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道化師
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早朝午前六時、突如大音量で寝室から海外ロックが流れ出した。飛び起きた潤一郎は来客のために追い出されたその部屋に駆け込む。
「雲雀先生、朝にそんな大きな音で音楽をかけないでください! 近所迷惑ですから……」
「近所なんて離れてるじゃないか。大きな音でかけなければ朝がきた気がしない」
「離れていても響くんですよ、この家には防音設備はないんです。雲雀先生の吉祥寺のお屋敷と違って!」
雲雀は不服そうにプレーヤーの音を止めた。そのプレーヤーも潤一郎のものではない。こんな大きなものをどうやってハイヤーに乗せてきたのかが気になった。早朝と言えど雲雀はすでに着替えてメイクも済ませ今日の服も目が眩みそうなほど派手な色をした、赤と白のストライプのシャツだった。
「朝食はまだか?」
「……俺はいま起きたばかりですよ」
「ボクの朝は早いんだ」
「知ってます、環境が違っても昔からそう言うところは変わりませんよね。雲雀先生」
雲雀に貸した潤一郎の寝室が勝手に模様替えされている。かつて雲雀の朝は確かに早かった、でも何も模様替えまで出来る程早い時間に起きなくても……目覚ましの類は使った気配がないから、自宅で過ごすように寝ていつもどうりの時間に目覚めたのだろう。寝室を明け渡し居間の畳に毛布だけで眠った潤一郎は背中が痛い。今日は絵画教室はないから朝は多少遅くても良かったのに……寝付けなかった夜と低血圧の朝。眠る前より潤一郎は疲れてしまい、ただため息をつくしかない。
「顔色が悪いな、潤一郎」
「先生が無茶な起こし方をするからじゃないですか」
「お前がそう簡単に起きないからだよ。ほら猫背になっているぞ、しゃんと伸ばさないか」
「猫背なのは元からです」
気がつけば騒ぎを聞きつけたいとが部屋を恐々と覗き込んでいた。戸惑ってはらはらした顔でこちらを見ている。雲雀はそのいとの視線に気がついて、見せ付けるように潤一郎を抱き寄せてキスをした。いとの目が見開き後ずさりをして逃げて行く。されるがままの潤一郎と笑い出す雲雀。その雲雀が乱れた潤一郎の寝間着の中に手を入れるところで、疲れた潤一郎は雲雀の手を払う。
「悪趣味なことはやめてください、雲雀先生」
「昔のように君の心臓の音が聞きたかった」
「ただ繰り返し動いているだけです、いつだって変わりません」
「それよりしばらく触れていない間にまた痩せたんじゃあないのか、君の白い肌は骨格標本を思い出すよ」
「食べても太らないだけです」
「ふふ、ボクはね君の骨格も好きなんだ。白く華奢な造りをして力を入れたら簡単に折れてしまいそうな……」
くすくすと雲雀は笑い出した。壁際でずるずると抱き合った二人が座り込む。逃げ去ったいとの戻ってくる気配はなく、また雲雀も潤一郎から離れる様子がない。
「愛してる、潤一郎」
「いつの間に俺と雲雀先生がそんな関係になってしまったんですか?」
「会えない時間が長すぎた」
「先日会ったばかりでしょう、ああそれ、もしかして俺の読みかけの恋愛小説読みましたね?」
潤一郎の寝室の枕元には小さな本棚があって、眠れない夜に備えていた小説が数冊。最近流行りの恋愛小説をどんなものかと買ったが、いくら読んでも面白くないから途中で放置していた。それを早起きして暇を持て余した雲雀が読んだのだろう。会えない時間が長すぎた、それはその小説の中盤に出てくる台詞だった。
「君、だいぶ髪が伸びたじゃないか、切ってやろうか? せっかくの二人のしるしが見えない」
「……もう塞がってますよ」
「そうかな? 先日お揃いのピアスを買ったんだ、君とボクの。塞がってしまったのならまた空けるまでだ」
