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「雲雀先生のおかげで絵仕事も軌道に乗ってきました」
「そうだね、先日紹介した出版社が是非君を使いたいと言ってきているよ。この名刺は君にって、連絡してごらん。きっと良い返事が返ってくるだろう」
「何から何まですみません、雲雀先生は俺の恩人です」
「ならば恩を返さないとな、君はボクのために絵を描くんだ。完成した作品は誰よりも一番先にボクに見せるように」
雲雀群童の吉祥寺の屋敷は冬を迎え、今時珍しい暖炉が時折音を鳴らしなら燃えている。クリスマスになったらサンタクロースがやって来るのだろう、この家に子供はいなかったが。
潤一郎がこの屋敷に来て二年がたった。最近少しずつ忙しくなって、潤一郎の絵が評価されてきている。皆月潤一郎は水無月静潤になり、朝から晩までアトリエにこもる日も多い。雲雀は邪魔をするようなことはしなかったが、時折作業を覗きに来ては赤い目をして睨みつける。その目は芸術家の目だろう、彼もまた時折仕事をしている、それは部屋から漏れる大音量のレコードでわかった。時折クラシックが流れるところを見ると、彼ほどの実力者もまた葛藤しながら作品を作っているのだと。
「それでなんだい潤一郎、話があるって」
「ああ、その……」
潤一郎を助けてくれたのはこの屋敷だった。家賃も払えない男はこの家で二年間寝食の心配もなく絵を描く事ができた。いまならもう一人きりの生活費くらい払えると、潤一郎は雲雀に告げる。この家を出て、生まれ育った鎌倉でまた暮らしたいと。
「それはこの家を出るということかい?」
「はい、ここにいると何かと甘えてしまいますから。一人で生活を送ってそうして得た日常の風景を描く、そんな画家になりたいのです」
「ボクが煩わしくなったか?」
「いえそんな、またここにも伺わせていただきたいと思っています。先生の作品はいつでも心に感じるものがありますから」
雲雀は何か言いたげな視線を潤一郎に向けて、ふと顔をそらして小さな声で呟いた。
「勝手にしたまえ、出て行くも行かないも君の好きなように」
そうして正月の終わり、潤一郎は吉祥寺を後にする。画材と数枚の着替えくらいしかもって行くものはなかった。あとは少しずつ家政婦が整理して送ってくれると。
潤一郎が出て行くと告げて以降、雲雀は顔をあわせることなかった。機嫌が悪いのか、そのわりに大音量のクラシックはかからないところを見るとそうでもないようで。
手荷物を持った潤一郎は最後、屋敷の前で一礼する、窓の向こうから雲雀が見ていたら良いのにと思った。この家で世話になった年月は得たものも多く、何より幸せなものであったのは間違いないと。
***
「雲雀先生はどこに行ってしまったんでしょう」
「あの人のことだ、気まぐれにすぐ帰ってくるよ。もしくはもう吉祥寺の方に戻ったのかもしれない。お仕事だって忙しいだろうし」
今日も潤一郎はいとの姿を描いている。着物姿のいとはじっと動かないでいるため少し疲れてきたようだった。
「休憩するかい?」
「いえ、まだ大丈夫です……少し背中は痛いですが」
「申し訳ないね、あと少しで完成するから」
その絵にはいとと架空の空間が描かれていた。いとの背後にはもう一人のいとがいる。背後のいとはこの世の善なるものを追い求めて泣いているのだと、潤一郎はいとに説明した。
「んん……難しいことはわかりません」
「雲雀先生ほどの情報量はないよ。あの人は一枚の絵に何十倍もの感情を注ぎ込むから」
「雲雀先生の絵はちょっと怖いですね」
「でもそれが人間の本質だよ、いと」
だからこそなお人は良いものであって欲しい、そのメッセージは潤一郎が雲雀に送るもの。自分を拾ってたくさんの縁を与えてくれた。おかげであの二年間のうちに出版社を紹介してもらって画集まで出したし、いまではいとがこの家にいる、その感謝を彼に。
「ああ、今日はこの辺にしておこうかな……あと少しで完成するけど、その前に少し時間を置いて寝かせてみたい」
「動いて良いですか? うーん、疲れたぁ」
「はは、悪かったね。お疲れさま」
まだ夜を迎えるには早かった。午後三時すぎ、おやつの時間だって空腹でもないのによく雲雀にお菓子を食べさせられた。いとはコーヒーでも淹れるからと台所へ。朝から絵を描いていたから今朝の新聞にも目を通していないからと潤一郎が縁側で新聞を読み始めると背後から誰かの視線を感じた。
「どうした、いと? ……え」
そこにいたのはいとではなかった。いつものストライプ柄のシャツではない、真っ黒のシャツに赤いネクタイをした赤い髪の彼だ。
「雲雀先生……! ようやく帰って来ましたか」
一瞬雲雀が笑った気がした。しかし直後に雲雀は右手に持った『何か』を振り上げる、思わず受け止めた潤一郎は左手に灼熱感を覚えた。床は赤く染まって行く、赤は彼が好んで身につけていた色だった。
「どうしました、先生?」
物音を聞きつけたいとがやって来て、瞬間顔色を変えて悲鳴をあげた。雲雀の手から滑り落ちた古いナイフが庭に向かって転がって行く。
潤一郎は呆然として、次第に痛み始める頃に雲雀の目から涙が流れるのを見る。いとを描いたあの絵のように。刺された左手は、潤一郎の利き手だった。
