この世界は愛に溢れている

雪月風花

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第6話 望月邦夫・四十歳

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 ワンワンワンワン! ワンワンワンワン!!

 シロツメクサが咲き誇る花畑の中央に、グレーの作業着を着た男性がうつ伏せで倒れていた。
 どこかの工場務めなのか、なぜかグレーの作業帽子までしっかりと被っている。

 茶色の綺麗な毛並みをした豆柴がしきりに吠えていたが、やがて目覚めの兆候でもあったのか、男性の頬を舐め始めた。

「よせよ、豆太まめた。くすぐったいってば。こら、いい加減に……」  

 そこで男性は目を開いた。
 妙な――いつもと違う雰囲気に気付き、ゆっくりと起き上がる。
 自分の部屋で寝ているところを愛犬に起こされたと思っていたのが、起きたのは何と花畑の中だ。

「どこだここは……」
『あぁ、やっと起きられましたか、望月邦夫もちづきくにおさん。済みませんけど、狭間の空間ここはペットの持ち込みは不可なんです。犬を連れて来られちゃ困るんですよ。まぁ来ちゃったものはしょうがないんで、今回だけは不問に付しますけど』

 黒のスーツに黒のビジネスシューズ、頭に黒いホンブルグハットをかぶった中年男性が渋い顔をして立っている。

「すみません。ほら豆太、行くぞ」
 ワン!!

 豆太を引き連れ、雲海漂う縁まで行くと、邦夫は振り返った。

「ところでここ、どこです?」 

 ◇◆◇◆◇

『ちょうどお給料日だったからですかね。今どき現金を封筒手渡しで支払いする会社というのも珍しい気もしますが、それで気が大きくなったあなたは、日課の愛犬の散歩中、ふとギャンブルっ気を起こし、繁華街にある場外馬券売り場に行き、全額大穴にツッコミました』
「全額……怖っ! 俺、怖っ!!」
『ところがそれが大当たりしました!』
「え? いくらになったの?」

 縁にあるベンチに一緒に座った案内人が、邦夫の耳元に口を寄せると、そっとささやいた。
 見る見るうちに、邦夫の顔が固まる。

「え? そんなに? ウソでしょ?」
『まぁ給料全額突っ込んだ万馬券ですからね。それぐらいにはなりますよ。あ、換金はまだですよ、念の為。で、あなたは一瞬で極度の興奮状態に突入し……』
「突入し?」
不整脈ふせいみゃくを起こして病院にかつぎ込まれたすえ……』
「担ぎ込まれた末?」
心筋梗塞しんきんこうそく心停止しんていししました』
「うはぁ……。せめて換金してから死んで欲しかったが……まぁでも俺だしな。そっか。こういうのがカフクが……カフクが……何たらって言うんだなぁ」
『……ひょっとして、禍福かふくあざなえるなわごとし、ですか?』
「それそれ。良い事があったら悪い事だってあるだろうさ。俺らしい最後だな」

 邦夫がハハっと屈託くったくなく笑う。
 何を考えているのか、案内人がそんな邦夫の横顔をさりげなく見つめる。

「死んだのはしょうがないけど、豆太のことだけどうしたもんかな。なぁ、豆太」
 ワン!

 邦夫が足元で伏せをする豆太の頭を撫でてやると、豆太が嬉しそうに吠える。

『ご家族はご一緒では?』
「俺、一人暮らしだよ。六畳一間のアパート住まいで、四十歳、独身。売れない役者崩れで今は近所の工場務め。給料は安いし将来性も無いから嫁の成り手もいないの。一応両親ともに健在で、東北の田舎に住んでるけどね」

 邦夫が豆太を撫でながら、陽気に言う。

『それですと……豆太さんは実家のご両親に引き取られるんじゃないですかね、多分』
「そっかぁ。まぁでも最後に豆太と会えて良かったよ。父さんたちなら大切にしてくれるさ。幸せになるんだぞ」

 邦夫が雲海に近寄ったところで、なぜか豆太が素早く邦夫の前に回り込んだ。
 そこから先に行かせないといった様子で、歯をむき出しに威嚇いかくしてくる。
 仕方なく邦夫がちょっと離れた位置から雲海に飛び込むべく歩き出すと、またも豆太は邪魔するかのように進路上に回り込む。

「どうしたどうした、豆太。何か怒っているのか?」

 さしもの邦夫も豆太の異変を感じ、足を止める。
 良く見ると、威嚇の顔を向けているのは邦夫にではない。邦夫と一緒にいる案内人に対してだ。
 豆太はまるで、『何とかしろ!』と言わんばかりに案内人に牙をく。

『現状、私には何も出来ませんよ、豆太さん。九割がた確定しちゃってますし』
「ん? 何か言った?」
『いえ、何も』

 案内人が邦夫に笑顔を向ける。
 だが、豆太の威嚇が止まらない。

『……分かりました。五分ごぶまで盛り返したら力をお貸ししましょう。でもそれは豆太さんの頑張り次第ですよ? いいですね?』
 ワン!!
「何か言った?」
『別に何も?』