雲雀の左耳にはルビーをあしらった女性もののピアスが付いている。共に暮らしていた頃に無理矢理空けられた潤一郎の左耳のピアス穴。長い黒髪に隠されても未だ穴は残っている。
「潤一郎、今度は指輪を買おうか。君の指は細いからきっと女性ものでもつけられるよ」
「嫌です女性ものは、それに指輪は絵を描くのに邪魔だから困ります」
「もう、じゃあ何ならお揃いにしてくれるんだい?」
「雲雀先生……暇なんですか」
雲雀が声を立てて笑い出した、ああ、暇なのだろう。そんな彼の突拍子もない発言の数々を潤一郎はあしらうのに疲れてしまった。全く、雲雀の悪ふざけはどうにかならないものか。時折ちょっかいを出してきては、なかなかそれをやめようとしない。
「君はそう言うけどね、ボクだって誰でも良いわけではない。誰かを愛していると言う感情、君だって抱いたことはあるだろう?」
***
朝食を作った潤一郎は二人の分をダイニングテーブルに並べて、自分のものはアトリエに持ち込んで食べることにした。これ以上雲雀の悪ふざけを構いたくはないのと、昨日の続きの仕事をするためだった。雲雀のおかげで目はすっかり覚めてしまって、少し早いが仕事を片付けてしまうことにする。午前中に済ませてしまえば午後は少しゆっくり休めるだろう。雲雀がまたちょっかいを出しに来なければの話だが。
この仕事が終わったらいとのデッサンをしようか、もともと雲雀はそのためにいとを潤一郎に押し付けたのだ。人形のようなモデル、この手でどこまで再現できるのか描いてみるのも悪くはない。しかし、モデルと言うなら本当は雲雀の方が向いているのではないかと常々潤一郎は考えていた。赤く派手な長髪にいつでもメイクは欠かさない。道化師を装う彼の本当のところ、そんな雲雀の心の奥を見たい。二年程ともに暮らしたが、結局潤一郎は彼の本心を知ることは出来なかった。
彼の中には明らかに闇がある、その闇をのぞいたらもうこの世には帰ることができないかもしれない。それほどに雲雀群童という人間は、どんな意味においても大変興味深く出来ている。
***
絵を描いているとつい昔のことを思い出してしまう。かつて潤一郎の祖父は言った、普通に生きてこそ人は幸せなでいられること。進学して就職して個性を消しながら高みを目指して生きる。ありきたりといえどそれが結局重要なのだ説き伏せて、潤一郎の描いた絵をろくに見ずに画材ごと庭で燃やした。勉強もせずに絵なんて描くんじゃない、遊びにばかり時間を使い勉強を怠るなんて愚かなことを。そう言ったいつも優しい祖父だった。彼ががここまで許さないなんて。言い返しもできずに祖父の隣で潤一郎は黙って燃えて行く作品を見ていた。口下手で言葉がうまく使えないから絵で表現するしかなかった子供。その絵すらも否定されてしまっては、潤一郎の人生もそこで終わったようなものだ。諦めた彼は静かに日々を勉強に費やすことになる。
生きがいを失い、ぼんやりと生きているだけだった潤一郎が絵と再会したのはもうじき中学に上がる頃だった。テストの時間、全問解き終わって久しぶりについらくがきをした問題用紙。教室に飾ってある花があまりに綺麗だったからと、見えるがままに描き始めたら夢中になってしまった。そばに教室を見回っていた教師が立っているのにも気付かずに。
瞬間、潤一郎の問題用紙が取り上げられる。しまった、そう思ってももう遅い。無言の男性教師、ああまた怒られてしまうのか……絵なんて描くんじゃなかった。しかし後悔した潤一郎に、男性教師は笑顔を向けて手に持っていた赤ペンではなまるをした。
「君のような絵は僕には描けない。その才能が羨ましいよ」
