この世界は愛に溢れている

雪月風花

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第10話 佐藤美由紀・四十七歳

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 シロツメクサが咲き誇る花畑の中央に、オフホワイトのシフォンブラウスとブラウンのフレアスカートを着た、ちょっとぽっちゃり目の……というよりか、だいぶ太めの女性が立っていた。
 
 女性はしばらくボーっとしていたが、不意に我に返り、キョロキョロと辺りを見回す。
 と、人影に気付いて大きく手を振った。
 黒のスーツに黒のビジネスシューズ、頭に黒いホンブルグハットと、全身黒尽くめの中年男性が女性からの合図に気付いて笑顔で歩いて来る。
 男性の左腕には、『案内係』と書かれた腕章が巻かれていた……。

「あの、そこのあなた、そう、そこのあなた。あぁ、案内係さんなのね? では、ここがどこかご存じ?」
佐藤美由紀さとうみゆきさん……ですね? ここがどこかはご自身が一番良く分かってらっしゃるはずですよ?』

 案内人が微笑む。
 対して美由紀は、困惑の表情を浮かべる。

「分かっている? だってここは……そうか。私、ここに何度も来たことがあったわ……。狭間はざまの空間って言ったかしら。前世のことは良く覚えていないけど、そう、私、死んだのね」
『はい。亡くなられた状況は思い出せますか?』
「えっと……事故、かしら。突然だったからあんまり良く思い出せないの」
『あの状態ならまぁそうでしょうね。美由紀さんが公共料金の支払いでコンビニエンスストアに寄ったところ、お年寄りの運転する車が店舗に突っ込んで来たのです。いわゆる、何たらミサイルというやつですね』

 案内人にベンチを勧められ、美由紀はトスンと座った。
 案内人も隣に座る。

「そっか。完全にもらい事故だったわけね。お相手のお年寄りは?」
『同じく即死です。残念ながら』
「あらまぁ、お可哀そうに。でもどうしましょ。私、お夕飯の支度もしてないのよ? 正彦さんと正也、今夜食べるものがなくて困っちゃうわね。冷蔵庫の中に何かすぐ食べられるもの入っていたかしら」

 美由紀が冷蔵庫の中身を思い出そうと頭上を見る。

『旦那さんと息子さんですね? 美由紀さんのお財布に入っていたカード情報を元に警察から連絡が行って、旦那さんも会社から、息子さんも大学から急ぎ戻り、すでにお二人とも現場のコンビニに来ていらっしゃいますよ』
「そっか。まぁ現場がコンビニだから、お腹が空いたら何か買うわよね。……買えないのかな? レジが潰れちゃっているなら」
『その前に、警察によって封鎖されて営業ストップしていますよ、きっと』

 美由紀と案内人が二人して軽く笑う。

「あぁでも、どうしましょう。公共料金の支払い方法とか町内会関係のこととか、全部私がやってきたから、正彦さん、きっと何も分からないわ。一応メインは全て自動引き落としにしているけれど、それ以外に関しては無理ね、きっと。メモでも残しておければ良かったんだけど……」
『あらら。ひょっとして珈琲すら一人でれられない感じですか? では息子さんはどうです? その辺り、フォローできたりしませんか?』
「正也はもっと酷いわよ。多分、靴下がタンスの何段目に入っているかさえ分かっていないでしょうよ。やっぱりもう一人、女の子を産んでおくんだった」
『多分、もう一人産んでも男の子だったでしょうね、そういうものです』

 美由紀と案内人が顔を見合わせ、再び笑う。

「色々心配でしょうがない反面、あんまり二人との別れを悲しく感じないのよね。なんでかしら」

 そよ風に美由紀の髪がなびく。
 狭間の空間は雲海の上にあるからか、程よく暖かい。

『突然だったから、まだ気持ちが動転しているんだと思いますよ? それに、狭間の空間は心置きなく次の転生先に向かってもらう為に、死者の魂を癒す性質があるのです。ただいるだけで不安や恐れ、悲しみが消えていくのです』
「なるほど。未練を薄めてくれるってことね」
『そういうことです』
「……ね、二人の様子、見られるかしら」

 美由紀が振り返る。
 美由紀と案内人の視線が絡む。
 案内人はちょっとだけ考えうなずくと、懐からタブレットを取り出し、美由紀に渡した。
 タブレットはそれほど大きくはないが、解像度が良いせいか、それでも二人の様子が良く見えた。

 正彦と正也は、もう夕方だというのに、電気も点けないままリビングのソファに座っていた。
 流れる涙が止まらないのか、二人して顔を覆って号泣し続けている。
 やはり、現世に生きるだけあって、二人ともストレートに感情を表に表す。

 どこかでついでに買ってきたらしい、お弁当が入った白いビニール袋がテーブルの隅に置いてあるが、二人とも手をつけていない。
 買ったものの、とてもではないが食に気持ちが向かわないのだろう。買ったときには温かかったのだろうが、もう完全に冷めている。

 それを見た美由紀の頬を涙が伝う。

「ごめんね、正彦さん。ごめんね、正也。もっともっと二人といたかったけど、先に運命が尽きちゃったの。もう一度二人を抱き締めたかった。温かいご飯を作ってあげたかった。明日も、明後日も、おはようおやすみの挨拶をしたかった。いってらっしゃいと、お弁当を渡しながら言ってあげたかった。でももうできないの。ごめんなさい!!」

