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じめじめとした暑い季節がやって来た。教室のエアコンは効きが悪く、皆暑さにぐったりとしている。そのなかでも特に新島陽(にいじまはる)は変わらず日々食欲のない体調の悪い生活を送っていた。親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)はそんな陽を心配し、せめて水分補給だけは怠らないようにと、休憩時間のたびにスポーツドリンクを持ち出してはこまめに陽に飲ませている。
「お前、そんな長袖のワイシャツを着て暑くないのか?」
「僕の席、エアコンの風が強く当たるんだ。長袖でちょうど良いよ」
本当は周りに自分の痩せすぎた身体を見せないためだった。そんな陽はもう暑さでこの頃は一日一食すらも食べるのが厳しい。無理に食べさせると吐いてしまう、けれどだからと言って毎日ろくに食べることなくますます痩せやつれていく陽を見ていると、優巳は不安で仕方がない。このままでは良くない、そんなことはわかっていた。
放課後、優巳は部活で陽は図書室で自習中。もうすぐ試験期間になる。部活が休みになる前から陽はすでに試験勉強に入っていた。進学校であるこの学校では優秀な生徒が多く陽は成績があまり良くないから、他人より多く勉強をしないと点数がとれない。なにかと厳しい母親の前で、悪い成績をとるわけにはいかなかった。
エアコンの効いた図書室で陽は一人大量の冷や汗をかきながら勉強をしている。蒼白な顔色は貧血がかなり酷くなっていることを表していた。一日の終わり、その疲労ですでに座って勉強しているだけでも眩暈がする。しかし、だからと言って勉強を辞めるわけにはいかない。図書室の窓から部活動中の優巳を見た。視界がかすむ。憧れの優巳が、なんだかもう、遠い。
「おまたせ陽、勉強終わったか?」
「おつかれ! うーん、続きは家でやるよ」
「疲れた顔してるな、あまり無理するなよ」
「あはは、大丈夫大丈夫」
陽はにこにこと元気の良い口ぶりで返すも、その表情に疲れは明確に出ていた。無理しているのなんて簡単にわかる。優巳はそれでもにこやかに元気を装う陽に溜息をついてその頭を撫でた。
「コンビニ、寄って行くか?」
「今日は……いいかも、特に食べたいものもないし」
しかし陽の家では陽の分の夕飯は用意されていない。今日だってほとんど何も食べていないのにまた明日まで何も食べないつもりか。優巳はコンビニだけではなくファーストフードなどどうにかして何か陽に食べさせようと試行錯誤したが結局どれも陽が嫌がるのでやめた。何をしても食べたがらないのはどうしようもない。
「せめて飲み物はちゃんと飲めよ。脱水とか色々心配なんだからな」
「うん、飲み物はあるから大丈夫だよ」
学校から十五分の陽の自宅マンションにはすぐ着いてしまう。陽が自宅で辛い思いをしていないか、理不尽に怒鳴られたりすることはないのだろうか。そんな心配ばかり思い浮かんでしまうが、それでも陽はいつも笑顔で、その表情が切ない。あまり心配されたくないと思っているのだろう。でも心配くらいさせろよ、親友なんだから。優巳は複雑な感情で、また明日と告げる。
「うん、またね。優巳おやすみ!」
「お前本当に無理するなよ、ゆっくり休めよ」
「もう、心配性だなあ優巳は」
「誰のせいだよ」
「ありがと優巳。僕、大丈夫だから」
「……おやすみ」
そして陽は自宅へのエレベータに向かって行く。頼りない背中だな、そんなことを思いながら陽の姿が見えなくなるまで見送って優巳も自宅に帰ることにした。
***
自宅のドアを開ける時が一番緊張する。母は機嫌悪くないだろうか、再婚してできた義兄の有樹と鉢合わせしないだろうか……そして陽が勇気を出してドアノブをひねるとリビングから有樹の怒鳴り声が聞こえる。なにがあった? 嫌なところに帰って来たかもしれない。そうしているうちに今度は勢いよくリビングのドアを有樹が開ける。どうやら義父と言いあいをしているみたいだ。
「有樹……お前はあまり夜出歩くんじゃない」
「うるせえな、前までは自由に出かけてたのに再婚してから急に父親ぶりやがって!」
「そんなこと言っても最近のお前は遊び歩きすぎだ」
「俺の勝手だろ? なんだよ、格好つけたいのかよ」
その時玄関の陽と目が合う。有樹は陽の胸ぐらをつかんだ、陽は恐怖のあまり固まってしまう。
「まったく、お前らが来てから俺の自由がなくなった! 俺はなあ、義理の母親も弟もいらないんだよ! ただ自由と金さえもらえれば良いわけ! だから家から遠い大学に行って一人暮らししたかったのに、いまさら家族団らんとか……馬鹿馬鹿しい!」
そして陽は玄関のドアに叩きつけられる。大きな鈍い音、強かに打ち付けた背中が痛い。有樹は陽をにらみつけて、お前が悪いんだ、もうさっさと出ていけよ、と言い放ってそのまま家を出て行った。陽はその勢いに驚き怯えて座り込んでしまう。開きっぱなしのリビングのドアの向こうでは母親が表情を固まらせてこちらを見ている。有樹の反抗に対する怒りの感情を我慢しているのだ。一応義理の息子にあたる有樹にはまだ強くは言えないと。
義父は座り込んだ陽に、有樹が悪いね、と軽く謝罪してそのまままたリビングに戻って行った。途端に母の抗議の怒鳴り声が聞こえる。義父はめんどくさそうに弁解をしているが……陽はすっかり暗い表情で、自室に向かう。そしてドアを閉めて座り込んだ。
