ある少年の体調不良について

雨水林檎

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 薬師寺優巳(やくしじまさみ)が新島陽(にいじまはる)入院の一報を聞いたのは月曜日の朝だった。養護教諭西谷早馬(にしやそうま)の言葉にすぐに面会に行きたい気持ちをこらえて、放課後部活を休んで病院に向かった。
 病室には陽の母がいた。気まずい感情を抱えながら一礼する、状況が状況だけに陽の母は笑いもしなかった。そしてそのままスマホを持って休憩室に行ってしまう。

「陽……」

 陽は眠っていた。その身体には管がいくつも繋がれて一人では動くことも難しそうだった。病院に運ばれたときに抵抗したらしく今は薬で眠っている。面会も短時間で頼むと言われて優巳はそっと陽の手に触れるだけだった。温かい陽の手、しかし繋がれた管のせいでまるで触れてはいけないようなものの様に見えた。痩せた手のひらを握り締めてその日はそのまま優巳は帰宅することにする。

「まったく、面倒なことになって……」

 休憩室から戻ってきた陽の母がそんなことを呟いた。思わず陽の苦しみの一端を怒鳴り散らしてやろうかと思ったが、言葉の割に陽の母には表情がなく、今の状況にひたすら戸惑っているようでもあった。優巳は何も言わずにそのまま病院を後にする。
 早朝の公園で倒れていたらしい。陽は優巳と別れた後たった一人孤独な夜を送ったのか。連絡くらいくれたらそばに行ったのに、優巳は何の通知も来ていないスマホに普段からの自身の連絡無精を呪う。陽はもしかしたら遠慮したのかもしれない、と。

「陽くんには会えた?」

 翌朝、西谷が教室までやって来た。廊下で二人は話をする。

「会いに行ったんですけど眠っていて」
「俺が行った時も眠ったままだった。栄養失調が酷かったみたいでね、あと少し遅かったどうなっていたかわからなかったって。陽くん全然食べてなかったもんね」
「陽は大丈夫なんですか?」
「一応病院にいるから、でも心のほうはどうかな……きっと絶望するようなことがあったんだと思う。たった一人一晩中雨に打たれて一体何を考えていたんだろう」
「……俺が、もっと連絡してやればよかった。話を聞いてやればよかったんです」
「優巳くんの存在には陽くんもきっと救われていたよ。また、会いに行ってあげてね」

 その日の放課後、面会に行ったときには陽の母はおらず、そのかわり目を覚ました陽が一人病室で横になっていた。優巳を見てそっと手を振る。

「陽、目が覚めたんだな」
「もう、起きたら病院にいてびっくりしちゃった。帰りたいって言ったのに許してくれなくって、しまいには僕の身体の中に無理やり管を入れて強制的に栄養を入れる相談までしてたんだよ」
「え……そ、それって大丈夫なのかよ」
「もちろん僕は絶対に嫌だって言ったよ。怖いし、そんな人形みたいな……そうしたらこれ、点滴とこの栄養剤が飲めるのなら管は入れないって」

 そう言って陽は缶のドリンクのようなものを見せた。バニラ味、と書いてある。

「身体のためになるんなら飲んだほうが良いんじゃないのか?」
「そうなんだけど……甘くて気持ち悪くなる。もう困ってるんだ」

 そう言って陽は眉を寄せて笑った。よかった、状況的には決して良いものではないが、それはいつもの陽の笑顔だった。

「お母さん、来てないのか?」
「今日は来てない。ずっと来ないと思うよ、忙しい人だし」
「昨日は来てたぞ、一日中いたみたいだ」
「え……そうなの? いつも仕事仕事って僕のことなんか後回しで」
「さすがに心配したんだよ、俺だってびっくりしたんだからな」

 寝たきりの陽には病衣すらも大きく見えた。筋張った細い腕にはしっかりと点滴が繋がれている。倒れたら危ないからと一人でトイレに行くことも出来ないと嘆いていた。

「学校はどう? 宿題とかある?」
「もうすぐ夏休みだしほとんど勉強もしていないよ。お前はそんなこと考えないで身体を治すことだけを考えろよな。勉強なんか後で俺が教えてやるよ」
「うん、頼りにしてる」

 もう少し陽のそばにいたいところだったが看護師ににらまれてしまった。優巳はしぶしぶ帰る準備をする。

「ねえ、優巳。また来る? 僕、寂しくって……」
「来るよ、明日絶対また会いに来る。夜は眠れているか?」
「色々考えちゃって眠れないって言ったら薬を出してくれた。だから、大丈夫だよ。家にいるときよりずっとゆっくりしてる」
「そっか、今夜もゆっくり寝ろよな。じゃあ、また」
「うん、またね、優巳……」

