セロシア・キャンドル―希望の灯火―

さわらぎゆかり

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【個別】ダリオ・ドゥーガルド

5章 警官×重要参考人=喧嘩友達?

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「………………」

 声が出ない。
 私が先程まで、ノアさんと一緒にジェラートショップへ行っていたはずだ。

 決して、ダリオさんと一緒にいたわけではない。

(爆発が起こって、ノアさんの顔が剥がれて……ダリオさんが現れてって、ちょっとよくわからないんですけど……)

 気が動転してしまいそうだ。
 驚き過ぎて、ダリオさんから視線を剥がすことができない。
 ダリオさんは私よりも先に正気に返ったのか、まだ剥がれていない首の部分を剥ぎ取り、喉仏付近に装着していた機械を外す。彼は剥がれた顔と機械をサッと懐にしまった。
 そして、簡素なワイシャツの上からいつも着込んでいるジャケットを着込む。


「どういう、ことですか?」

 口をついたのは、その言葉だった。


「…………」
「ノアさんに変装してたんですか?」
「…………」
「ていうか、ダリオさんで間違いないですよね?」
「――ああ、間違いない」

 ダリオさんは何かを逡巡するかのように眉をひそめ、それから嘆息した。

「やっぱり、水に濡れても剥がれないタイプの特殊マスクを開発すべきだということがよくわかった」
「いや、私の質問への答えになってないんですが。全く」

 ダリオさんはタイガーアイのような瞳を伏せ、頭を掻いた。

「色々理由があるんだよ。警官にはな」
「ってことは、本物のノアさんはどこに!?」
「…………ノアなんて人間、いねーよ」

 時が止まった。

「え? な、は?」
「ノアはオレだ」
「オレがノアとダリオ・ドゥーガルドの二役を演じてる」

 ……色々知りすぎて、思考回路が混乱してしまいそうだ。

「もうこの際だから見せちまうけどな」
「ほら」

 バリッとダリオさんは再び顔を剥ぐ。すると、その下からノアさんが出て来た。

「!?」

 そして、彼は再びその顔を剥ぎ……ダリオさんの姿に戻る。

「ど、どっちが本物?」
「さあな。どっちも偽物なんじゃねえの?」

 半ばやけくそ気味な様子でダリオさんはぐっと私に向き合った。

「とにかく……オレとノアが別々の人間であると認識させる必要があるんだ。絶対バラすなよ!?」
「は、はい」

 ダリオさんの勢いに負けて、思わず同意してしまった。

「はー……めんどくせえことになったな」

 ダリオさんはそう言うと、見慣れない二つ折りの携帯を取り出す。
 そして、先程懐に入れた機械を携帯の通話口部分に当ててどこかへ電話をし出した。

「ノアだ。カムジェッタ国都市部に緊急網を敷いてくれ。倉間マドカを狙ったものと見られる爆破が起きた。……ああ、場所は…………」

 先程の公園の場所を細かくどこかへ指示しているダリオさん。
 彼が使っているのは――変声機だった。
 それを目にした途端、路地裏で出会った2人組の1人……ボスと呼ばれていた長身の男性を思い出す。

「……どうした」

 通話を終えたダリオさんが、一歩引く私に対して怪訝な顔を向けてくる。

「――私を殺そうとした二人組のうち一人も、変声機を使ってたな……と思って」
「オイ。まさかとは思うが、オレのことをそのうちの1人だと思ってるんじゃないだろうな?」
「……そ、そんなことは……」

 ない、とは言い切れない。

 ノアさんのふりをしていることも怪しいことこの上ないし、変声機も使っている。

「ちげーよ。何度だって言ってやる。オレはアイツらの一員じゃねえ。間違いなくヴァンリーブ警察の一員だ」
「あんな……爆破や列車事故、誘拐事件なんて姑息なことしかできないヤツらと一緒にするな」
「まあ……オマエが置かれた状況下で、オレを信じろっていうのも難しいかもしれねえけど」

