純白のレゾン

雨水林檎

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朝は来る

01

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「なに、登校拒否?」
「登校どころか全てを拒否している感じですね」
「なんだ、やけに冷静じゃねえか。無垢のことだろ?」
「無垢のことだからですよ。私までうろたえたらあの子はもっと立ち上がれません」
「何があったんだ? この前の喧嘩沙汰か」

 無垢が部屋に閉じこもって三日がたった。最初はそっとしておいた方が良いだろうと刺激をしないように静かにしていたが、三日もたてばさすがに心配にもなる。
 先日、上級生とトラブルになり結果足をひねった無垢はその日以来自分の部屋から出てこなくなった。そんなに足が痛いのかとドアの向こうから聞けばそうではないと言う。原因となった上級生が怖いのかと思ったが、どう考えても彼らをからかい返したのは無垢で挙句自宅には彼らの保護者まで謝りに来たし。いまでは彼らは私と目すら合わせてくれない。思ったよりもおおごとになったその件についてはもう、逆恨みなどしないだろう。

 ならば、何が。
 何かと反抗する時期も過ぎて、むしろ私を気遣うまでになった。その無垢の心を何が壊してしまったのか?
 とりあえず今日も早めに帰ろう、一応置いておいた食事を口にしてはいるようだがその顔すら見せてくれないままでは。
 無垢はまだ子供だ、私がそばにいてやらないと。
 しかし閉じてしまった心を開かせる方法を私自身考えてはいるが思いつかない……それは教師としてどうなのかと自分でも思う。

「青海先生、私はまだ色々と至らないところがあり過ぎて、どうしようもない人間ですね」
「今頃気がついたか、言っておくがお前なんかまだ生徒に毛が生えたようなもんだよ。俺からみたらな」
「それでも無垢は私の家族ですから、いま私がこの手を離すことは出来ません」
「それで良い、砂和。今は思う存分そばにいてやれ、きっと無垢もそれを望んでるだろう」

 ***

 駅前のコンビニで昔無垢が好きだったプリンが売っていた。向島の家にやって来た頃は甘いものしか食べなくって……あの当時の偏食はきっと小鳥遊の両親が色々なものを与えなかったせいだろう。菓子パン一個とジュースだけ置いて、度々両親は家を空けたらしい。そしてやがて次第に帰宅するまでの間隔も長くなり、ある日、昼夜止まない子供の泣き声がすると近所の住人から役所に電話があり、ようやく無垢は保護された。
 伸び放題の髪と汚れた姿。遠縁にあたる向島の両親はすぐに無垢を引き取ることに決めたのだろう、その子供は突然私に相談もなく現れた。無垢を連れた母はどうか弟と思いなさい、と。
 私は当時周りに同じくらいの子供もおらず、友人も少なかったから一人読書ばかりしていて人と関わることが苦手だった。そんな日々に現れた六歳の少年はすぐに私に懐いて……。
 最初はただ泣いてばかりいる子供に戸惑って、私は手探りながら遊ぶ方法を勉強した。折り紙なんて幼い頃にやったこともない、それでも曲がった鶴を折れば無垢は喜んで何度も何度も折り紙を持って私を追う。
 やがて私の手元にあった小難しい小説は絵本に変わり、名前も書けないと言うから学習ドリルを買いに本屋に通う。自分の名前と私の名前を教えこめば、無垢は勉強が好きな子供になり、同年代の子供と比べて遅れていた勉強も進んでやるようになる。中学に上がる前には学年で一番の成績を取るようになっていた。

 無垢は私にとって初めての生徒だ。
 あの子がいるから、私はいまこうして教師をやっているのだと思う。過去と現在、いつでも私のそばには無垢の存在が。

 ***

「ただいま」

 プリンを買って帰宅したのは午後八時前。
 無垢の部屋の前に置いていたトレイの上には食べ終わった皿が残されている。置いて行った冷めたチャーハンもまずくはないだろうが、出来立てを一緒に食べるのだって美味しいのに。

「無垢、起きているか。出ておいで、そろそろ顔を見せてくれてもいいだろう? 別に無理して学校に行けとは言わないから。帰りにプリン買って来たんだよ、夕食前だが一緒に食べよう」