 今日も短い面会時間だった。それでも陽と話せてよかった。身体はあまり良い状態ではないようだが話した感じではいつもの陽だった。しかしその心の奥はわからない。休みっぱなしの部活も気になってはいたが今はそんなことより陽が大事だ。明日も来ようと心に決めて優巳は再び病院を後にした。

 ***

 夏休みになった。陽が入院してもう一週間、相変わらず食事はほとんど食べられないようで点滴と甘い栄養剤に格闘しているらしい。未だ一人での行動は出来ず、検査などで外に行くときは車椅子に乗せられていると言っていた。この分では退院なんてまだまだ先の話になりそうだ。
 その日、優巳は花束を持ってやって来た。陽の病室があまりに殺風景だから病院近くの花屋で相談していくつか花を選んでもらったものだ。ベッド周りが華やかになれば陽ももっと元気が出るかもしれない。歩けるようになればきっと退院はもうすぐだ。
 しかし優巳が陽の病室のそばに来た時、誰かの泣き叫ぶ声が聞こえて来た。それと同時に女性の怒鳴りつける声も。廊下を看護師が急いで駆けまわっていてちょっとした騒ぎになっている。それは陽の病室からだった。

「お母さん! お願いですからこれ以上陽くんを刺激しないで……!」
「だって、この子が甘えているからずっと退院できないんでしょう? さっさと退院しなさいよ! どうせ大したことないんだから」

 陽の母の声だ。看護師に羽交い絞めにされながら陽に対して怒鳴っている。陽は半ばパニックになって声をあげて泣いていた。

「陽……!」

 慌てて優巳は陽のもとに駆け寄る。陽は優巳にすがりついて泣いた。

「陽は別に甘えてなんかいません!」
「なによ、他人が口出ししないでよ!」

 陽のこの痩せ細った身体を見てもまだわからないのか。陽の母はそれからも陽に酷い言葉を投げつけて看護師に無理やり病室の外に連れ出されていった。陽は怯え、優巳の胸元で泣いている。

「何があったんですか……?」

 そばにいる看護師に聞けばなんでもやって来た陽の母がさっさと陽を退院させるよう言って聞かなかったのだと言う。元気なのにいつまでも病院なんかにいる必要はないと、陽はただ甘えて何も食べないだけなのだからと。

「陽……」
「まさ、優巳……僕、別に甘えているわけじゃ……」
「わかる、わかってるよ陽」
「……ま……まさみ……ッ、きもちわるい……!」

 次の瞬間陽は堪えきれず病衣に嘔吐してしまった。慌てた看護師が袋を準備するが遅く、布団にまで吐瀉物が広がってしまっている。全て陽が身体のために頑張って吸収しようとしたものだった。

「ぇ……ッ! ゲホッゴホゴホッ、ハァッハァッ……う、うう……」
「陽、落ち着け、大丈夫だから」
「……ゴホ……ッ、も、もう、こんなもの……いらない……!」

 そう言って陽は点滴を無理に引き抜きそのままベッドから降りようとした。しかし身体はふらついてうまく歩くことが出来ずそのまま床に音を立てて倒れこむ。

「陽!」

 床には陽の腕から逆流した血がポタポタと広がり、陽は倒れたまま動けなくなっている。廊下ではまだ興奮したままの陽の母が怒鳴り声をあげていた。

 ***

 陽は再び興奮を抑えるために薬で眠らされた。出血した腕は治療され今度は違う場所から再び点滴につながれている。陽の頬には涙の痕が、どうして陽の母は陽を理解してはくれないのか。せっかくここしばらくの日々は穏やかに過ごせていたのに。
 その翌日も優巳は陽に会いに行ったが、陽はすっかり暗い表情になってしまい虚ろな目をして横になったままだった。栄養剤の缶も開けずに置きっぱなしになっている。枕元に飾られている優巳の持ってきた花束だけがこの薄暗い病室を彩っていた。