「ハァ、ハァ……ッ、こわ、かった……」
有樹の勢いと、陽に向けられた悪意が。恐怖のあまり血の気が引き、そして急に酷い吐き気が陽を襲う。陽は這いつくばりながら必死でトイレに向かい、そのままドアを閉めて嘔吐した。
「ゲホッ! ゲェッ、……ぇッ、……ゴプッ! ウエッ、ウェ……ッ」
ビシャ、と水分が水面を叩いた。それに続きさらにバシャバシャと勢いよく吐き戻って来るのは学校で優巳がくれた今日の水分。このまま嘔吐してしまってはそのうち脱水症状を起こしてしまうだろう。しかし酷いショックを受けた心と身体はなにかをため込んでおくことが限界でそのまま吐き戻すのをやめない。
「ケホッゴホ! ハァ……ハァ……ッ」
苦しい、陽の身体がガクガクと震える。有樹が怖い、彼がいるからこんな家には帰って来たくなかった。お前が悪いのだ、その言葉に自分の居場所がないのを実感する。もう消えてしまいたい、自分がいなくなれば有樹はあんな風にイラついて激高することはないのだろう。
そもそもこの再婚もいきなりの話だった。両親の出会いのきっかけも良く知らない。あまり会うことも交流を深めることもなく出来た義理の父親と兄。ろくな交流をしてこなかったのでいまだに義父とはうまく話せないし、有樹には嫌われている。母はそんな思い通りにならない状況が気に入らないと、陽と二人の場所ではいつもイライラしていた。そして隙あらば陽にそのストレスをぶつけるのだ。
「もう、疲れた……」
食欲のない日々も居心地の悪い家も。心が酷く削られるばかりで陽の身体と精神は日々さらに疲弊して行く……。
シャワーを浴びてようやく落ち着いた陽は自室で勉強をしている。試験勉強に予習復習、することは山の様にある。図書室で自習するだけでは時間は足りず毎日深夜に及ぶまで勉強は続いていた。もう何日ろくに眠っていないのだろう。積み重なった日々の過労のあまり陽はまた吐き気を催していた。疲れ切ったあまり身体が辛くて自然と気持ちが悪くなりそのまま嘔吐してしまうのだ。あわててそばにあったコンビニの袋を取り陽は再び嘔吐する。もうこの身体はまるで吐き癖がついてしまったようだった。
「ウッ、ゲェッ……ケホッ、コホッ! ゲホゴホッ」
吐瀉物にむせこんで必死の速い呼吸で痩せた肩を上下させた。食べていないから吐いても吐いても水分ばかり。脱水気味なのかくちびるが渇いてかさついている。
しばらく嘔吐してやがて吐き終えた陽はギュッと袋の口を縛って、おぼつかない足取りでフラフラとベランダの生ごみ用のゴミ箱に吐瀉物の入った袋を捨てる。薄暗いベランダから見た空の景色はもうすぐ夜も明ける頃。ああ、もう朝になってしまう。朝になったらまた学校に行かなければ……重い脚を引きずりながら再び陽は自室に戻り束の間の睡眠をとる。もう数時間も眠れない、しかし疲労困憊の陽は気を失うようにそのまま朝まで目を覚まさなかった。
***
試験一週間前になった。今日からは部活も休みになり、授業も試験に関する重要な情報が出てくるなど休むわけにはいかない日々になって来た。さすがの優巳も勉強を始めた。陽も変わらず勉強に追われている。これまでの睡眠不足が祟ったのか昼休みになると陽は食事どころではなくぐったりと机に伏せて眠ってしまった。何度か優巳が起こそうと試みるが陽はぐっすりと寝てしまい起きる気配がない。陽が少しでも食べるようにと購買でおにぎりを買って来たのだがこのままでは食べずに昼休みが終わってしまいそうだった。
「陽、飯食えって……」
「……」
多少肩を叩いたくらいでは起きないほど陽は熟睡してしまっている。ひどい睡眠不足、授業中も真剣に受けてはいるがときたま力尽き眠ってしまいそうになっている。深夜まで根を詰めて勉強しすぎなのだ。今日は放課後図書室で一緒に勉強する約束をしていた。しかしもう帰らせたほうが良いのではないかと思うほど陽は疲れ果てている。
「陽、起きろ。次は体育だぞ」
「あ……う、うん、起きる……」
ようやく目を覚ました陽、しかし結局今日の昼も何も食べずに次の授業の準備をしていた。
午後の体育は陽は参加することを禁じられている。その体調不良で無理をすれば倒れかねないと、養護教諭西谷早馬の計らいからだった。見学だがジャージに着替えて陽は体育館の隅に腰かける。
今日の授業は優巳が得意のバスケットボール。準備運動の後、練習試合開始ほんの数分で陽は大量得点をして見せた。それを見ていた陽は精いっぱい拍手をする。そんな陽に手を振って、優巳はゴール目指して駆けて行った。文武両道の優巳の才能を見せつけるようなそんな試合内容だった。
「陽、見てたか? ……陽?」
授業終わり、汗をかいた優巳はタオルで拭いながら陽のもとへ。陽はうつむいて眠っているようだった。そっとその顔を覗き込んで優巳は息を飲む。まるで病人じみた悪すぎる顔色……あまりの体調不良で陽の身体はもう限界だった。慌てて陽を揺り起こす優巳。陽はゆっくりと目を開けて、おつかれさま、とその顔色のままで笑った。
「お前……大丈夫かよ……?」
「え、なにが? ああ、教室帰らないとね。着替えよう、優巳」
「あ、ああ……そう、だよな」
優巳は動揺を隠しきれない。だけど顔色の悪い陽が全く平気そうに笑うのでそのまま一緒に教室に帰ることにした。しかし途中の階段や廊下では陽が倒れてしまわないようにその身体を抱きかかえるようにして支える。陽も身体が辛いのか黙って優巳に体重を預けてくる。今日はもう図書室に寄るのはやめて授業が終わり次第帰ろう、そう優巳が決意して午後最後の授業を受けることにした。