 ――ダリオさんは自分の身の潔白を証明したかったのか、私を安心させたかったのか。
 かいつまんで少しだけ事情を話してくれた。

 ヴァンリーブ警察は、警察の役割を果たす部門と軍隊の役割を果たす部門の2つで成り立っている。
 ダリオさんはそのどちらにも属し、それぞれに属する人々が機密情報を他に流していないか、反乱分子はいないかなどを監視する役目を担っているらしい。
 しかし、普通はどちらの部門にも所属することはできない。
 だから、高い技術力を持っているブルダム王国にて開発された特殊マスクを装着し“ダリオさん”と“ノアさん”を使い分けているらしい。
 ……どちらの顔が本物なのか、何枚くらいマスクを装着しているかについては教えてもらえなかったけど。

 この事実を知っているのは警察内でも上層部と、特殊マスクを融通してくれているアマネ様のみ。

(……ああ、だからノアさんがジェラートショップへ行きたいと私に言い出したとき、アマネ様は……)

 ――ふっ……そうだな。ダリオだったら目立つだろうけど、ノアだったら目立たないだろうしな。

 なんて、笑いながら言っていたのか。
 どうしてここでダリオさんの話が出てくるんだろう? と疑問に思っていたことが納得できた。

「……ってことで、オレは潔白だ。いいな」

 有無を言わせない強い言葉でダリオさんはそう締めくくった。


「……なあ、倉間」
「はい?」
「もしかしたら、オマエ狙ってる組織のヤツ、警察内部にいるかもしれない」
「はい」
「………………………………………………え!?」
「仲間ではなくても情報をリークしているヤツがいるのは確実だ」
「何を根拠に……!?」
「今回の爆破を仕掛けてきたのが、オレ――ダリオと一緒にいる時じゃなくてノアと一緒にいた時だということが根拠だ」
「――言っただろ、オレはヴァンリーブ警察の『警察』、ノアは『軍部』に属してるって。ノアとして所属しているのは、軍部の『諜報』だ。まもるものは、“ヴァンリーブ王国の平和”。よって、他国人よりも自身の命を優先させなければならない」
「……え……」
「万が一、自分の身に危険が及びそうだったら、保護対象であったとしても外国人は見捨てろって規律にも記してある」
「オレはノアの姿でいるとき、基本的にそのスタンスでやってる。だから――今回もオマエを助けない可能性が高いって思われたんだろうな」
「でも――そのことと、警察内部に敵がいるのと何のつながりが……?」
「“ダリオ”も“ノア”も、警察の人間だということは、胸につけてるバッジですぐ判断できる。だが……ノアが軍部に属しているか否か、倉間の周囲にSPが張り付いているかいないか、というような機密情報は」
「情報を密にとっている警察組織の内部にいる人間しか知らない。ていうか、根拠がなかったとしても、オレの勘がそう言ってるんだから間違いねえ」

 ――そんな、たまたまですよ! そんな映画みたいなことあるわけないじゃないですか!

 と軽口を叩こうと唇を開くも、漏れてくるのは吐息だけ。
 手足が震えてくる。

「……来たか」

 ダリオさんは音もなく、路地裏の出入り口付近に停車した黒いセダンに向かって歩き出した。
 運転席にはSPの姿がある。

「ノア様から緊急手配信号を頂いたのですが……ノア様は……?」
「ノアは爆破犯について聞き込みへ言かせた。倉間の護衛はオレが引き継ぐ。至急、カムジェッタ・ホテルへ戻ってくれ」

 ダリオさんは指示を飛ばしつつ、私に目をやった。

「ボケッとしてんな。行くぞ」

 重い足を何とか動かし、私はダリオさんと共に後部座席へ乗り込んだ。



 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-



 ――カムジェッタ警察署本部。

「んだと!? もう1回言ってみろ!」

 すごい気迫でダリオさんはカムジェッタ警察の署長さんに食ってかかった。

「ダリオさん! 落ち着いて下さい! ちょっとは冷静に話をして下さい!」
「何言ってんだ。オレは至って冷静だ!」
「どこが!」

 カムジェッタ警察署内にある応接間のテーブルを拳で叩こうとするダリオさんを、私は必死で制止していた。

「いえ、ですから……いくらダリオ警部のご依頼であったとしても、今回の件に関しては護衛するしか方法は……」

 カムジェッタ警察の署長さんはオドオドしながらもカムジェッタ側の意向を告げた。

「人命がかかってるんだ。なんとかカムジェッタ警察から応援を出し、犯人のいそうな場所を特定しろ」
「国際条約に反してしまいます。我が国カムジェッタは平和宣告をおこなっていますから、こちらから攻撃を仕掛けることはできません」