「陽……寝てるのか?」
「……」

 うっすらと目は開いていた。しかしその目は伏せられて悲し気に一筋の涙を流した。

「陽」
「ごめんなさい……」
「なんで俺に謝るんだよ」
「僕が全部悪い、甘えて、だから何も食べられなくて……」
「お母さんの言うことなんか気にするな、俺は全部わかってるよ。陽は頑張ってる、頑張ってるから」
「もう……あの家に帰りたくない……っ、こ、これも甘えてるのかな。僕が悪いのかな?」
「あんなひどいこと言われたら帰りたくなくて当たり前だよな。大丈夫だよ、病院はお前を無理に追い出したりしないから」

 陽の泣き声が小さく部屋中に響いていた。優巳の存在も忘れたように陽はただ泣いている。優巳はどうしたらいいかわからなくて、陽の手をギュッと握った。力ない手は小さく震えて夏の暑い日だというのにひどく冷たい。優巳は陽の心の限界を見ていた。そして自分にできることはないのかと、真剣に考える。今はそばにいることくらいしかできない、でもそばで陽を守ることは出来る。あの母から、外の世界から陽の心をただ守るのだ。それが自分にできること。しかし陽の心の傷は深かった。

「ゴホッ、ゲホンゲホンッ」
「大丈夫か、陽」

 翌日面会に行くと陽は熱を出していた。どうやら風邪をひいてしまったらしく、熱が高い。苦し気な呼吸を繰り返して、何度も寝返りを打つ。陽はその度に咳き込んでしまいその身体は酷く消耗していた。看護師は氷枕を陽の頭に当てがって、何度か検温にやって来た。しかし熱は下がらない。咳をするたびに繋がれた点滴が揺れ、その腕がますます細くなっているのを感じた。

「陽、大丈夫なんですか?」

 思わず聞いた優巳の質問に看護師は、熱が下がらないとね、と困った顔をする。こんな身体で熱を出して、大丈夫なはずはない。昼食の時間になったが、陽はろくに食事もとれず栄養剤も飲めずに終わりやって来た看護師に大量の薬を飲まされていた。そしてまた横になる。再び咳き込み始めたので優巳が背中をさすると、突然思い付いたかのようにそっと優巳を見る。

「ゲホッ……ね、優巳部活はどうしたの?」
「ああ、最近は行ってないな」
「どうして? もう直ぐ試合、あるんでしょう?」
「また今度頑張るよ、今はいい」
「行きなよ、部活」
「いいよ、俺はお前のそばにいたいんだ」

 その言葉に熱のある顔をした陽は考え込む。そして一言つぶやいた。

「もう……来なくていい、部活に行きなよ」
「陽……?」
「来なくていい、来てほしくない。病院なんか来てないで部活に行って」

 来てほしくない、なんでそんな……優巳は陽のことを一番に考えて毎日面会に来ていたのに。

「なんだよそれ、いきなり。俺がどんな気持ちで毎日病院に来てると思ってるんだよ……!」
「だから、もう来なくていいよ。もっと大事なこと、あるでしょう?」
「部活の方が大事だって? いつ俺がそんなこと言った?」
「僕のことは気にしないで、一人で平気だから」
「……くそ、わかったよ! もう来ない! 勝手にしろ」
「……ゴホッ、ゲホンゲホンッ、ゴフッ……」

 優巳はそのまま勢いでそう言って病室から出ていった。陽の言葉はただ優巳の心を思い遣っての言葉だった。でも、これでいいのだ。陽は何よりも部活が好きな優巳のことを知っていたから。
 病室からは外に聞こえるくらい酷く咳き込む声が響く。しかし優巳は振り返らなかった。

 ***

 それから一週間、優巳は病院には行かずに部活に集中した。評判の下がっていた部活内の立場も回復し、次の試合でもまた選手として出場することになった。しかし、それと同時にこれでいいのかという思いもある。陽を置き去りにして部活なんて、そんなことしている場合なのか。
 部活が休みの日、優巳は再び病院に面会に行くことにした。多少の気まずさはあるが、あれから陽がどうしているのかも気になったし、今度また試合に出ることになったと伝えようと。
 しかし、病室の前ではまたしても陽の母がいる。以前の様に酷い言葉を言いに来たのではと慌てて駆け寄ると陽の病室には面会謝絶の札が掛けてある。唖然とした優巳はチラリと陽の母を見る。

「……風邪をひいてからずっと熱が下がらなくてすでに肺炎を起こしてるって」
「え?」
「このまま熱が下がらないと危ないって連絡が」

 あの母が呆然として言葉が出なくなっていた。優巳の背中を冷たいものが走る。

「陽……!」

 優巳は今日まで会いに来なかった自分に後悔した。この一週間で陽の病状があまりに悪化してしまった。その事実も知らないで。
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