最後の数学は体育の後にも関わらず、試験間際と言うことで今までのまとめを中心に試験に出る箇所なども復習したため、皆静かに受けていた。優巳も真剣に受ける、しかし授業に熱心になりすぎて隣の席の陽の異変に気付くことが出来なかった。
授業を聞いていた陽は突然耳鳴りが酷くなり、周りの音がよく聞こえなくなってしまった。そして背中を伝う冷や汗に吐き気、そこで、ああ、また貧血を起こしているんだと気が付いた。慌ててそのまま下を向き吐き気を逃そうと深呼吸する。その時手に突然力が入らなくなり筆記用具を落とした。そのまま身体の自由がきかなくなる。血の気が引いて全身が重く、そのまま目の前が暗くなり抵抗する間もなく陽の意識は途切れた。
けたたましい椅子の倒れる音で何事かと同級生が振り返る。そこには椅子ごと倒れた陽が無防備に受け身もとれず床に転がっていた。優巳は驚き立ち上がる、そして陽に駆け寄ってその名を呼ぶ。しかしいくら名を呼んでも陽は意識を取り戻さない。いつもなら多少の反応はあるのに。身動きもせずぐったりとして顔色は真っ青なうえにくちびるは真っ白。その身体は完全に血の気を失ってしまいまるでよく出来た人形のようだ。授業は急遽中断し、陽はそのまま急いで保健室に運ばれることになった。
「陽くん……陽くん! わかるかい?」
「先生……陽、返事しないんです。意識が戻らなくて」
「大丈夫、息はしてる。頭も打ってないんだよね? でも顔色悪すぎるし相当体調悪そうだ」
「ここ数日学校でもほとんど食事をとってなくて、多分家では何も……」
「飲みものだけで過ごしてたわけ?」
「睡眠不足も酷かったと思います。昼休みもずっと眠ってました、多分その時間くらいしか眠る時間がなかった。深夜までずっと起きて勉強して」
「かなり無理をしていた、と」
養護教諭西谷はしばらく黙って、そして決断した。優巳は陽の名を呼び続けている。
「優巳くん……陽くんには恨まれてしまうかもしれないけれど、もう保護者を呼ぼう。そして一刻も早く病院に。このままじゃ陽くんの身体が完全に壊れてしまう、もうすでにボロボロになってしまっているよ」
「……っ、はい」
***
陽の母がやって来たのは夕方になった頃だった。大きな足音がヒステリックに保健室に向かって来る。そしてスーツ姿の女性が勢いよく保健室のドアを開けた。
「どうも、新島陽の母ですけど息子がご迷惑をかけたようで」
「ああ、陽くんのお母さんですか。私は養護教諭の……」
「起きなさい! 陽!」
西谷が名乗る前に陽の母はカーテンを開けてベッドで眠っている陽を引きずり起こした。目を覚ました陽は突然の母の登場に驚き瞬きし、その目の色が途端に怯えたものに変わる。
「あんた、何したかわかってるの? お母さん大事な仕事の打ち合わせを断って帰って来たのよ! 何週間も前から準備していたのに、たくさんの人に迷惑かけて! これだから女は使えないとか、陰でそんな風に言われてどんな気持ちでこれから働いたらいいのよ!」
「あ……ご、ごめんなさ……」
「あの、新島さん、陽くん倒れたんです。だいぶ体調も悪いようなので出来るだけ早く病院に」
「病院? 知らないわよ、高校生なんだからそんなところくらい一人で行きなさい!」
「はい、ごめんなさい……っ、お母さん!」
「帰るわよ、さっさとしなさい!」
今にも泣きだしそうな陽を無視して陽の母は西谷のほうを向く。そしてにらみつけるように言い放った。
「どうもお世話になりました、今後はこの程度のことであまり呼び出さないでいただけるかしら? こちらも暇じゃないので」
「待ってください! 新島さん、陽くんのことでお話が」
「早くしなさいよ! 陽!」
陽はそのまま無理矢理連れていかれた、ふらふらの身体を引きずられて。陽の母は結局ろくに話も聞かなかった。多分帰宅したら陽はもっと怒られる。優巳と西谷はそんな二人の帰宅する様子をただ呆然と眺めていることしか出来なかった。やはり保護者は呼ばないほうが良かったかもしれない、しかしこのままでは陽の身体が……。
「俺はどうしたら良かったのかな、優巳くん」
「先生……陽のお母さん、昔はもう少し穏やかな人だったんですけど」
「あの調子じゃ陽くんも辛いって言えないね」
「帰ってから暴力とか振るわれないと良いんですけど」
校門を出たところで陽の母は陽の腕を放した。そして不機嫌にドンと陽を地面に突き飛ばし、そのまま無視して一人帰って行ってしまった。陽はふらりと立ち上がりうつむいてぼんやりした意識のままとぼとぼと遅れて帰宅する。母への申し訳なさと同じくらいのあまりの理不尽さでその目から一筋の涙が流れた。
***
翌日、陽は学校を欠席した。もう呼び出されてはかなわないと、今日は学校を休んで母に一人で病院に行って来るようにきつく叱られたからだ。混みあった待合室では立ちっぱなしで、途中耐え切れなくなって座り込んでしまう。ようやく名前を呼ばれて血液検査をして、その結果を待っていると慌てて看護師に呼び出された。診察室では検査結果に焦った医師がすぐにでも入院したほうが良いと勧める。しかし陽は戸惑いながらも、今日は保護者も来ていないのを言い訳に試験も近いから入院は嫌だと言ってきっぱりと断った。
「でも、このままではいつ倒れてもおかしくない。かなり危険な状態なんだよ」