才能、彼は一体何を言っているのか。返された問題用紙、呆然としていた潤一郎の目から一筋の涙が流れる。絵を描き出して初めてもらったまるだった。自由に絵を描いても認めてくれる人はいる……そうしてお小遣いで少しずつ潤一郎は祖父母に内緒で新しく画材を買い始めた。その画材で夜になると辺りが寝たのを見計らって潤一郎は暗い部屋で何枚も何枚も絵を描くようになる。
先日、図書館から借りたデッサンの本を繰り返し読んでは毎晩それを模写した。繰り返し描いた絵は机の中に隠して、そのせいで引き出しが開かなくなる頃にやっと潤一郎は中学に入学した。祖父母の前で勇気を出して勉強の成績を落とさないことを条件に、頭を下げてなんとか美術部に入部する許可を得る。渋々の祖父母だったが、これをきっかけに少しだけ彼の人生に希望が出来た。希望とは生きるために必要なものだなんて言ったら大げさだが、がんじがらめに縛られていた潤一郎の心が解き放たれていった瞬間を忘れない。
テレビの特集をみているとなんでも雲雀群童というアーティストが東京で人気らしいことを知る。部活の時間に潤一郎は同級生が持っていた美術雑誌を見せてもらった。かの雲雀群童が表紙のその巻頭特集で雲雀の作品を見たときの衝撃を忘れはしない。
これは普通ではない、いままで誰も描いたことがないもの、なんて斬新で刺激的な作品なんだ……。
この絵が世の中で評価されないわけはない。誰もたどり着けなかった場所に雲雀はいる、個性がないどころか個性しかない。
ああ、彼こそが天才だ、ついに現れた天才によって潤一郎はようやく目を覚ます。表現とは、生きることである。学歴は知らないが普通の人生を送る人ではないだろう。己の表現をここまで作り上げた彼が不幸せなはずはない。そう思ったのは潤一郎だけではなかったらしい。それからも圧倒的若者に支持される雲雀群童という男はやがて一世を風靡した。彼に憧れた潤一郎は怒涛のごとく絵を描くことにのめり込んでいった。もう誰も止められない。そうして時を経て、潤一郎はついに彼にたどり着くのだ。
公募展が終わっても二人の関係は続いていた。喫茶店で雲雀にポートフォリオを渡してアドバイスをせがむ。雲雀は真剣な顔をして潤一郎の作品を見つめていた。
「潤一郎、君の絵は確かに技術的なものはまだまだだがその奥に隠されているものは唯一無二であると言い切れる。だからもっと自由になればいいよ」
「自由ですか、雲雀先生」
「一枚の絵に時間をかけてじっくり向き合うんだ、納得するまで描き続けるんだよ。その感性を持ってすればすぐに見えてくるものがあるだろう」
「……」
潤一郎なりに作品には向き合っているつもりではあった、しかしまだ足りないと。雲雀の言葉に潤一郎はさらに作品と向き合うように努力をした。しかしそんなことをしていたらバイトを削っても時間が足りなくなってしまった。あと少しの時間があれば何かが見えてきそうなのに、それでも生きるためには最低限の収入を得ることも必要で。
寝不足と食事の時間も足りないまま絵とバイトをやりくりしているうちに体力が削られ、潤一郎はある朝起きようと思ったら眩暈がひどくて起きられなくなっていた。なんとか起き上がるも眩暈と身体に力が入らない……震える手で必死に携帯電話を引き寄せて着信履歴から一番近い番号をタップする。反応はすぐにあった。
「もしもし、潤一郎かい? どうしたんだこんな朝早くから珍しい……え、なんだって?」
助けて、そう言うのが精一杯だった。そのまま携帯電話を手から滑らせて潤一郎の意識は落ちて行った。
***
「君は何をやっているんだ!」
目を覚ました潤一郎が最初に見たのは、赤く派手な髪色で怒鳴り散らす人形だった。ぼうっとしながら彼を見ているうちにそれは人形でなく、雲雀群童だと思い出す。
「え……?」
「え、じゃない! そんな身体で無理をして何を考えているんだ!」
怒鳴り声が響いている。辺りはやけに薬臭くここは明らかに自宅ではない、病院か、しかしなぜいまここに?