 カムジェッタ警察の署長さんはハッキリと言い切った。

「……協力もできないってわけか」

 ダリオさんの声が低まる。

「倉間マドカさんやそのご家族の身辺の護衛をすることについては、引き続きご協力させて頂くことは可能です」

 かなり気が立っているのだろう。
 ダリオさんは盛大に舌打ちし、溜め息を吐いた。

「わかった。取り敢えず、ヴァンリーブ警察官が動くことへの許可はもらえるな?」
「はい。ただし……もしも犯人の足場がわかったとしても、攻撃を加えることはできませんのでご注意下さい」

 ダリオさんのこめかみに、ビキッと青筋が立つのが見えた。



 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-



 車内の空気は最悪だった。ダリオさんはどっかりと後部座席に腰を下ろし、神妙な顔をして腕を組んでいる。

「なーにが『平和宣告を行っているため~』だ。爆破されたんだぞ、自国の公園が。奇跡的に死者もけが人も出なかったから良いものを……」

 ぴぴぴぴ

「仕方ありませんよ。カムジェッタはそういう国ですから」

 運転席に座っているSPが苦笑気味で言った。

 ぴぴぴぴぴぴぴぴ

「ああ。……グレゴリウスに文句言ったところで、今回は条約絡んでるから無理だろうな……」

 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ

「ダリオさん? スマホがさっきから鳴ってますよ?」
「気にするな」

 ダリオさんはそう言って、音が鳴っているスマホの電源ボタンを押す。
 ……強制的に着信を切ったようだ。

 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ

 しかし、すぐにまたかかってくる。

「………………はい」
《はい、じゃない! 今、わざと着信を切っただろう!》

 怒り心頭とすぐにわかる、バーンハード王子の怒鳴り声が私にまで聞こえてくる。

「ちっ。なんだよ」
《SPから連絡をもらった。爆破事件が起こったそうじゃないか》
「あー、情報の回りが早いようで」
《カムジェッタ警察への協力要請は上手くいったの?》
「わかるだろ。無理だった」
《やっぱり。…………ダリオ。今回のことで倉間マドカが組織から狙われていることはハッキリした。このままでは危険きわまりない。カムジェッタでは攻勢に転じることもできないだろう。だから、早くヴァンリーブに彼女を連れて戻ってきた方が利口だよ》
「……はいはい」

 ダリオさんはスマホから耳を離し、まだ何か言っているバーンハード王子の言葉を最後まで聞くことなく通話を切った。そして、電源ボタンを長押ししてスマホの主電源を落とす。

「聞こえたか」
「はい、全部筒抜けでした」
「まあ……そんな感じだ。もしヴァンリーブ王国へ行くなら、倉間の身の安全はヴァンリーブ警察がキッチリと守ってやれるし、もし何かあったら攻勢に転じることもできる」

 ヴァンリーブにはカムジェッタと違って武力を行使しないなんていう条約ないからな、とダリオさんは付け加えた。

「選ばせてやる。どうしたい?」
「私は――――」

 きっと、本当は強制的にヴァンリーブ王国へ連れて行かれても文句は言えないような状態だ。
 それくらい、今の状況は危うい。

「私は――……」

 ぴぴぴぴぴぴぴぴ

「!?」

 ダリオさんは電源を切ったはずのスマホを凝視する。
 しかし、鳴っているのはダリオさんのスマホではなく、私の携帯だった。
 ディスプレイを見ると、『叔父』の文字。
 いつもは連絡を取るにしてもメールで済ませる叔父が電話なんて珍しい。