「へ、平気です。つらくなったらまた病院に来ますから」
「だけどね、君……」
「大丈夫です……! まだ一人で歩くことも出来るし、学校にも行けてますから!」
どうしても入院は嫌だと言う陽。困った医師は最後にせめて点滴だけでも、と言って陽に処置をすることにする。点滴をされている間だけ陽はうとうととしてしばし辛い現実を忘れて微睡むことが出来た。
***
病院から帰ると陽の自宅の前に制服姿の優巳がいた。今日の学校は部活もないから帰りが早かったようだ。
「優巳!」
「よう、陽。病院に行ってきたのか?」
「うん、点滴してもらった」
「点滴を……それで何て言われたんだ? 血液検査とかしたんだろう、入院とか勧められなかったか?」
優巳の言葉に一瞬、陽の表情が曇る。しかしすぐに表情を変えてふるふると首を振った。
「入院? まさか! 僕、そんな重病人じゃないよ? ちょっと疲れてただけだって、明日は普通に学校行くから」
「本当に大丈夫なんだな?」
「うん、元気。大丈夫だよ」
その言葉に若干優巳はほっとした表情になり鞄の中からノートを取り出す。
「これ、今日の授業のノートな。あとこのプリントはもらったやつ、試験に出るところはマーカーで線引いてあるから」
「ありがとう、ごめんね、優巳。わざわざ僕のために」
「別に大したことじゃないしいいよ。家は大丈夫か?」
「お母さんのこと? うん……叱られて、それ以来口きいてくれなくなっちゃったけど」
「そうか……」
「西谷先生にも謝らなきゃ、先生もお母さんを親切で呼んでくれただけだったのに」
「……陽、お前は何も悪くないんだぞ」
「優巳?」
「あまり思いつめたりするな、何て言われようとお前は叱られるような悪いことはしていないんだから」
「……ごめんね、優巳。本当にありがとう」
陽は今にも泣きそうな顔で笑っている。その表情にたまらない感情になって、何も言えずに優巳はうつむいた。そしてそっと陽の頬を撫でる。
「骨の感触がする……やつれたな、昔はもっとふっくらとしてたのに」
「そう?」
陽はずっと笑顔のままだった。また明日、学校で会うことを約束して優巳は帰宅して行く。陽はずっと自宅前から見えなくなるまでその背中を見送っていた。
***
その日の晩も陽は深夜まで勉強をしていた。学校に行けなかった分その遅れを取り戻そうと、優巳のノートを見ながら合わせて教科書も見て内容を頭に入れようとする。しかしいくら読み込んでも全く内容が頭に入って来ない。ノートを読んでいるだけで頭がぼんやりとしてきてくらくらと眩暈がして来てしまう。どうしよう、覚えられない……勉強がいつまでたっても終わらない。
「わからない……どうして、何度も書き取りしてるのに」
書き写したその文字ももう手に力が入らないせいで歪んで読めるようなものじゃなかった。それくらいに陽の頭は朦朧として疲れ果てていた。焦れば焦るほどわからなくなり背中を大量の冷や汗が伝う。しかしそれでも眠ってしまうのが怖い。いよいよ試験が近い、もっと眠らないで勉強をすればその分覚えられるはずなのだから、と。陽は自分の限界がもうわからなくなってしまっていた。
「う……ッ」
その時また吐き気が陽を襲う。慌ててコンビニの袋を口に当てゴポッと音を立てながら陽は嘔吐する。
「ゴフッ、ゲフ……ッ、ぇえッ! うえ……ッ、ハァッ、ハー……、ハァ」
せっかく病院で点滴してもらった水分も無駄なものになってしまった。大量の水分の入った袋の口を再びギュッと閉めて、陽はまたふらりとベランダに向かって行く。覚束ない足元でそれでもゆっくりと、深夜三時。また今夜も陽は眠れない。
***
試験期間は三日間だった。試験のために必死に勉強をした陽だったが身体がもたなくて体力が持たず結局ろくに覚えることが出来ず思ったように勉強を終えられなかった。そのせいで成績は芳しいものではない。リビングで平均点よりも低いものが多い答案を見た陽の母はその答案を破り捨て黙って陽の頬をひっぱたいた。同じ場にいた義父は見て見ぬふりをして何も言わない。
「あの学校に入学できたことは褒めてやってもいいわ。でもこんな成績を取っていいと思っているの? どうせろくに勉強しなかったんでしょう?」
「……ごめんなさい」
「この間は自己管理も出来ないでいきなり呼び出させて、それで今度はこの成績なんて……一体何がしたいのよ? お母さんにそんなに迷惑かけたいわけ?」
「ご、ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい……」
「育て方を間違ったのかしら、もっと頭の良い子が欲しかった」
陽は母の言葉に呆然としている。精いっぱい陽は頑張った、でも母はそんな陽を知らず一切理解してくれていない。体調を崩して深夜まで勉強していたのは何だったのか。母が完全無視を決め込んだのであきらめた陽は黙って自室に戻る。全てが無駄だった、陽の懸命な努力は結局全く理解されず価値もない。
***
深夜、真っ暗な自室で陽は一人床に座り込んでいる。その手元にはスマートフォン、しかし着信音が鳴る気配はない。優巳の連絡先はもちろん知っているけれど優巳は連絡無精なところがあって、ふたりでスマホのメッセージを交わしたのも数えるほどしかない。同級生とは連絡先の交換はしたがやり取りはほとんどなかった。鳴らないスマホを抱えながら陽はぽつりとつぶやく。