そう言えば意識が途切れる寸前に携帯電話で助けを求めた気がする。無造作に誰かわからずタップした番号は雲雀群童のものだったのか……。
利き腕の左腕に点滴がぶら下げられている。幸い祖母にしつけられて右腕も使えるからそれほど困ることではなかったが。
「命に関わる、その危険性も言われたがね?」
「すみません、雲雀先生、他に頼れる人が誰もいなかったんです。助けを求めてしまって申し訳ない……」
「両親も親戚もいないのか?」
「祖父母が数年前に亡くなりました、両親も親戚ももう会ってはいません」
潤一郎の通帳の残高は給料日までまだあると言うのにもう数百円を切っていた。これでは病院代も払えない、そう言って帰ろうと起き上がる潤一郎を雲雀は簡単に押し倒す。
「ひ、雲雀先生……?」
「……確かに自由を求める以上、資金は必要だな。君も技術は上がってきたしそろそろ世間から声もかかるだろう。決まった、君はボクの家に来るといい」
「え?」
「吉祥寺にボクの家がある。あいにく一人暮らしには広すぎて暇をしていたんだ。衣食住を保証すれば君も安心して絵が描けるだろう。いまのアパートの大家さんにためた家賃を払ってあげるよ、そうすれば君は晴れて自由の身となる。いいかい、ボクのために絵を描くんだ、皆月潤一郎」
「雲雀先生、朝にそんな大きな音で音楽をかけないでください! 近所迷惑ですから……」
「近所なんて離れてるじゃないか。大きな音でかけなければ朝がきた気がしない」
「離れていても響くんですよ、この家には防音設備はないんです。雲雀先生の吉祥寺のお屋敷と違って!」
雲雀は不服そうにプレーヤーの音を止めた。そのプレーヤーも潤一郎のものではない。こんな大きなものをどうやってハイヤーに乗せてきたのかが気になった。早朝と言えど雲雀はすでに着替えてメイクも済ませ今日の服も目が眩みそうなほど派手な色をした、赤と白のストライプのシャツだった。
「朝食はまだか?」
「……俺はいま起きたばかりですよ」
「ボクの朝は早いんだ」
「知ってます、環境が違っても昔からそう言うところは変わりませんよね。雲雀先生」
雲雀に貸した潤一郎の寝室が勝手に模様替えされている。かつて雲雀の朝は確かに早かった、でも何も模様替えまで出来る程早い時間に起きなくても……目覚ましの類は使った気配がないから、自宅で過ごすように寝ていつもどうりの時間に目覚めたのだろう。寝室を明け渡し居間の畳に毛布だけで眠った潤一郎は背中が痛い。今日は絵画教室はないから朝は多少遅くても良かったのに……寝付けなかった夜と低血圧の朝。眠る前より潤一郎は疲れてしまい、ただため息をつくしかない。
「顔色が悪いな、潤一郎」
「先生が無茶な起こし方をするからじゃないですか」
「お前がそう簡単に起きないからだよ。ほら猫背になっているぞ、しゃんと伸ばさないか」
「猫背なのは元からです」
気がつけば騒ぎを聞きつけたいとが部屋を恐々と覗き込んでいた。戸惑ってはらはらした顔でこちらを見ている。雲雀はそのいとの視線に気がついて、見せ付けるように潤一郎を抱き寄せてキスをした。いとの目が見開き後ずさりをして逃げて行く。されるがままの潤一郎と笑い出す雲雀。その雲雀が乱れた潤一郎の寝間着の中に手を入れるところで、疲れた潤一郎は雲雀の手を払う。
「悪趣味なことはやめてください、雲雀先生」
「昔のように君の心臓の音が聞きたかった」
「ただ繰り返し動いているだけです、いつだって変わりません」
「それよりしばらく触れていない間にまた痩せたんじゃあないのか、君の白い肌は骨格標本を思い出すよ」
「食べても太らないだけです」
「ふふ、ボクはね君の骨格も好きなんだ。白く華奢な造りをして力を入れたら簡単に折れてしまいそうな……」
くすくすと雲雀は笑い出した。壁際でずるずると抱き合った二人が座り込む。逃げ去ったいとの戻ってくる気配はなく、また雲雀も潤一郎から離れる様子がない。
「愛してる、潤一郎」
「いつの間に俺と雲雀先生がそんな関係になってしまったんですか?」
「会えない時間が長すぎた」
「先日会ったばかりでしょう、ああそれ、もしかして俺の読みかけの恋愛小説読みましたね?」