「すみません、出てもいいですか?」
「ああ」

 ありがとうございます、と頭を下げ、通話ボタンを押す。

「もしもし? どうしたの? ……え?」

 叔父と通話を終えた私は、震える唇を必死に押さえてダリオさんへ言った。

「ダリオさん、大変申し訳ないのですが……このまま市病院へ行って頂いても良いでしょうか」
「いきなりどうした――」
「は、母が……母が倒れたと――」
「!」
「よ、容態が悪いみたいで――」

 爆破があった直後だから、病院へ行くのは懸命でないことはわかっている。しかし――……。

「オレだ。これから倉間マドカと市病院に行く。一応、2人つけておけ」
 ダリオさんは手早く他の警察官に指示を飛ばし、私を見つめる。
「連れてってやる」



 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-



 ――カムジェッタ市病院。

 フルスモークの車の後部座席に乗せられて、私は母が運び込まれた病院へと到着した。
 受付で母の名前を言い、病室を教えてもらってダリオさんと共に病室へと向かう。

 病室前まで来ると、ダリオさんはピタリと足を止めた。

「オレはここで待っとくから、入れ」
「え?」
「部外者が病室に入るわけにはいかねーだろ。ほら、早く入れ」

 グイグイとダリオさんに背中を押されるがまま、私は中へ入った。

 病室内には母と医師、それから二人の看護師の姿があった。

「マドカ……」
「お母さん!」

 泣きそうになりながら駆け寄ると、医師が状況を説明してくれた。
 何でも、母は仕事をしている途中で倒れてそのまま意識を失ったらしい。

「だからあんまり無理するなって、いっつも言ってるでしょ!?」
「ごめんね……。でも、マドカにばかり負担をかけるのは申し訳なくて」

 ぎゅっと母は掛け布団を握りしめる。

「……お母さん、申し訳なくて……」

 そう言って、母は声を震わせながら顔を伏せた。

「そんな……そんなこと……」

 私は、母も叔父も叔母も。
 皆大好きだ。

 父を亡くして困っていた私と母を快く迎え入れてくれた叔父夫婦。
 調香師以外の仕事なんてしたことがなかったのに、生活費のため営業の仕事をしてくれている母。
 そんな皆を助けることができれば、それで良かった。

「気にしなくていいんだってば。お金はまた貯められるもん。お母さんが無事で良かった!」
「マドカ……」
「先生、お世話になりました。元気そうですし、今日中には退院手続きを取れますか?」

 医師の表情が強張る。
 看護師さんたちも顔を見合わせ、母も唇を引き結んだ。

「退院するのは、難しいです。あなたのお母さんは現在、下半身に全く力が入らない状態にあります」

 この人は、一体何を言っているんだろうか。

「現在の医療では完治することが難しいとされている難病です。治療するには莫大な治療費がかかります。取り敢えず、進行を食い止める薬を投与しますが、症状を好転させることはこの病院の設備ではとても……」

 最善は尽くしますが、と医師は付け加えて病室を去った。


「設備が整った病院へ転院するつもりであれば、紹介状を書きますので言って下さいね」


 ――気遣うような看護師さんの声が病室内に染み渡った。




 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-



 病室の引き戸を開けると、真正面にあるベンチに座っていたダリオさんが腰を浮かせた。

「母親は大丈夫だったか? 医者と看護師がさっき出て行ったけど」
「はい、大丈夫ですよ」

 底抜けに明るく見える笑顔でダリオさんに対して答えた。
 とてもじゃないが、先程医師から言われたことを伝えることはできない。

「取り敢えず今日は入院することになりました。今、叔父たちが入院手続きをしてくれてるらしいので……母の着替えとかを家へ取りに帰っていいですか?」
「あ、ああ」
「良かった。じゃあ、急いで行きましょう!」
「……」



 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-



 母の着替えを取りに帰ったりしているうちに、すぐそこまで夜が差し迫る時間となってしまっていた。

 ……病院の駐車場は病院の敷地から少し離れたところに位置する。
 そこへ行く途中には、爆弾によって殺されそうになった――公園があった。
 できることなら通りたくないけれど、そこを通るのが駐車場へ向かう一番の近道であるため仕方なくその道を通っている。
 私とノアさんダリオさんが座っていたベンチあたりには、物々しい立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。

