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07(終)
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肺炎を起こした新島陽(にいじまはる)はその日集中治療室に移動することになった。薬師寺優巳(やくしじまさみ)と陽の母がほんの少しだけ見た陽の顔はさらにやつれ瘦せこけてあまりに変わってしまっていた。肺炎がかなり酷くなっていると言い、すでに意識はないと言う。二人は言葉もないまま休憩室でしばらく沈黙の時間を過ごしていた。
「……私は、どうすればよかったの?」
陽の母がぽつりとつぶやいた。優巳が初めて聞くいつも強気だった彼女のかすれた弱気な声だった。
「陽はずっと寂しかったんだと思います。いつも本当のことを、本当の気持ちを言えないで。元気な顔して心で泣いてた。あいつ無理ばっかりしていたから……」
「私が今の夫と再婚したのも連れ子がいても良いっていうからだったのよ。最初の夫と別れた時だって絶対に陽は渡さなかった。私はあの子がいらなかったわけじゃない……!」
心が通じていなかった。母は陽の本当の気持ちを知らず、陽もまた母の根底にある感情を知らなかった。決して心の底から憎んでいたわけじゃないと、それさえ知っていたら誰もこじれはしなかっただろう。優巳もまた本当の陽を知らなかった。
「俺、陽に言ってやりたいことがあるんです。もう無理しないで良いって、弱くてもそのままの陽でも俺にとっては必要な存在だって」
だから、起きろよ、陽。その気持ちは果たして今後陽に届くことはあるのだろうか。優巳はうつむき、陽の母は言葉にならない涙を流す。それから三日、陽は生死の境を彷徨った。
四日目の朝、奇跡的に熱が下がってきて肺の状態も少し良くなってきたと知らせがあった。そしてほんの少しだけ意識が戻ったと言う。優巳は祈り続ける、このまま陽がこの手に戻ってくることを。それからは毎日病院に通い続け一日中会えない陽のそばにいる。集中治療室の見える部屋からそのなかで懸命に生きようとしている陽をそばでじっと感じていた。
そして夏の盛り、陽が集中治療室から一般病棟に戻って来たのはそれから二週間の後のことだった。
***
陽の母からその知らせを聞いた優巳は部屋着のまま着替えもせずに家を飛び出した。真夏の日差しを受けながら力いっぱい病院に向かって走る。汗だくになりながらエレベーターに乗り、到着した病室では優巳の勢いに驚いた顔をした陽がじっとこちらを見ていた。
「陽!」
帰ってきた陽、優巳は駆け寄りその手を握る。痩せて節の目立つ骨ばった手は小さく震え、遠慮がちに優巳の手を握り返した。
「元気になったか? 調子はどうだ?」
「……あ……、う……」
「陽? どうした」
「……う、うう……」
「陽……?」
陽は精いっぱいに何かを伝えようとしている。しかし声が、出ない。
***
「心因的なものですね」
医者が言うには陽の身体は弱ってはいるが話せないほどの状態ではない。集中治療室にいたときもうっすらと話すことは出来ていたと。それが今になって突然声が出なくなってしまった。こちらの言葉は聞こえている、しかし陽の母と優巳を前にして伝えたいことが伝えられない。
「こ、声はもう戻らないんですか?」
「そうですね、例えば何かきっかけがあれば……しかしこれは無理をして戻るものではないので。わからない、としか言いようがありません」
優巳は絶句する。戻ってきたはずの陽は感情を伝える手段を失ってしまった。医者の話を聞いてどうしたらいいのかわからない。病室で不安げな顔で天井を眺めている陽のもとへやって来た優巳は、そっとその頬を撫でる。
「陽……」
「……」
「大丈夫だ、すぐ治るよ。声なんかでなくたって、お前は生きて戻って来たんだから」
そんな言葉を今にも泣きそうな顔で優巳が言うものだから、陽も戸惑いながら儚げに弱々しく笑いうなずく。しかしその後の言葉が続かなくて黙って優巳は陽の頬を撫で続けた。声すら失ってしまった陽に、自分は何が出来る? 陽は自分の些細な感情を伝えることすら、もう疲れてしまったと言うのか……。
肺炎をこじらせて体力を失った陽はもう一人では起き上がることも難しくなってしまっていた。電動ベッドを起こしてその姿勢でじっと窓の外を見ている。夏の空が見える、しかし開かない窓からは蝉の声すら聞こえない。ああ、外はもう夏だと言うのに……この病室には未だ夏が訪れていないのと同じだった。