 そうして案内人と豆太は、何か意味深な表情を向け合うのであった。

 ◇◆◇◆◇

 一方その頃――。

 総合病院の集中治療室の中で、必死の蘇生処置が続けられていた。
 女性の看護師が全力で心臓マッサージを行っている。
 その脇で、別の看護師が、患者の状況を全員に伝えるべく大声を出す。

「対象・望月邦夫、男性、四十歳! 先ほど会社の上司さんに繋がって、急ぎこっちに向かっているそうです! 上司さんが言うには、一人暮らしで田舎にご両親がいるとか」
「念の為、ご両親に連絡を取って貰え! よし、行くぞ!」

 その声を合図に、心臓マッサージを行っていた看護師が急いで離れる。

「帰ってらっしゃい、邦夫さん! さぁ!!」

 五十代のベテラン医師が、オレンジ色のパドルをむき出しになった邦夫の胸に当て、放電スイッチを押した。

 バチンっ!!

 邦夫の身体が跳ねる。
 全員が心拍数モニターを凝視ぎょうしするも、そこに変化は無い。

「駄目だ。もう一度! 頼む!」
「はい!!」

 近くに待機していた看護師が、再度の心臓マッサージに入った。

 ◇◆◇◆◇

 不整脈を起こして繁華街で倒れた邦夫は、すぐさま呼ばれた救急車によって、あちこちたらい回しにされた挙句、郊外の総合病院に運ばれた。
 総走行距離、実に十キロ。

 豆太は、途中何度か転んでボロボロになりなからも、引き離されることなくその距離を必死に走り切り、今、病院の中庭の芝生の上にいた。

「あれ? 豆太じゃないか! ご主人さまは中だな? よし。ご主人さまの無事を祈って、そこで大人しく待っているんだぞ!」

 還暦間際かんれきまぎわといった感じの、頭が綺麗に白髪に染まった中年男性が車を駐車場に停めると、走って病院の中に入って行った。
 豆太は愛用の黄色の首輪に誰も持つ者の無いリードが繋がったまま、蘇生処置が真っ最中の集中治療室の方をじっと睨みつけていた。

 ◇◆◇◆◇

「豆太。お前がそこをどかないと、俺、転生できないんだよ。困ったなぁ。いつもは結構素直なのに、何で今日に限ってここまで強情なんだよ」

 豆太はガンとして邦夫に道を譲らない。
 邦夫に撫でられても怒られても、今回ばかりは身体を突っ張らせ立ち続けている。

「頼むよ、豆太。何がそんなに不満なんだ?」

 豆太は邦夫に撫でられながらも、案内人から視線を外さない。

『大丈夫、約束は守りますってば』

 案内人は誰にも気付かれぬよう、そっとつぶやいた。

 ◇◆◇◆◇

「そろそろ限界か! 最後のチャンスですよ、望月さん! 戻って来て下さいよぉぉ……それ!」

 医者が邦夫に電気ショックを与えたまさにその瞬間、病院の中庭に居た豆太が、遥か遠くまで轟くほどの全力で遠吠えした。
 と同時に、狭間の世界で邦夫の前で踏ん張っていた豆太が、邦夫が腰を抜かすほどの勢いで遠吠えした。
 現世と狭間の空間、二匹の豆太の遠吠えがシンクロする。

「わわ! ビックリした! 豆太、どうした!?」

 バチンっ!!

 現実世界の邦夫の身体が、ストレッチャーの上で跳ねる。
 心拍数モニターが反応し、ビクっと一度、鼓動の波形が現れる。

 狭間の世界で邦夫と豆太のやり取りを見ていた案内人が、何かに気付いたかのように、勢い込んで空を見上げた。

『良くやりました、豆太さん! これでフィフティフィフティまで戻りました! 今こそ約束を果たしましょう!』

 邦夫は、いきなり大声を出した案内人にびっくりしたのか、遠吠えをした豆太から目を外し、慌てて案内人の方に振り返ろうとした。
 その途端――。

「案内人さん、何か言っ……」
『えいっ!』

 邦夫は案内人によって、無情にも雲海に突き落とされた。
 邦夫がきょとん顔を残したまま、雲海に消えていく。
 それを確認した豆太は、雲海に飛び込もうと勢いよくジャンプした。
 その時。

「豆太さん!」

 案内人が豆太に向かって何かを放る。
 豆太は口を開いてソレを空中でキャッチすると、満足そうな顔で雲海に消えて行った。

 ◇◆◇◆◇

「おぉ、豆太! お前のご主人さま、助かったぞ! もう大丈夫だ。いやぁ、一時はヤバかったらしいが、本当に良かった……って、豆太、お前、何咥えてんだ?」

 病院からホっとした表情で出て来た邦夫の上司が豆太を見ると、豆太が夢中になって何かを食べている。

「お前、いつの間にそんなものを……。え? もう夜中だぞ? こんな時間にそんなもの誰に貰ったんだ?」
 
 豆太は芝生に伏せをして、勢いよくしっぽを振りながら、くっちゃくっちゃと一心不乱にジャーキーをかじっていたのであった。


 END
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