「なあ」
「はい?」
「一体どうしたんだよ、オマエ。さっきから気持ちわりぃ」
「な、気持ち悪いって……!」

 ふと、ダリオさんは足を止めた。
 彼の後ろから強く射している夕陽が眩しい。

「……わざとらしく、明るくなんてふるまうな」

 私は小さく息を呑んだ。
 彼は、私が無理して笑っているのに気づいていたのだ。


「オレに黙って辛い思いするなんて権利、オマエにはないぞ」


 俺様発言ではあるものの、その言葉に詰まっているのは――私を心配しているというたしかな気持ち。
 ダリオさんって本当は優しい人だ。
 一ヶ月一緒にいて、よくわかった。
 口は悪いけれど、心は本当に真っ直ぐ。
 そして、真っ向から人に向き合おうとする人。
 ――しかし、母の件はダリオさんに全く関係ないことだ。

(こうして守ってくれてるのは、ヴァンリーブ王国に関係がある事件と関わってしまってるから)

 私はあくまで重要参考人の立場なわけで。
 だから、私は何も言わなかった。
 ダリオさんは頑なに黙り込んでいる私をじっと見つめていた。
 やがて彼は双眸そうぼうらし、ポケットから車のキーを取り出した。


「ちょっと付き合え」




 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-



 一旦市病院で母の着替えを渡した私たちはカムジェッタ・ホテルへ戻った。
 その足でダリオさんが使っている車へ乗り換える。

 どこへ行くのか、こんなときに外出しても良いのか、と問いたかったが何も話したくなくて。
 車内には、ラジオから流れてくる音楽のみが響いていた。




「……ここは」


 ダリオさんに連れてこられたのは、一ヶ月前にも連れてきてくれた海だった。
 水平線に落ちていく、熟れた赤い果実のような太陽。全てを染め上げ、穏やかな夜を引き連れてくるその光はどこまでも力強く、優しい。

「ほら」

 あの時と同じように、ダリオさんは私へホットドッグを差し出した。

「ありがとうございます」
「ああ」

 沈黙のとばりが落ちる。
 二人ともなにも言わず、ただただ海を見つめていた。
 いつの間にか、景色は完全に夜へと移ろっていて。
 風が潮の香りを運んでくる。
 いつもだったら、こんな香りにするにはどんな香りを混ぜ合わせばいいんだろう、なんて考えを巡らせたりするのだが、今はそんな気分にもならない。

 ――母の入院手続きをする際に聞いた、治療費の高さが脳裏にこびりついている。

 医師が言っていた最先端医療を受けるのは、難しいだろう。
 母は医療保険に加入していなかったため、高額な医療費はこちらが全額負担しなければならない。
 一千万は下らない最先端医療費。
 できることなら――その治療を受けさせたい。
 しかし、そんなお金……私には到底用意できない。
 パフュームショップを出店するために貯金していたお金を全て注ぎ込んだとしても、必要な治療費の半分にも満たない。それくらい……最先端医療にかかる費用は高額過ぎた。

 叔父からも、その件で先ほどメールが来ていた。自営の仕事が思わしくて、余裕がないらしい。それでも、200万は出してくれると言ってくれた。

(このままホテルの仕事を続けていても、医療費をまかなうのは無理……。こうなったら、夜の仕事に移行するしか……)