二人で過ごしていると陽の母がやって来た。その姿を見て陽は思わず身体を強張らせる。陽の母もそんな陽を理解していて、言い訳すらせず黙って花瓶の花の水を変えて病室から出て行った。
「陽、お母さん仕事休んでるんだよ。お前のために」
「……」
「別にもう怒ってないよ。大丈夫、お前を傷つけることはもうしないって」
どこまでその母の感情を理解したのだろうか。陽はうつむいて悲しげな表情をしている。優巳もこれ以上なんと伝えたら良いのかわからずに、黙ってそばにいることしか出来なかった。
「……陽? なんだ」
そうして優巳がしばらく黙っていた時のことだった。陽が優巳の手を取り、力ない震える指で手のひらに文字を書く。ゆっくり一文字ずつ。お、く……。
「屋上、か?」
陽はうなずいた。そしてベッド脇に置きっぱなしの車椅子と優巳を交互に見る。
「もしかして、屋上に連れて行って欲しいのか?」
意思が通じた陽は嬉しそうに笑う。そして小さくうなずいた、屋上に行きたいのだ。
しかしさすがに寝たきりの病人を勝手に車椅子に乗せて出歩かせていいのだろうか。看護師に言ったら怒られるかもしれない。しかし他でもない陽が願っていること。優巳は決心して廊下に看護師がいないのを確認して陽を車椅子に乗せて屋上に向かうエレベーターホールに向かう。
***
「わ、屋上って庭園になってるのか……!」
病院の小さな屋上には樹が生え、夏の花がぎっしりと植えられた花壇が作られている。患者は皆、散歩代わりにそこを歩き花を愛で穏やかな顔で些細な屋上庭園を楽しんでいた。
日差しが強かったので二人は大きな樹の下にやって来た。木陰では涼しい風が吹き、蝉の声が聞こえる。ビルの屋上とは言えここには確かに夏がやって来ていた。
「気持ち良いなあ、陽。聞こえるか? 蝉鳴いてるぞ」
車椅子の陽はにこやかにうなずく。陽もまた小さな夏を精いっぱい楽しんでいる。
「……今年の夏はもう海は無理かな、でも来年は絶対行こうぜ。大丈夫、俺がお前に泳ぎを教えてやるよ、息継ぎが出来るようになったらどこまでだって泳げるんだからな」
そしてここからは見えない海を思い浮かべる。陽と迎える夏の風景、海に行ってめいっぱい泳いで疲れたら、海の家で休憩しながら一緒にかき氷を食べる。まるで中学生の夏休みのような、そんな当たり前の風景を来年は二人で感じたい。海に行こう、一緒に。優巳はしゃがんで陽と視線を合わせながら見えない海を見るように、都会のビル群のほうを向き病院から見える真夏の風景を一緒に見ていた。
やがて陽が少し疲れてきたようだったので病室に戻ることにする。少し名残惜しそうな陽に、また連れて来てやるよ、と優巳は笑って車椅子を押しながらエレベーターホールに向かった。
一方その頃病室では車椅子ごと消えてしまった陽を看護師たちが探して、ちょっとした騒ぎになってしまっていた。そこへ戻って来た陽と優巳を見つけた看護師がその場できつく𠮟りつける。優巳は焦って深く何度も頭を下げて、陽も申し訳なさそうな表情を浮かべている。でも二人で感じた夏は誰にも秘密の宝物だった。
それからしばらく、陽は疲れて眠ってしまった。優巳はげっそりとやつれてしまった陽の頬をなぞる。陽のこの身体はいつになったら回復するのだろう、こんなに痩せて陽は本当に大丈夫なのだろうか。いつかまた元通り一緒に学校に行くことは叶うのだろうか……そんな優巳の不安を感じたのか陽は静かに目を開ける。優巳の目をじっと見て、何か言いたげに、しかしそのまままた再び目を閉じた。
それから数時間ほどたち、うっすらと空が暮れ始め病院では夕食の時間になったようだ。各部屋からは食事の匂いがして陽の食事も運ばれてきた。薄いお粥と栄養剤。陽は露骨に嫌そうな顔をする。
「陽くん、食事にしましょうね」
介助の看護師がそう言って笑う。陽は暗い顔をしてため息をついた。
「陽ー、そんな嫌そうな顔するなよ。飯食わないと元気でないぞ。じゃあ、俺はそろそろ帰るからな」
帰る、その言葉で陽は悲しげな顔を優巳に向ける。不安そうに、まるでもう会えないみたいな。そんな陽の無念を吹き飛ばすように優巳は笑った。
「そんな顔するなよ、また明日も来るって!」
「……」
「本当だよ、絶対来るから。あ、変なこと気にするなよ、俺はお前に会いたいから望んで勝手に来てるんだからな」