「僕なんか元からいなければよかったんだ……もう、消えてしまいたい」
呪いの言葉を呟いて、じっと窓の外を見る。夜はまだ、明ける様子はない。
「僕なんか、消えてしまえば……」
声にならない涙声が陽の部屋に響く。夜はまだ……明けることはなかった。
「お前、そんな長袖のワイシャツを着て暑くないのか?」
「僕の席、エアコンの風が強く当たるんだ。長袖でちょうど良いよ」
本当は周りに自分の痩せすぎた身体を見せないためだった。そんな陽はもう暑さでこの頃は一日一食すらも食べるのが厳しい。無理に食べさせると吐いてしまう、けれどだからと言って毎日ろくに食べることなくますます痩せやつれていく陽を見ていると、優巳は不安で仕方がない。このままでは良くない、そんなことはわかっていた。
放課後、優巳は部活で陽は図書室で自習中。もうすぐ試験期間になる。部活が休みになる前から陽はすでに試験勉強に入っていた。進学校であるこの学校では優秀な生徒が多く陽は成績があまり良くないから、他人より多く勉強をしないと点数がとれない。なにかと厳しい母親の前で、悪い成績をとるわけにはいかなかった。
エアコンの効いた図書室で陽は一人大量の冷や汗をかきながら勉強をしている。蒼白な顔色は貧血がかなり酷くなっていることを表していた。一日の終わり、その疲労ですでに座って勉強しているだけでも眩暈がする。しかし、だからと言って勉強を辞めるわけにはいかない。図書室の窓から部活動中の優巳を見た。視界がかすむ。憧れの優巳が、なんだかもう、遠い。
「おまたせ陽、勉強終わったか?」
「おつかれ! うーん、続きは家でやるよ」
「疲れた顔してるな、あまり無理するなよ」
「あはは、大丈夫大丈夫」
陽はにこにこと元気の良い口ぶりで返すも、その表情に疲れは明確に出ていた。無理しているのなんて簡単にわかる。優巳はそれでもにこやかに元気を装う陽に溜息をついてその頭を撫でた。
「コンビニ、寄って行くか?」
「今日は……いいかも、特に食べたいものもないし」
しかし陽の家では陽の分の夕飯は用意されていない。今日だってほとんど何も食べていないのにまた明日まで何も食べないつもりか。優巳はコンビニだけではなくファーストフードなどどうにかして何か陽に食べさせようと試行錯誤したが結局どれも陽が嫌がるのでやめた。何をしても食べたがらないのはどうしようもない。
「せめて飲み物はちゃんと飲めよ。脱水とか色々心配なんだからな」
「うん、飲み物はあるから大丈夫だよ」
学校から十五分の陽の自宅マンションにはすぐ着いてしまう。陽が自宅で辛い思いをしていないか、理不尽に怒鳴られたりすることはないのだろうか。そんな心配ばかり思い浮かんでしまうが、それでも陽はいつも笑顔で、その表情が切ない。あまり心配されたくないと思っているのだろう。でも心配くらいさせろよ、親友なんだから。優巳は複雑な感情で、また明日と告げる。
「うん、またね。優巳おやすみ!」
「お前本当に無理するなよ、ゆっくり休めよ」
「もう、心配性だなあ優巳は」
「誰のせいだよ」
「ありがと優巳。僕、大丈夫だから」
「……おやすみ」
そして陽は自宅へのエレベータに向かって行く。頼りない背中だな、そんなことを思いながら陽の姿が見えなくなるまで見送って優巳も自宅に帰ることにした。
***
自宅のドアを開ける時が一番緊張する。母は機嫌悪くないだろうか、再婚してできた義兄の有樹と鉢合わせしないだろうか……そして陽が勇気を出してドアノブをひねるとリビングから有樹の怒鳴り声が聞こえる。なにがあった? 嫌なところに帰って来たかもしれない。そうしているうちに今度は勢いよくリビングのドアを有樹が開ける。どうやら義父と言いあいをしているみたいだ。
「有樹……お前はあまり夜出歩くんじゃない」
「うるせえな、前までは自由に出かけてたのに再婚してから急に父親ぶりやがって!」
「そんなこと言っても最近のお前は遊び歩きすぎだ」
「俺の勝手だろ? なんだよ、格好つけたいのかよ」
その時玄関の陽と目が合う。有樹は陽の胸ぐらをつかんだ、陽は恐怖のあまり固まってしまう。
「まったく、お前らが来てから俺の自由がなくなった! 俺はなあ、義理の母親も弟もいらないんだよ! ただ自由と金さえもらえれば良いわけ! だから家から遠い大学に行って一人暮らししたかったのに、いまさら家族団らんとか……馬鹿馬鹿しい!」
そして陽は玄関のドアに叩きつけられる。大きな鈍い音、強かに打ち付けた背中が痛い。有樹は陽をにらみつけて、お前が悪いんだ、もうさっさと出ていけよ、と言い放ってそのまま家を出て行った。陽はその勢いに驚き怯えて座り込んでしまう。開きっぱなしのリビングのドアの向こうでは母親が表情を固まらせてこちらを見ている。有樹の反抗に対する怒りの感情を我慢しているのだ。一応義理の息子にあたる有樹にはまだ強くは言えないと。
義父は座り込んだ陽に、有樹が悪いね、と軽く謝罪してそのまままたリビングに戻って行った。途端に母の抗議の怒鳴り声が聞こえる。義父はめんどくさそうに弁解をしているが……陽はすっかり暗い表情で、自室に向かう。そしてドアを閉めて座り込んだ。
「ハァ、ハァ……ッ、こわ、かった……」
有樹の勢いと、陽に向けられた悪意が。恐怖のあまり血の気が引き、そして急に酷い吐き気が陽を襲う。陽は這いつくばりながら必死でトイレに向かい、そのままドアを閉めて嘔吐した。
「ゲホッ! ゲェッ、……ぇッ、……ゴプッ! ウエッ、ウェ……ッ」