潤一郎の寝室の枕元には小さな本棚があって、眠れない夜に備えていた小説が数冊。最近流行りの恋愛小説をどんなものかと買ったが、いくら読んでも面白くないから途中で放置していた。それを早起きして暇を持て余した雲雀が読んだのだろう。会えない時間が長すぎた、それはその小説の中盤に出てくる台詞だった。
「君、だいぶ髪が伸びたじゃないか、切ってやろうか? せっかくの二人のしるしが見えない」
「……もう塞がってますよ」
「そうかな? 先日お揃いのピアスを買ったんだ、君とボクの。塞がってしまったのならまた空けるまでだ」
雲雀の左耳にはルビーをあしらった女性もののピアスが付いている。共に暮らしていた頃に無理矢理空けられた潤一郎の左耳のピアス穴。長い黒髪に隠されても未だ穴は残っている。
「潤一郎、今度は指輪を買おうか。君の指は細いからきっと女性ものでもつけられるよ」
「嫌です女性ものは、それに指輪は絵を描くのに邪魔だから困ります」
「もう、じゃあ何ならお揃いにしてくれるんだい?」
「雲雀先生……暇なんですか」
雲雀が声を立てて笑い出した、ああ、暇なのだろう。そんな彼の突拍子もない発言の数々を潤一郎はあしらうのに疲れてしまった。全く、雲雀の悪ふざけはどうにかならないものか。時折ちょっかいを出してきては、なかなかそれをやめようとしない。
「君はそう言うけどね、ボクだって誰でも良いわけではない。誰かを愛していると言う感情、君だって抱いたことはあるだろう?」
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朝食を作った潤一郎は二人の分をダイニングテーブルに並べて、自分のものはアトリエに持ち込んで食べることにした。これ以上雲雀の悪ふざけを構いたくはないのと、昨日の続きの仕事をするためだった。雲雀のおかげで目はすっかり覚めてしまって、少し早いが仕事を片付けてしまうことにする。午前中に済ませてしまえば午後は少しゆっくり休めるだろう。雲雀がまたちょっかいを出しに来なければの話だが。
この仕事が終わったらいとのデッサンをしようか、もともと雲雀はそのためにいとを潤一郎に押し付けたのだ。人形のようなモデル、この手でどこまで再現できるのか描いてみるのも悪くはない。しかし、モデルと言うなら本当は雲雀の方が向いているのではないかと常々潤一郎は考えていた。赤く派手な長髪にいつでもメイクは欠かさない。道化師を装う彼の本当のところ、そんな雲雀の心の奥を見たい。二年程ともに暮らしたが、結局潤一郎は彼の本心を知ることは出来なかった。
彼の中には明らかに闇がある、その闇をのぞいたらもうこの世には帰ることができないかもしれない。それほどに雲雀群童という人間は、どんな意味においても大変興味深く出来ている。
***
絵を描いているとつい昔のことを思い出してしまう。かつて潤一郎の祖父は言った、普通に生きてこそ人は幸せなでいられること。進学して就職して個性を消しながら高みを目指して生きる。ありきたりといえどそれが結局重要なのだ説き伏せて、潤一郎の描いた絵をろくに見ずに画材ごと庭で燃やした。勉強もせずに絵なんて描くんじゃない、遊びにばかり時間を使い勉強を怠るなんて愚かなことを。そう言ったいつも優しい祖父だった。彼ががここまで許さないなんて。言い返しもできずに祖父の隣で潤一郎は黙って燃えて行く作品を見ていた。口下手で言葉がうまく使えないから絵で表現するしかなかった子供。その絵すらも否定されてしまっては、潤一郎の人生もそこで終わったようなものだ。諦めた彼は静かに日々を勉強に費やすことになる。
生きがいを失い、ぼんやりと生きているだけだった潤一郎が絵と再会したのはもうじき中学に上がる頃だった。テストの時間、全問解き終わって久しぶりについらくがきをした問題用紙。教室に飾ってある花があまりに綺麗だったからと、見えるがままに描き始めたら夢中になってしまった。そばに教室を見回っていた教師が立っているのにも気付かずに。
瞬間、潤一郎の問題用紙が取り上げられる。しまった、そう思ってももう遅い。無言の男性教師、ああまた怒られてしまうのか……絵なんて描くんじゃなかった。しかし後悔した潤一郎に、男性教師は笑顔を向けて手に持っていた赤ペンではなまるをした。