部活にはもうしばらく行っていなかった。行ってない間に試合もとっくに終わってしまった、練習に参加していない優巳の出番はしばらくもうないだろう。でも、今は陽と一緒にいたい。その感情は嘘ではなかった。
ベッドを起こされた陽は食事の準備をしながら弱々しく手を振った。また明日、そう言っているかのように。優巳も大きく手を振り返す。また明日、絶対に来るから。
その晩、優巳は夢を見た。以前のように元気になった陽があの笑顔で笑っている。ちょっと遠慮がちに相手を気遣う陽のいつもの笑顔だ。笑ってないで本当に言いたいことがあるなら口で言えばいいのに。しかし陽は何も言わずただ優巳に向かって黙って笑っているだけだった。
「なんであんな夢なんか……」
翌朝、優巳はぼんやりとしながら夢を反芻しつつ出かける準備をしていた。面会時間の始まり、病院に行く途中で近所の花屋に寄ってまた花束をお願いする。花の名前は知らないが、夏らしい鮮やかな花束を作ってもらった。この花を病室に飾れば陽も屋上に行かなくとも部屋から夏を感じることが出来るだろう。
「陽! おはよう、きたぞー」
陽はベッドに横になったまま動かない。もう十時も過ぎたと言うのにまだ眠っているのだろうか。また陽のことだから色々考えて眠れない夜を過ごしてしまったのかもしれない。話を聞いてやることは出来ないが一緒にいてやることは出来る。優巳は枕元に寄り声をかける。
「陽、起きろってば。朝だぞ」
その時陽の前髪をふわりと廊下から流れた一陣の風が揺らした。長いまつ毛から一筋の涙が流れる。
「陽……?」
布団の上に乗せられていた腕が力なくだらりと落ちる。繋がれていた点滴がガタガタと揺れた。優巳はふと不安な感情を抱いてそっと陽の頬に触れる。片手に持っていた花束が床に音を立てて落ちた。一枚の華やかな黄色の花びらが香りとともに辺りに散る。
「つめた、い……?」
夏だと言うのに、ひんやりとした陽の頬からは全く体温を感じなかった。
「はる……陽! うそだろ、起きろよ……おい!」
病室が騒がしくなったのはそれからすぐのこと。夏の終わりにはまだ早い、そんな朝の出来事だった。来年の海に行く約束は、たぶんきっと、果たせない。
(おわり)
「……私は、どうすればよかったの?」
陽の母がぽつりとつぶやいた。優巳が初めて聞くいつも強気だった彼女のかすれた弱気な声だった。
「陽はずっと寂しかったんだと思います。いつも本当のことを、本当の気持ちを言えないで。元気な顔して心で泣いてた。あいつ無理ばっかりしていたから……」
「私が今の夫と再婚したのも連れ子がいても良いっていうからだったのよ。最初の夫と別れた時だって絶対に陽は渡さなかった。私はあの子がいらなかったわけじゃない……!」
心が通じていなかった。母は陽の本当の気持ちを知らず、陽もまた母の根底にある感情を知らなかった。決して心の底から憎んでいたわけじゃないと、それさえ知っていたら誰もこじれはしなかっただろう。優巳もまた本当の陽を知らなかった。
「俺、陽に言ってやりたいことがあるんです。もう無理しないで良いって、弱くてもそのままの陽でも俺にとっては必要な存在だって」
だから、起きろよ、陽。その気持ちは果たして今後陽に届くことはあるのだろうか。優巳はうつむき、陽の母は言葉にならない涙を流す。それから三日、陽は生死の境を彷徨った。
四日目の朝、奇跡的に熱が下がってきて肺の状態も少し良くなってきたと知らせがあった。そしてほんの少しだけ意識が戻ったと言う。優巳は祈り続ける、このまま陽がこの手に戻ってくることを。それからは毎日病院に通い続け一日中会えない陽のそばにいる。集中治療室の見える部屋からそのなかで懸命に生きようとしている陽をそばでじっと感じていた。
そして夏の盛り、陽が集中治療室から一般病棟に戻って来たのはそれから二週間の後のことだった。
***
陽の母からその知らせを聞いた優巳は部屋着のまま着替えもせずに家を飛び出した。真夏の日差しを受けながら力いっぱい病院に向かって走る。汗だくになりながらエレベーターに乗り、到着した病室では優巳の勢いに驚いた顔をした陽がじっとこちらを見ていた。
「陽!」
帰ってきた陽、優巳は駆け寄りその手を握る。痩せて節の目立つ骨ばった手は小さく震え、遠慮がちに優巳の手を握り返した。
「元気になったか? 調子はどうだ?」