ビシャ、と水分が水面を叩いた。それに続きさらにバシャバシャと勢いよく吐き戻って来るのは学校で優巳がくれた今日の水分。このまま嘔吐してしまってはそのうち脱水症状を起こしてしまうだろう。しかし酷いショックを受けた心と身体はなにかをため込んでおくことが限界でそのまま吐き戻すのをやめない。
「ケホッゴホ! ハァ……ハァ……ッ」
苦しい、陽の身体がガクガクと震える。有樹が怖い、彼がいるからこんな家には帰って来たくなかった。お前が悪いのだ、その言葉に自分の居場所がないのを実感する。もう消えてしまいたい、自分がいなくなれば有樹はあんな風にイラついて激高することはないのだろう。
そもそもこの再婚もいきなりの話だった。両親の出会いのきっかけも良く知らない。あまり会うことも交流を深めることもなく出来た義理の父親と兄。ろくな交流をしてこなかったのでいまだに義父とはうまく話せないし、有樹には嫌われている。母はそんな思い通りにならない状況が気に入らないと、陽と二人の場所ではいつもイライラしていた。そして隙あらば陽にそのストレスをぶつけるのだ。
「もう、疲れた……」
食欲のない日々も居心地の悪い家も。心が酷く削られるばかりで陽の身体と精神は日々さらに疲弊して行く……。
シャワーを浴びてようやく落ち着いた陽は自室で勉強をしている。試験勉強に予習復習、することは山の様にある。図書室で自習するだけでは時間は足りず毎日深夜に及ぶまで勉強は続いていた。もう何日ろくに眠っていないのだろう。積み重なった日々の過労のあまり陽はまた吐き気を催していた。疲れ切ったあまり身体が辛くて自然と気持ちが悪くなりそのまま嘔吐してしまうのだ。あわててそばにあったコンビニの袋を取り陽は再び嘔吐する。もうこの身体はまるで吐き癖がついてしまったようだった。
「ウッ、ゲェッ……ケホッ、コホッ! ゲホゴホッ」
吐瀉物にむせこんで必死の速い呼吸で痩せた肩を上下させた。食べていないから吐いても吐いても水分ばかり。脱水気味なのかくちびるが渇いてかさついている。
しばらく嘔吐してやがて吐き終えた陽はギュッと袋の口を縛って、おぼつかない足取りでフラフラとベランダの生ごみ用のゴミ箱に吐瀉物の入った袋を捨てる。薄暗いベランダから見た空の景色はもうすぐ夜も明ける頃。ああ、もう朝になってしまう。朝になったらまた学校に行かなければ……重い脚を引きずりながら再び陽は自室に戻り束の間の睡眠をとる。もう数時間も眠れない、しかし疲労困憊の陽は気を失うようにそのまま朝まで目を覚まさなかった。
***
試験一週間前になった。今日からは部活も休みになり、授業も試験に関する重要な情報が出てくるなど休むわけにはいかない日々になって来た。さすがの優巳も勉強を始めた。陽も変わらず勉強に追われている。これまでの睡眠不足が祟ったのか昼休みになると陽は食事どころではなくぐったりと机に伏せて眠ってしまった。何度か優巳が起こそうと試みるが陽はぐっすりと寝てしまい起きる気配がない。陽が少しでも食べるようにと購買でおにぎりを買って来たのだがこのままでは食べずに昼休みが終わってしまいそうだった。
「陽、飯食えって……」
「……」
多少肩を叩いたくらいでは起きないほど陽は熟睡してしまっている。ひどい睡眠不足、授業中も真剣に受けてはいるがときたま力尽き眠ってしまいそうになっている。深夜まで根を詰めて勉強しすぎなのだ。今日は放課後図書室で一緒に勉強する約束をしていた。しかしもう帰らせたほうが良いのではないかと思うほど陽は疲れ果てている。
「陽、起きろ。次は体育だぞ」
「あ……う、うん、起きる……」
ようやく目を覚ました陽、しかし結局今日の昼も何も食べずに次の授業の準備をしていた。
午後の体育は陽は参加することを禁じられている。その体調不良で無理をすれば倒れかねないと、養護教諭西谷早馬の計らいからだった。見学だがジャージに着替えて陽は体育館の隅に腰かける。
今日の授業は優巳が得意のバスケットボール。準備運動の後、練習試合開始ほんの数分で陽は大量得点をして見せた。それを見ていた陽は精いっぱい拍手をする。そんな陽に手を振って、優巳はゴール目指して駆けて行った。文武両道の優巳の才能を見せつけるようなそんな試合内容だった。
「陽、見てたか? ……陽?」
授業終わり、汗をかいた優巳はタオルで拭いながら陽のもとへ。陽はうつむいて眠っているようだった。そっとその顔を覗き込んで優巳は息を飲む。まるで病人じみた悪すぎる顔色……あまりの体調不良で陽の身体はもう限界だった。慌てて陽を揺り起こす優巳。陽はゆっくりと目を開けて、おつかれさま、とその顔色のままで笑った。
「お前……大丈夫かよ……?」
「え、なにが? ああ、教室帰らないとね。着替えよう、優巳」
「あ、ああ……そう、だよな」
優巳は動揺を隠しきれない。だけど顔色の悪い陽が全く平気そうに笑うのでそのまま一緒に教室に帰ることにした。しかし途中の階段や廊下では陽が倒れてしまわないようにその身体を抱きかかえるようにして支える。陽も身体が辛いのか黙って優巳に体重を預けてくる。今日はもう図書室に寄るのはやめて授業が終わり次第帰ろう、そう優巳が決意して午後最後の授業を受けることにした。
最後の数学は体育の後にも関わらず、試験間際と言うことで今までのまとめを中心に試験に出る箇所なども復習したため、皆静かに受けていた。優巳も真剣に受ける、しかし授業に熱心になりすぎて隣の席の陽の異変に気付くことが出来なかった。
