孤立無援の糸

雨水林檎

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クラシック

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 葉桜も終わりしんとした朝の空気、木々の匂いが広がってまだ朝は少し冷える。縁側で煙草でも吸おうと雲雀が灰皿を持って障子を開けると、そこには見覚えのある猫背がひとり。

「おや、もう起きたのか。こんな早くに珍しい」
「目が覚めてしまって、雲雀先生も今朝は音楽かけないんですか?」
「もう少ししたらかけようと思っていた、今朝はフォークソングだな」
「……ご機嫌ですか、何よりです」
 潤一郎は何をするでもなく、朝の空気の中にいた。雲雀はその隣に腰掛けて朝日を一緒に眺める。いとはまだ眠っているようだった。

「のどかな風景だな、君はこの街で育ったのか」
「実家はもっと山の中でしたよ、のどかなのが俺にしてみれば普通なんです。東京は便利だしお店はいっぱいあっていい街だとは思うんですけどね」
「もう戻っては来ないのか、部屋はまだ空いているよ」
「しばらくはこの環境で絵を描こうかと、いましか描けないものを描いてしまいたいんです」

 不服そうな雲雀は少しむくれた顔をして潤一郎に寄りかかった。そのまま滑り落ちるように転がって、潤一郎のひざまくら。

「潤一郎がいない東京はつまらない」
「だからこの家にやって来たんですか」
「悪いか?」
「いとがいるでしょう」
「君が良い」

 そう言いながら雲雀は潤一郎の膝で子供のように頬ずりして目を閉じた。潤一郎は何も言わずに雲雀の赤い髪に触れてそっと一回撫でる。

「潤一郎、あのまま君を閉じ込めておけばよかった」

 ***

 屋敷中に大音量でクラシック音楽がかかる。何事かと部屋のドアを開けたが、雇われた家政婦はすました顔で廊下の清掃を行っていた。

「あ、あの……何が」
「雲雀先生にはよくあることです。本日はご機嫌が斜めなようですね」
「ご機嫌……?」

 潤一郎が雲雀群童の屋敷で居候するようになって一週間が経った。窓のない部屋ですることもなく寝転がっている日々にもそろそろ飽きて来てしまったので、スケッチブックと左手に鉛筆を持って構想をねっていたところにこのクラシックだ。確かこの曲は昔音楽の授業で聴いた覚えがあるが、それにしてもこんなに大音量では考え事もできない。

「いま、先生のお部屋には行かないほうがよろしいかと。噛みつかれますよ」
「ええ……あ、はい」

 雲雀群童の作品は一時陶酔するほど知っていたが、潤一郎は彼の本当のところをいまいち掴みかねていた。変わり者である、それはわかっている。彼は作業風景を誰にも見せなかったうえにこの数日はその顔も見せない、作品を描くときはいつもこうだと家政婦は言って通り過ぎる。こんな環境で部屋にいるのも落ち着かないから、仕方なく潤一郎は居間に降りひとり黙って窓の外の風景を見ていた。
 夕食の時間になっても雲雀は現れない。クラシックは流石に止まったがそれでもまだ彼は作業を続けているのか、家政婦は広いテーブルに潤一郎の食事だけ置いて去って行く。ポークソテーと人参のスープ、新鮮なブロッコリーはオリーブオイルで。フォークとナイフを手に静寂のなか食事をしているとようやくそこに雲雀が現れた。