 亭主と子供のストレートな悲しみに当てられたか、未練が薄れつつあるはずの美由紀も感情が戻ってきて、涙が止まらなくなる。
 だが、生者と死者。現世と狭間の空間。
 お互いが触れることは二度とできない。
 案内人はベンチで泣き崩れる美由紀を置いて、そっとそこから離れた。

 ◇◆◇◆◇ 

「お待たせしちゃってすみませんでした、案内人さん。私の葬儀も無事終わり、二人とも再び会社に学校にと通い始めました。後は、時間が主人と息子を癒してくれるはずです。もう大丈夫。二人とも前へと進めるでしょう」
『そうですか。それはご苦労様でした。美由紀さんももう?』
「えぇ、私も前へ進まなくては」

 美由紀が雲海に向かって、晴れやかな顔を向ける。
 案内人が眩しそうにその横顔を見つめる。
 
 美由紀は雲海を前にベンチに座って、右手を左右に動かした。
 雲の上に、幾つかのカップルや夫婦の映像が浮かぶ。
 その内、何かしらピンと来るものがあったのか、ある夫婦の映像のところで手が止まった。
 
 それは、どうという事もない普通の夫婦だった。
 容姿が優れているでもなく、金を持っている風でもない、どこにでもいそうな普通の若夫婦。
 ちょっと狭めのアパートに住んでいるのは、一軒家用の購入資金を貯めているかららしい。
 それを見て、美由紀が微笑んだ。

「真面目そうな旦那さんに倹約家けんやくかそうな奥さん。私、決めたわ。ここにご厄介やっかいになります」
『そうですか。では美由紀さん。あなたの魂の旅が、すこやかであることを……』

 案内人に見送られ、美由紀は笑顔で、ヒョイっと雲海に飛び込んだ。

 ◇◆◇◆◇ 

 夕方。
 十一歳になったばかりの春野美桜はるのみおは、学習塾に通うべく駅近くの商店街を自転車で走っていたところ、不意に美味しそうな匂いをかいで自転車に急ブレーキをかけた。
 お肉屋さんだ。
 揚げたてのコロッケをショーケースに並べているのだ。 
 同じく匂いに釣られたか、老若男女、お客さんがあっという間に行列を作る。

 美桜はバッグからパステルブルーのキッズ用財布を取り出して中身を確認した。
 だが、入っていたのは小銭数枚だけだ。

「……んー、駄目かぁ」

 美桜は自転車にまたがったまま、ガックリと肩を落とした。
 とそこへ――。

「なんだいお嬢ちゃん、腹減ってるのかい? 一個やろうか?」

 通りすがった三十路みそじのサラリーマンが、笑顔で美桜に声を掛けてきた。
 見ると、右手に提げたビニール袋には、肉屋の揚げたてコロッケが山ほど入っている。
 とてもじゃないが、このサラリーマン一人で食べきれる量には見えない。

「ちょっと多めに買ったから一個あげるよ。そら」

 嬉しい申し出ではあるが、知らない人にモノを貰ってはいけないと、学校にも親にも硬く言い含められている。

「あ、ありがとうございます。でもわたし……」

 そこで初めてサラリーマンの顔をまじまじと見た美桜の顔が固まる。
 不意に、美桜の頬を涙が一筋伝う。
 途端に感情がとめどなくあふれてきて、美桜はその場でボロボロと泣きだした。
 
「え? ちょ、どうしたお嬢ちゃん。腹でも痛いのか?」
「おー、正也! コロッケ買えたのか。商店街に入った途端にコロッケの匂いが漂って来てな? ちょうど父さんもコロッケが食べたくなったところだったんだよ」

 慌てるサラリーマンに、後ろから声がかけられた。
 そこにいたのは、還暦間際といった感じの初老のサラリーマンだ。
 老サラリーマンが美桜に気づいて首をかしげる。

「どうした、正也。何かあったのか?」
「いや、わかんねぇ。腹が減ってそうだったから一個コロッケ食べるか? って言ったらいきなり泣き出して……」

 老サラリーマンと美桜の目が絡み合う。
 その瞬間、美桜の感情が爆発した。
 自転車から飛び降りて老サラリーマンに抱きつく。
 涙が止まらない。
 老サラリーマンは何も言わずに、わんわん泣き続ける美桜の頭を優しく撫で続けた。

 泣くだけ泣いて落ち着いた美桜は、二人に対して深々と頭を下げた。

「何か分からないんですけど涙があふれてきちゃって。ごめんなさい!」
「うんうん、そうかそうか。そういうこともあるさ。我々のことは気にしなくていいよ、お嬢さん。あぁそうだ。これ、一個持って行きなさい。熱いから気をつけるんだよ?」
「火傷すんなよ」

 二人から熱々揚げたてのコロッケを一個貰い、その場で頬張った美桜は、食べ終わると何度も礼を言いつつその場を離れた。

 二人が優しい目をして、バイバイっと軽く手を振り美桜を見送る。
 泣いてお腹が空いたので、ちょうどいいオヤツになった。
 これでこの後の塾の勉強に集中できる。

 星空の下、自転車を漕ぐ美桜の心は、なぜかポカポカと温かかった。
 その胸は、晴れがましい気持ちでいっぱいになっていた――。
 

 END
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