「……あ……、う……」
「陽? どうした」
「……う、うう……」
「陽……?」
陽は精いっぱいに何かを伝えようとしている。しかし声が、出ない。
***
「心因的なものですね」
医者が言うには陽の身体は弱ってはいるが話せないほどの状態ではない。集中治療室にいたときもうっすらと話すことは出来ていたと。それが今になって突然声が出なくなってしまった。こちらの言葉は聞こえている、しかし陽の母と優巳を前にして伝えたいことが伝えられない。
「こ、声はもう戻らないんですか?」
「そうですね、例えば何かきっかけがあれば……しかしこれは無理をして戻るものではないので。わからない、としか言いようがありません」
優巳は絶句する。戻ってきたはずの陽は感情を伝える手段を失ってしまった。医者の話を聞いてどうしたらいいのかわからない。病室で不安げな顔で天井を眺めている陽のもとへやって来た優巳は、そっとその頬を撫でる。
「陽……」
「……」
「大丈夫だ、すぐ治るよ。声なんかでなくたって、お前は生きて戻って来たんだから」
そんな言葉を今にも泣きそうな顔で優巳が言うものだから、陽も戸惑いながら儚げに弱々しく笑いうなずく。しかしその後の言葉が続かなくて黙って優巳は陽の頬を撫で続けた。声すら失ってしまった陽に、自分は何が出来る? 陽は自分の些細な感情を伝えることすら、もう疲れてしまったと言うのか……。
肺炎をこじらせて体力を失った陽はもう一人では起き上がることも難しくなってしまっていた。電動ベッドを起こしてその姿勢でじっと窓の外を見ている。夏の空が見える、しかし開かない窓からは蝉の声すら聞こえない。ああ、外はもう夏だと言うのに……この病室には未だ夏が訪れていないのと同じだった。
二人で過ごしていると陽の母がやって来た。その姿を見て陽は思わず身体を強張らせる。陽の母もそんな陽を理解していて、言い訳すらせず黙って花瓶の花の水を変えて病室から出て行った。
「陽、お母さん仕事休んでるんだよ。お前のために」
「……」
「別にもう怒ってないよ。大丈夫、お前を傷つけることはもうしないって」
どこまでその母の感情を理解したのだろうか。陽はうつむいて悲しげな表情をしている。優巳もこれ以上なんと伝えたら良いのかわからずに、黙ってそばにいることしか出来なかった。
「……陽? なんだ」
そうして優巳がしばらく黙っていた時のことだった。陽が優巳の手を取り、力ない震える指で手のひらに文字を書く。ゆっくり一文字ずつ。お、く……。
「屋上、か?」
陽はうなずいた。そしてベッド脇に置きっぱなしの車椅子と優巳を交互に見る。
「もしかして、屋上に連れて行って欲しいのか?」
意思が通じた陽は嬉しそうに笑う。そして小さくうなずいた、屋上に行きたいのだ。
しかしさすがに寝たきりの病人を勝手に車椅子に乗せて出歩かせていいのだろうか。看護師に言ったら怒られるかもしれない。しかし他でもない陽が願っていること。優巳は決心して廊下に看護師がいないのを確認して陽を車椅子に乗せて屋上に向かうエレベーターホールに向かう。
***
「わ、屋上って庭園になってるのか……!」
病院の小さな屋上には樹が生え、夏の花がぎっしりと植えられた花壇が作られている。患者は皆、散歩代わりにそこを歩き花を愛で穏やかな顔で些細な屋上庭園を楽しんでいた。
日差しが強かったので二人は大きな樹の下にやって来た。木陰では涼しい風が吹き、蝉の声が聞こえる。ビルの屋上とは言えここには確かに夏がやって来ていた。
「気持ち良いなあ、陽。聞こえるか? 蝉鳴いてるぞ」
車椅子の陽はにこやかにうなずく。陽もまた小さな夏を精いっぱい楽しんでいる。
「……今年の夏はもう海は無理かな、でも来年は絶対行こうぜ。大丈夫、俺がお前に泳ぎを教えてやるよ、息継ぎが出来るようになったらどこまでだって泳げるんだからな」
そしてここからは見えない海を思い浮かべる。陽と迎える夏の風景、海に行ってめいっぱい泳いで疲れたら、海の家で休憩しながら一緒にかき氷を食べる。まるで中学生の夏休みのような、そんな当たり前の風景を来年は二人で感じたい。海に行こう、一緒に。優巳はしゃがんで陽と視線を合わせながら見えない海を見るように、都会のビル群のほうを向き病院から見える真夏の風景を一緒に見ていた。
やがて陽が少し疲れてきたようだったので病室に戻ることにする。少し名残惜しそうな陽に、また連れて来てやるよ、と優巳は笑って車椅子を押しながらエレベーターホールに向かった。