「ああ、潤一郎、いたのか」
「お先にいただいています」
「君の口に合っているかい? ふうん、ボクもいただこうかな」

 家政婦が雲雀の分の食事を持って来て、彼は無言で食べ出した。疲れているのか普段の雲雀の勢いはなく、潤一郎は声をかけるか悩んでいる。

「ふ、なんだ潤一郎。珍獣を見学するような顔をして」
「い、いやなんでも……」

 それきり会話は止まってしまった。どこか気まずく、潤一郎は迷った挙句ゆっくりと席を立つ。すれ違う瞬間、雲雀は潤一郎の手に触れる。

「食事を終えたらボクの部屋においで、とりとめのない話でもしよう」

 ***

 潤一郎が雲雀の部屋のドアをノックしたのは午後九時を回るところだ。無音の中、鍵の開く音がして、そこには髪を下ろしてメイクも落とした素顔の雲雀が待っていた。

「やあおいで、遠慮なく入りなさい」
「……お邪魔、します」

 雲雀の部屋は潤一郎の部屋とは違って一面の大きな窓が印象的だった。奥にもうひとつ部屋があるようで、半開きのドアの向こうからは絵の具の匂いがする。あの部屋が雲雀のアトリエなのだろう。
 赤い革張りのソファとガラステーブル。そこには雲雀お気に入りらしいワインとブランデーが用意してあった。

「おや、お酒は嫌いかい?」
「え、いやその……弱いんですよ」
「酒の楽しみを覚えたら君の世界も広がるだろうに。仕方がない、ジュースでも持って来させようか」
「すみません」

 雲雀はひとりワインを開けた、血のように赤いワインをグラスに注ぎひとくち口に含んで潤一郎と隣同士にソファに腰掛ける。雲雀の手入れされた長い爪にグラスが鳴る。

「もっとこちらに来ないか」
「先生……っ?」

 瞬間、そのまま雲雀はワインを含み潤一郎に口移しを。驚いた潤一郎は思わずそのまま飲み込んで雲雀を見る。

「これが大人の味だよ、ボクが生まれた年のワインだ」

 雲雀は長い髪をかきあげてくすくすと笑い、両手で潤一郎の頬を包んで改めてキスをした。潤一郎は思わず雲雀から離れる。雲雀の手が潤一郎の左手をつかんだ。

「左利きのくせに箸は右手かい」
「……祖母にしつけられたんですよ、みっともないからって」
「あえてそれでも左手で絵を描くなんて、反抗的な子供だね」

 雲雀の手のひらはするりと腕を絡めて、ボタンを外したシャツの胸元に指を這わせる。長い爪が力を込め、潤一郎の肌に傷を作った。

「痛……っ」
「潤一郎、君のことを壊してしまいたい」
「……酔っ払っているんですか? 雲雀先生」
「ああ、稀に見るほどに良い気分だ」

 雲雀の手は線を描くように首筋を伝い潤一郎のくちびるに。また傷をつけられるのかと覚悟した潤一郎が歯を食いしばったのを見て、雲雀は小さく笑う。

「力を抜きなさいよ、食いちぎりはしないから」
「じゃあ、何するんです?」
「キスをもう一回だけ、君の体温を感じたいんだ」
「雲雀先生、お酒は控えめにしたほうがいいですよ、こんな……」
「こんな……なに?」

 雲雀は潤一郎の言葉を塞ぐように優しくキスをした。舌もいれないでただ触れているだけの子供みたいなくちづけ方は、ただ柔らかく好きも愛してるも言わないで。

 ***

 明け方になって自室に戻った潤一郎はスケッチブックを手に、ただ思うがままにこの感情を描いた。好き嫌いの話ではなくて、描いたのは雲雀に見てしまった感情の話だ。多分きっと彼は寂しいのだろう、それを直接言うわけではなく感情をぶつけることで助けを求めている。孤独な天才、雲雀群童。ぶつけ方はめちゃくちゃだったがその孤独に共感を得ないわけではない。まるで子供だ、その手を離せば何をするのかわからない子供。
 窓のない部屋では朝も昼もわからなかった。時計も壊れているのか、ずっと針は震えっぱなし。潤一郎はこの雲雀の作った迷宮に閉じ込め取り残されてしまった。永遠の孤独、歪んだ愛情。
 ドアの向こうからは、もう直ぐ音楽が流れるのだろう。その悲しみには、やはりクラシックが似合っている。
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