授業を聞いていた陽は突然耳鳴りが酷くなり、周りの音がよく聞こえなくなってしまった。そして背中を伝う冷や汗に吐き気、そこで、ああ、また貧血を起こしているんだと気が付いた。慌ててそのまま下を向き吐き気を逃そうと深呼吸する。その時手に突然力が入らなくなり筆記用具を落とした。そのまま身体の自由がきかなくなる。血の気が引いて全身が重く、そのまま目の前が暗くなり抵抗する間もなく陽の意識は途切れた。
けたたましい椅子の倒れる音で何事かと同級生が振り返る。そこには椅子ごと倒れた陽が無防備に受け身もとれず床に転がっていた。優巳は驚き立ち上がる、そして陽に駆け寄ってその名を呼ぶ。しかしいくら名を呼んでも陽は意識を取り戻さない。いつもなら多少の反応はあるのに。身動きもせずぐったりとして顔色は真っ青なうえにくちびるは真っ白。その身体は完全に血の気を失ってしまいまるでよく出来た人形のようだ。授業は急遽中断し、陽はそのまま急いで保健室に運ばれることになった。
「陽くん……陽くん! わかるかい?」
「先生……陽、返事しないんです。意識が戻らなくて」
「大丈夫、息はしてる。頭も打ってないんだよね? でも顔色悪すぎるし相当体調悪そうだ」
「ここ数日学校でもほとんど食事をとってなくて、多分家では何も……」
「飲みものだけで過ごしてたわけ?」
「睡眠不足も酷かったと思います。昼休みもずっと眠ってました、多分その時間くらいしか眠る時間がなかった。深夜までずっと起きて勉強して」
「かなり無理をしていた、と」
養護教諭西谷はしばらく黙って、そして決断した。優巳は陽の名を呼び続けている。
「優巳くん……陽くんには恨まれてしまうかもしれないけれど、もう保護者を呼ぼう。そして一刻も早く病院に。このままじゃ陽くんの身体が完全に壊れてしまう、もうすでにボロボロになってしまっているよ」
「……っ、はい」
***
陽の母がやって来たのは夕方になった頃だった。大きな足音がヒステリックに保健室に向かって来る。そしてスーツ姿の女性が勢いよく保健室のドアを開けた。
「どうも、新島陽の母ですけど息子がご迷惑をかけたようで」
「ああ、陽くんのお母さんですか。私は養護教諭の……」
「起きなさい! 陽!」
西谷が名乗る前に陽の母はカーテンを開けてベッドで眠っている陽を引きずり起こした。目を覚ました陽は突然の母の登場に驚き瞬きし、その目の色が途端に怯えたものに変わる。
「あんた、何したかわかってるの? お母さん大事な仕事の打ち合わせを断って帰って来たのよ! 何週間も前から準備していたのに、たくさんの人に迷惑かけて! これだから女は使えないとか、陰でそんな風に言われてどんな気持ちでこれから働いたらいいのよ!」
「あ……ご、ごめんなさ……」
「あの、新島さん、陽くん倒れたんです。だいぶ体調も悪いようなので出来るだけ早く病院に」
「病院? 知らないわよ、高校生なんだからそんなところくらい一人で行きなさい!」
「はい、ごめんなさい……っ、お母さん!」
「帰るわよ、さっさとしなさい!」
今にも泣きだしそうな陽を無視して陽の母は西谷のほうを向く。そしてにらみつけるように言い放った。
「どうもお世話になりました、今後はこの程度のことであまり呼び出さないでいただけるかしら? こちらも暇じゃないので」
「待ってください! 新島さん、陽くんのことでお話が」
「早くしなさいよ! 陽!」
陽はそのまま無理矢理連れていかれた、ふらふらの身体を引きずられて。陽の母は結局ろくに話も聞かなかった。多分帰宅したら陽はもっと怒られる。優巳と西谷はそんな二人の帰宅する様子をただ呆然と眺めていることしか出来なかった。やはり保護者は呼ばないほうが良かったかもしれない、しかしこのままでは陽の身体が……。
「俺はどうしたら良かったのかな、優巳くん」
「先生……陽のお母さん、昔はもう少し穏やかな人だったんですけど」
「あの調子じゃ陽くんも辛いって言えないね」
「帰ってから暴力とか振るわれないと良いんですけど」
校門を出たところで陽の母は陽の腕を放した。そして不機嫌にドンと陽を地面に突き飛ばし、そのまま無視して一人帰って行ってしまった。陽はふらりと立ち上がりうつむいてぼんやりした意識のままとぼとぼと遅れて帰宅する。母への申し訳なさと同じくらいのあまりの理不尽さでその目から一筋の涙が流れた。
***
翌日、陽は学校を欠席した。もう呼び出されてはかなわないと、今日は学校を休んで母に一人で病院に行って来るようにきつく叱られたからだ。混みあった待合室では立ちっぱなしで、途中耐え切れなくなって座り込んでしまう。ようやく名前を呼ばれて血液検査をして、その結果を待っていると慌てて看護師に呼び出された。診察室では検査結果に焦った医師がすぐにでも入院したほうが良いと勧める。しかし陽は戸惑いながらも、今日は保護者も来ていないのを言い訳に試験も近いから入院は嫌だと言ってきっぱりと断った。
「でも、このままではいつ倒れてもおかしくない。かなり危険な状態なんだよ」
「へ、平気です。つらくなったらまた病院に来ますから」
「だけどね、君……」
「大丈夫です……! まだ一人で歩くことも出来るし、学校にも行けてますから!」
どうしても入院は嫌だと言う陽。困った医師は最後にせめて点滴だけでも、と言って陽に処置をすることにする。点滴をされている間だけ陽はうとうととしてしばし辛い現実を忘れて微睡むことが出来た。