「そうだね、先日紹介した出版社が是非君を使いたいと言ってきているよ。この名刺は君にって、連絡してごらん。きっと良い返事が返ってくるだろう」
「何から何まですみません、雲雀先生は俺の恩人です」
「ならば恩を返さないとな、君はボクのために絵を描くんだ。完成した作品は誰よりも一番先にボクに見せるように」
雲雀群童の吉祥寺の屋敷は冬を迎え、今時珍しい暖炉が時折音を鳴らしなら燃えている。クリスマスになったらサンタクロースがやって来るのだろう、この家に子供はいなかったが。
潤一郎がこの屋敷に来て二年がたった。最近少しずつ忙しくなって、潤一郎の絵が評価されてきている。皆月潤一郎は水無月静潤になり、朝から晩までアトリエにこもる日も多い。雲雀は邪魔をするようなことはしなかったが、時折作業を覗きに来ては赤い目をして睨みつける。その目は芸術家の目だろう、彼もまた時折仕事をしている、それは部屋から漏れる大音量のレコードでわかった。時折クラシックが流れるところを見ると、彼ほどの実力者もまた葛藤しながら作品を作っているのだと。
「それでなんだい潤一郎、話があるって」
「ああ、その……」
潤一郎を助けてくれたのはこの屋敷だった。家賃も払えない男はこの家で二年間寝食の心配もなく絵を描く事ができた。いまならもう一人きりの生活費くらい払えると、潤一郎は雲雀に告げる。この家を出て、生まれ育った鎌倉でまた暮らしたいと。
「それはこの家を出るということかい?」
「はい、ここにいると何かと甘えてしまいますから。一人で生活を送ってそうして得た日常の風景を描く、そんな画家になりたいのです」
「ボクが煩わしくなったか?」
「いえそんな、またここにも伺わせていただきたいと思っています。先生の作品はいつでも心に感じるものがありますから」
雲雀は何か言いたげな視線を潤一郎に向けて、ふと顔をそらして小さな声で呟いた。
「勝手にしたまえ、出て行くも行かないも君の好きなように」
そうして正月の終わり、潤一郎は吉祥寺を後にする。画材と数枚の着替えくらいしかもって行くものはなかった。あとは少しずつ家政婦が整理して送ってくれると。
潤一郎が出て行くと告げて以降、雲雀は顔をあわせることなかった。機嫌が悪いのか、そのわりに大音量のクラシックはかからないところを見るとそうでもないようで。
手荷物を持った潤一郎は最後、屋敷の前で一礼する、窓の向こうから雲雀が見ていたら良いのにと思った。この家で世話になった年月は得たものも多く、何より幸せなものであったのは間違いないと。
***
「雲雀先生はどこに行ってしまったんでしょう」
「あの人のことだ、気まぐれにすぐ帰ってくるよ。もしくはもう吉祥寺の方に戻ったのかもしれない。お仕事だって忙しいだろうし」
今日も潤一郎はいとの姿を描いている。着物姿のいとはじっと動かないでいるため少し疲れてきたようだった。
「休憩するかい?」
「いえ、まだ大丈夫です……少し背中は痛いですが」
「申し訳ないね、あと少しで完成するから」
その絵にはいとと架空の空間が描かれていた。いとの背後にはもう一人のいとがいる。背後のいとはこの世の善なるものを追い求めて泣いているのだと、潤一郎はいとに説明した。
「んん……難しいことはわかりません」
「雲雀先生ほどの情報量はないよ。あの人は一枚の絵に何十倍もの感情を注ぎ込むから」
「雲雀先生の絵はちょっと怖いですね」
「でもそれが人間の本質だよ、いと」
だからこそなお人は良いものであって欲しい、そのメッセージは潤一郎が雲雀に送るもの。自分を拾ってたくさんの縁を与えてくれた。おかげであの二年間のうちに出版社を紹介してもらって画集まで出したし、いまではいとがこの家にいる、その感謝を彼に。
「ああ、今日はこの辺にしておこうかな……あと少しで完成するけど、その前に少し時間を置いて寝かせてみたい」
「動いて良いですか? うーん、疲れたぁ」
「はは、悪かったね。お疲れさま」
まだ夜を迎えるには早かった。午後三時すぎ、おやつの時間だって空腹でもないのによく雲雀にお菓子を食べさせられた。いとはコーヒーでも淹れるからと台所へ。朝から絵を描いていたから今朝の新聞にも目を通していないからと潤一郎が縁側で新聞を読み始めると背後から誰かの視線を感じた。
「どうした、いと? ……え」
そこにいたのはいとではなかった。いつものストライプ柄のシャツではない、真っ黒のシャツに赤いネクタイをした赤い髪の彼だ。
「雲雀先生……! ようやく帰って来ましたか」
一瞬雲雀が笑った気がした。しかし直後に雲雀は右手に持った『何か』を振り上げる、思わず受け止めた潤一郎は左手に灼熱感を覚えた。床は赤く染まって行く、赤は彼が好んで身につけていた色だった。
「どうしました、先生?」
物音を聞きつけたいとがやって来て、瞬間顔色を変えて悲鳴をあげた。雲雀の手から滑り落ちた古いナイフが庭に向かって転がって行く。
潤一郎は呆然として、次第に痛み始める頃に雲雀の目から涙が流れるのを見る。いとを描いたあの絵のように。刺された左手は、潤一郎の利き手だった。
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