここに来たんだ。

「私は嘘が嫌いだって遥もよく知ってるでしょ」

 それがチーの口癖だった。嘘が嫌いで、まっすぐな、優しいチー。私とは、大違い。

「てかさ、こんなところで立ち話もなんじゃない? よく分かんないんだけど、これって俗に言う感動の再会ってやつなんでしょ?」
「そうそう、せっかくだから特別にサッカー部の部室貸しちゃう! それでみんなサッカー部に入ればめでたしめでたし」

 近藤さんが外見にそぐわない至極まともな発言を、ユニフォームの彼がちっとも空気を読まない発言をした。

「結構ですし入部もお断りします」

 ちぇ、と小さく舌を鳴らしたユニフォームの彼は、落ちていたサッカーボールを拾い上げ、ポン、ポン、と何度か軽快にリフティングしたあと、人ごみに紛れていった。その姿は、藍色の波間を赤い魚がすいすいと泳いでいくようにも見えた。

「あたしお腹すいちゃったし、駅前でなんか食べながら話そうよ。せっかくだし、ね?」
「だからせっかくって何が――」
「いいじゃん。俺も腹減ったし、千佳ともっと話したい」
「あ、でもチッカには用事があるんだっけ」
「そうなの?」

 遥の眉尻が下がって八の字になる。握られた手に、すがるような力が込められた。

「……少しくらいなら大丈夫、かも」

 私は腕時計に視線を落として、言った。
 近藤さんが「やった」と、ぴょんと飛び跳ね、遥はまた美しく笑った。ふわりと風が吹いて、私は慌てて前髪を押さえた。

 ――遥はね、すっごくきれいなんだ。

 チーが何度も繰り返したその言葉の意味をやっと理解する。
 彼の外見は、間違いなく美しい。でもその本質はもっと別のものだ。
 魂とかオーラとか言われるようなもの、なのかもしれない。
 遥は、まるでくっきりとした輪郭線に縁取られてでもいるように、世界から浮き上がって見える。どんな人間も、物も、嘘みたいに美しい世界でさえも、遥がそこにいるだけで、ただの背景に成り下がる。
 みんなと同じ藍色のブレーザーの背中も、どこか違って見えた。少し前を歩くその背中を見つめながら、大きく息をする。
 私は、この人に恋をするためにここへ来たんだ。
 私が消してしまったチーの代わりに。
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