一方その頃病室では車椅子ごと消えてしまった陽を看護師たちが探して、ちょっとした騒ぎになってしまっていた。そこへ戻って来た陽と優巳を見つけた看護師がその場できつく𠮟りつける。優巳は焦って深く何度も頭を下げて、陽も申し訳なさそうな表情を浮かべている。でも二人で感じた夏は誰にも秘密の宝物だった。
それからしばらく、陽は疲れて眠ってしまった。優巳はげっそりとやつれてしまった陽の頬をなぞる。陽のこの身体はいつになったら回復するのだろう、こんなに痩せて陽は本当に大丈夫なのだろうか。いつかまた元通り一緒に学校に行くことは叶うのだろうか……そんな優巳の不安を感じたのか陽は静かに目を開ける。優巳の目をじっと見て、何か言いたげに、しかしそのまままた再び目を閉じた。
それから数時間ほどたち、うっすらと空が暮れ始め病院では夕食の時間になったようだ。各部屋からは食事の匂いがして陽の食事も運ばれてきた。薄いお粥と栄養剤。陽は露骨に嫌そうな顔をする。
「陽くん、食事にしましょうね」
介助の看護師がそう言って笑う。陽は暗い顔をしてため息をついた。
「陽ー、そんな嫌そうな顔するなよ。飯食わないと元気でないぞ。じゃあ、俺はそろそろ帰るからな」
帰る、その言葉で陽は悲しげな顔を優巳に向ける。不安そうに、まるでもう会えないみたいな。そんな陽の無念を吹き飛ばすように優巳は笑った。
「そんな顔するなよ、また明日も来るって!」
「……」
「本当だよ、絶対来るから。あ、変なこと気にするなよ、俺はお前に会いたいから望んで勝手に来てるんだからな」
部活にはもうしばらく行っていなかった。行ってない間に試合もとっくに終わってしまった、練習に参加していない優巳の出番はしばらくもうないだろう。でも、今は陽と一緒にいたい。その感情は嘘ではなかった。
ベッドを起こされた陽は食事の準備をしながら弱々しく手を振った。また明日、そう言っているかのように。優巳も大きく手を振り返す。また明日、絶対に来るから。
その晩、優巳は夢を見た。以前のように元気になった陽があの笑顔で笑っている。ちょっと遠慮がちに相手を気遣う陽のいつもの笑顔だ。笑ってないで本当に言いたいことがあるなら口で言えばいいのに。しかし陽は何も言わずただ優巳に向かって黙って笑っているだけだった。
「なんであんな夢なんか……」
翌朝、優巳はぼんやりとしながら夢を反芻しつつ出かける準備をしていた。面会時間の始まり、病院に行く途中で近所の花屋に寄ってまた花束をお願いする。花の名前は知らないが、夏らしい鮮やかな花束を作ってもらった。この花を病室に飾れば陽も屋上に行かなくとも部屋から夏を感じることが出来るだろう。
「陽! おはよう、きたぞー」
陽はベッドに横になったまま動かない。もう十時も過ぎたと言うのにまだ眠っているのだろうか。また陽のことだから色々考えて眠れない夜を過ごしてしまったのかもしれない。話を聞いてやることは出来ないが一緒にいてやることは出来る。優巳は枕元に寄り声をかける。
「陽、起きろってば。朝だぞ」
その時陽の前髪をふわりと廊下から流れた一陣の風が揺らした。長いまつ毛から一筋の涙が流れる。
「陽……?」
布団の上に乗せられていた腕が力なくだらりと落ちる。繋がれていた点滴がガタガタと揺れた。優巳はふと不安な感情を抱いてそっと陽の頬に触れる。片手に持っていた花束が床に音を立てて落ちた。一枚の華やかな黄色の花びらが香りとともに辺りに散る。
「つめた、い……?」
夏だと言うのに、ひんやりとした陽の頬からは全く体温を感じなかった。
「はる……陽! うそだろ、起きろよ……おい!」
病室が騒がしくなったのはそれからすぐのこと。夏の終わりにはまだ早い、そんな朝の出来事だった。来年の海に行く約束は、たぶんきっと、果たせない。
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お読みいただきありがとうございます!!!
伝えきれなかったもの残るもの、そんなテーマも含ませたかったりした作品です。
救われなかったところはいっぱいありますが、たったひとつでも救われた思いがあればそれを残してこれからも生き続ける人はいるんじゃないかと。
至らないところが多かった物語ではありますが、感想いただけて嬉しいです。