***
病院から帰ると陽の自宅の前に制服姿の優巳がいた。今日の学校は部活もないから帰りが早かったようだ。
「優巳!」
「よう、陽。病院に行ってきたのか?」
「うん、点滴してもらった」
「点滴を……それで何て言われたんだ? 血液検査とかしたんだろう、入院とか勧められなかったか?」
優巳の言葉に一瞬、陽の表情が曇る。しかしすぐに表情を変えてふるふると首を振った。
「入院? まさか! 僕、そんな重病人じゃないよ? ちょっと疲れてただけだって、明日は普通に学校行くから」
「本当に大丈夫なんだな?」
「うん、元気。大丈夫だよ」
その言葉に若干優巳はほっとした表情になり鞄の中からノートを取り出す。
「これ、今日の授業のノートな。あとこのプリントはもらったやつ、試験に出るところはマーカーで線引いてあるから」
「ありがとう、ごめんね、優巳。わざわざ僕のために」
「別に大したことじゃないしいいよ。家は大丈夫か?」
「お母さんのこと? うん……叱られて、それ以来口きいてくれなくなっちゃったけど」
「そうか……」
「西谷先生にも謝らなきゃ、先生もお母さんを親切で呼んでくれただけだったのに」
「……陽、お前は何も悪くないんだぞ」
「優巳?」
「あまり思いつめたりするな、何て言われようとお前は叱られるような悪いことはしていないんだから」
「……ごめんね、優巳。本当にありがとう」
陽は今にも泣きそうな顔で笑っている。その表情にたまらない感情になって、何も言えずに優巳はうつむいた。そしてそっと陽の頬を撫でる。
「骨の感触がする……やつれたな、昔はもっとふっくらとしてたのに」
「そう?」
陽はずっと笑顔のままだった。また明日、学校で会うことを約束して優巳は帰宅して行く。陽はずっと自宅前から見えなくなるまでその背中を見送っていた。
***
その日の晩も陽は深夜まで勉強をしていた。学校に行けなかった分その遅れを取り戻そうと、優巳のノートを見ながら合わせて教科書も見て内容を頭に入れようとする。しかしいくら読み込んでも全く内容が頭に入って来ない。ノートを読んでいるだけで頭がぼんやりとしてきてくらくらと眩暈がして来てしまう。どうしよう、覚えられない……勉強がいつまでたっても終わらない。
「わからない……どうして、何度も書き取りしてるのに」
書き写したその文字ももう手に力が入らないせいで歪んで読めるようなものじゃなかった。それくらいに陽の頭は朦朧として疲れ果てていた。焦れば焦るほどわからなくなり背中を大量の冷や汗が伝う。しかしそれでも眠ってしまうのが怖い。いよいよ試験が近い、もっと眠らないで勉強をすればその分覚えられるはずなのだから、と。陽は自分の限界がもうわからなくなってしまっていた。
「う……ッ」
その時また吐き気が陽を襲う。慌ててコンビニの袋を口に当てゴポッと音を立てながら陽は嘔吐する。
「ゴフッ、ゲフ……ッ、ぇえッ! うえ……ッ、ハァッ、ハー……、ハァ」
せっかく病院で点滴してもらった水分も無駄なものになってしまった。大量の水分の入った袋の口を再びギュッと閉めて、陽はまたふらりとベランダに向かって行く。覚束ない足元でそれでもゆっくりと、深夜三時。また今夜も陽は眠れない。
***
試験期間は三日間だった。試験のために必死に勉強をした陽だったが身体がもたなくて体力が持たず結局ろくに覚えることが出来ず思ったように勉強を終えられなかった。そのせいで成績は芳しいものではない。リビングで平均点よりも低いものが多い答案を見た陽の母はその答案を破り捨て黙って陽の頬をひっぱたいた。同じ場にいた義父は見て見ぬふりをして何も言わない。
「あの学校に入学できたことは褒めてやってもいいわ。でもこんな成績を取っていいと思っているの? どうせろくに勉強しなかったんでしょう?」
「……ごめんなさい」
「この間は自己管理も出来ないでいきなり呼び出させて、それで今度はこの成績なんて……一体何がしたいのよ? お母さんにそんなに迷惑かけたいわけ?」
「ご、ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい……」
「育て方を間違ったのかしら、もっと頭の良い子が欲しかった」
陽は母の言葉に呆然としている。精いっぱい陽は頑張った、でも母はそんな陽を知らず一切理解してくれていない。体調を崩して深夜まで勉強していたのは何だったのか。母が完全無視を決め込んだのであきらめた陽は黙って自室に戻る。全てが無駄だった、陽の懸命な努力は結局全く理解されず価値もない。
***
深夜、真っ暗な自室で陽は一人床に座り込んでいる。その手元にはスマートフォン、しかし着信音が鳴る気配はない。優巳の連絡先はもちろん知っているけれど優巳は連絡無精なところがあって、ふたりでスマホのメッセージを交わしたのも数えるほどしかない。同級生とは連絡先の交換はしたがやり取りはほとんどなかった。鳴らないスマホを抱えながら陽はぽつりとつぶやく。
「僕なんか元からいなければよかったんだ……もう、消えてしまいたい」
呪いの言葉を呟いて、じっと窓の外を見る。夜はまだ、明ける様子はない。
「僕なんか、消えてしまえば……」
声にならない涙声が陽の部屋に響く。夜はまだ……明けることはなかった。
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