「……オマエとオレは、警官と重要参考人という間柄だ」

 いきなり過ぎる発言を繰り出すダリオさんを、私は怪訝な顔で見つめる。

「だが、その前に」

 ダリオさんは海の向こう側を見ていた視線をこちらへ向ける。
 控えめな星々の光に浮かび上がる、ダリオさんの瞳。

「オレとオマエはなんでも言い合う喧嘩友達だろ?」

 虚を突かれた。
 絡み合ったまま離れない、ダリオさんと私の視線。
 嘘を吐かない彼の眼差しは、私の心の奥底まで見透かしてくるような純度があった。

「……だから、言えよ。オレに黙って辛い思いするなんて権利、オマエにはないぞ」

 ダリオさんは、先程公園で口にした言葉を再び紡いだ。

 ずるい、と思う。

 心が弱っているときに、こんな風に優しくするなんて反則だ。
 泣きたくないのに、泣いてしまうじゃないか。

「…………っ」

 こんな優しい人だからこそ、母の治療費のことを言うわけにはいかない。この人は、ヴァンリーブ王国の警察官なのだ。そして自分は重要参考人。

 ――……喧嘩友達だと言ってくれたけれど。

「……特殊犯罪組織の人が言ってた言葉、まだ思い出せなくてすみません。守ってもらって……すみません」
「……オイ」
「……てか、ダリオさんが優しいなんて、気持ち悪いです……」
「…………あーくそ!」

 ダリオさんは俯いたままの私の後頭部を乱暴に引き寄せ、自らの胸に埋めた。
 清々しい香りが鼻孔をくすぐる。
 その匂いと潮の香りが合わさり、呼吸を忘れてしまいそうになった。

(……あたたかい……)

 こうやって誰かに抱きしめられたのはいつぶりだろうか。
 私は彼の背中にぎゅっと縋りついた。



 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-



 ――翌日。

「ということで、早く準備を済ませろ」
「…………………………は?」

 私と叔父叔母の声が重なった。

 目の前にいるダリオさんこの人は、一体何を言っているのだろうか。

 ――昨夜の出来事から順に、記憶の糸を辿ってみることにする。
 昨夜は……そう。
 海にて、どういうわけかダリオさんと良い雰囲気になりそうになったものの、ホットドッグを売っている移動車のおじさんがニヤニヤしているのに気づいた私たちは、慌てて距離を取った。

 ギクシャクしながらカムジェッタ・ホテルへ戻り、そのまま自室へ帰り、眠れぬまま朝を迎え……。
 うつらうつらとしていたところをダリオさんにたたき起こされたと思ったら、行き先も告げられることなく車に押し込まれた。
 到着したのは私の家。
 ダリオさんは私の問いかけに答えることなくインターフォンを鳴らした。

 眠そうな声で応答した叔父に対し、ヴァンリーブ警察の者だと名乗ったダリオさん。
 叔父はパジャマ姿のまま慌てて玄関口に出て来た。朝食の準備をしていたらしい叔母も、おたまを手にしたまま困惑した表情で玄関先へやって来た。
 そして、状況が全くわかっていない私・叔父・叔母に対して、ダリオさんが衝撃の言葉を放ったのだ。

「倉間マドカと母親をヴァンリーブ王国へ連れて行く。すぐにパスポートや必要なものをまとめろ」

 と。

 ……頭が痛くなってきた。

「だ、ダリオさん。いったい何をどうしたらそんな結論に……」
「オマエの母親の病名は聞いた」

 ぴしりと私、叔父、叔母の動きが止まる。
 誰が言ったんだ、とばかりに三人とも互いを探り合う。

「警察なめんな。病院に聞けば一発だ」
「…………」

 守秘義務も何も、彼の前にはあったもんじゃないようだ。

「オマエの母親が患っている難病治療の第一人者が、ヴァンリーブ王国にいるって知ってるか?」
「え?」
「昨夜、その医師とコンタクトを取った。まだ治療法を解明している途中だから、色々調べたいこともあるらしい。……もし、オマエの母親が血液や検査結果の提供をしてくれるのであれば、治療費は要らないそうだ」
「え!?」

 あの、と叔父がおずおずとダリオさんへと声をかける。

「あなたはヴァンリーブ警察の方なんですよね?」
「ああ、そうだが」
「そんなあなたが、私の姉の治療について口添えをしてくれるなんて……どうして……」
「よくぞ聞いた。倉間マドカは、我が国の王室スタッフとして迎え入れることになった。だから、彼女の母親も受け入れる許可が下りたんだ」

(王室スタッフ!?)

「な、な!?」

 驚き過ぎて言葉にならない私に対し、ダリオさんは不敵な表情を浮かべた。

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