 無言が続いた。やはりプリン程度では釣られないか……。
 あきらめてドアをノックする手を止めて、リビングに戻ろうとしたその時だった。静かにドアが開いて、赤い眼をした無垢が出てくる。

「その、……プリン食べるか?」
「……」

 無垢は何も言わないものの伸ばした手で、私の服をつかみうなずいた。私はその髪を撫でて、二人でリビングへ。テーブルに置いたプリンを二人で食べて、しかし沈黙は続く。何を話せば良いのか……いざ向き合うとなると思ったように言葉が出てこない。その時無垢のくちびるが震えた。

「……あのさ、砂和さん」
「無垢?」
「このプリン、昔母親が家を出て行くときに決まって置いていったんだよ。俺が後を追わないように」
「え……」

 それは向島の母じゃない。母はそんなことはしなかった、いつもちゃんと出かける時は言葉で言い聞かせて……無垢が言っているのは、もしや。

「小鳥遊のお母さんのことか」
「お母さんなんてもんじゃねえよ、あんなやつ」

 もう覚えていないと思っていた、無垢の幼い頃のことなど……。
 育児放棄された思い出なんて無くしてしまって良い、それは無垢にとって傷にしかならないことだから。

「父親はやたらと暴力を振るうやつで、気まぐれでおもちゃを買って帰って来たこともあったけど、俺が嫌がって遊ばないと殴って来た。あいつもそのうち帰ってこなくなって……俺は一人、暗い部屋で朝が来るのだけを待って」

 幼い無垢はどんな気持ちで朝を待ち続けたのだろうか、音もない暗い部屋で一人きりの子供は泣くことでしか感情を表現出来なくて。しかし幼い無垢が泣くことをあきらめなかったのが唯一の救いだった。泣き声すらあげなくなってしまったら誰からもその存在を気づいてもらえなかった、それはすなわち……。

「朝は来たよ、無垢」
「砂和さん……?」
「向島の両親もいなくなってしまったけれど、私はお前から離れることはないから。今度は泣かないで、ただ助けてって言いなさい。そうしたらいつだって助けに来るよ」
「そんな……変な嘘つくなよ」
「嘘じゃない、無垢。だから私はお前の幼い頃に私の名前の書き方を教えたんだ。むこうじまさわ、今でも書けるだろう? いつでも、何かあったら私を呼べるように」
「そんなこと言ったって砂和さんだって、いつか家族を持つこともあるじゃん……俺、その邪魔は出来ない」
「私にとって無垢は大切な家族だ。今も、この先もずっと」
「……馬鹿じゃねえの、もう、格好つけるなよ……」

 それから先、無垢の声は嗚咽まじりでもう言葉にはならない。私は幼い無垢にしたようにそっと正面から抱きしめた。多少の反抗は、すぐに大人しくなり黙って私を受け入れる。無垢の頬から涙が伝って静かに私のワイシャツに染みていった。

 ***

 明かりをつけっぱなしの部屋でようやく無垢は安心して眠ったようだった。ひねった足の腫れはだいぶ落ち着いていたし、多分そろそろ痛みも抜けるだろう。
 それよりも私は無垢のその心の中が心配だった。今まで無垢からほとんど聞くことはなかったその過去が。
 その断面しか知らない私がどこまで理解してやれるのだろうか……。
 だけど、朝は必ずやって来る。

 そっと撫でた無垢のその頬の温かさは幼い頃と変わらない。どうかこの子が再び立ち上がって生きてくれますように。差し伸べた手を握り返してくれたら、私はその手を離すことはない。いつまでだって、そばにいるよ。

 しかしふとカーテンを開けても夜は未だ暗く、私と無垢の心の闇はまだ晴れてはいない。
 けれど、どうか生きなければ……私も、無垢もこの世の不幸せしか見ないままでは生まれて来た喜びもわからないじゃないか。

 無垢の頬をもう一回撫でる。とっくに治ったはずである私の左手首の傷が、いまほんの少し痛んだ気がした。
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