「君のような絵は僕には描けない。その才能が羨ましいよ」
才能、彼は一体何を言っているのか。返された問題用紙、呆然としていた潤一郎の目から一筋の涙が流れる。絵を描き出して初めてもらったまるだった。自由に絵を描いても認めてくれる人はいる……そうしてお小遣いで少しずつ潤一郎は祖父母に内緒で新しく画材を買い始めた。その画材で夜になると辺りが寝たのを見計らって潤一郎は暗い部屋で何枚も何枚も絵を描くようになる。
先日、図書館から借りたデッサンの本を繰り返し読んでは毎晩それを模写した。繰り返し描いた絵は机の中に隠して、そのせいで引き出しが開かなくなる頃にやっと潤一郎は中学に入学した。祖父母の前で勇気を出して勉強の成績を落とさないことを条件に、頭を下げてなんとか美術部に入部する許可を得る。渋々の祖父母だったが、これをきっかけに少しだけ彼の人生に希望が出来た。希望とは生きるために必要なものだなんて言ったら大げさだが、がんじがらめに縛られていた潤一郎の心が解き放たれていった瞬間を忘れない。
テレビの特集をみているとなんでも雲雀群童というアーティストが東京で人気らしいことを知る。部活の時間に潤一郎は同級生が持っていた美術雑誌を見せてもらった。かの雲雀群童が表紙のその巻頭特集で雲雀の作品を見たときの衝撃を忘れはしない。
これは普通ではない、いままで誰も描いたことがないもの、なんて斬新で刺激的な作品なんだ……。
この絵が世の中で評価されないわけはない。誰もたどり着けなかった場所に雲雀はいる、個性がないどころか個性しかない。
ああ、彼こそが天才だ、ついに現れた天才によって潤一郎はようやく目を覚ます。表現とは、生きることである。学歴は知らないが普通の人生を送る人ではないだろう。己の表現をここまで作り上げた彼が不幸せなはずはない。そう思ったのは潤一郎だけではなかったらしい。それからも圧倒的若者に支持される雲雀群童という男はやがて一世を風靡した。彼に憧れた潤一郎は怒涛のごとく絵を描くことにのめり込んでいった。もう誰も止められない。そうして時を経て、潤一郎はついに彼にたどり着くのだ。
公募展が終わっても二人の関係は続いていた。喫茶店で雲雀にポートフォリオを渡してアドバイスをせがむ。雲雀は真剣な顔をして潤一郎の作品を見つめていた。
「潤一郎、君の絵は確かに技術的なものはまだまだだがその奥に隠されているものは唯一無二であると言い切れる。だからもっと自由になればいいよ」
「自由ですか、雲雀先生」
「一枚の絵に時間をかけてじっくり向き合うんだ、納得するまで描き続けるんだよ。その感性を持ってすればすぐに見えてくるものがあるだろう」
「……」
潤一郎なりに作品には向き合っているつもりではあった、しかしまだ足りないと。雲雀の言葉に潤一郎はさらに作品と向き合うように努力をした。しかしそんなことをしていたらバイトを削っても時間が足りなくなってしまった。あと少しの時間があれば何かが見えてきそうなのに、それでも生きるためには最低限の収入を得ることも必要で。
寝不足と食事の時間も足りないまま絵とバイトをやりくりしているうちに体力が削られ、潤一郎はある朝起きようと思ったら眩暈がひどくて起きられなくなっていた。なんとか起き上がるも眩暈と身体に力が入らない……震える手で必死に携帯電話を引き寄せて着信履歴から一番近い番号をタップする。反応はすぐにあった。
「もしもし、潤一郎かい? どうしたんだこんな朝早くから珍しい……え、なんだって?」
助けて、そう言うのが精一杯だった。そのまま携帯電話を手から滑らせて潤一郎の意識は落ちて行った。
***
「君は何をやっているんだ!」
目を覚ました潤一郎が最初に見たのは、赤く派手な髪色で怒鳴り散らす人形だった。ぼうっとしながら彼を見ているうちにそれは人形でなく、雲雀群童だと思い出す。
「え……?」
「え、じゃない! そんな身体で無理をして何を考えているんだ!」
怒鳴り声が響いている。辺りはやけに薬臭くここは明らかに自宅ではない、病院か、しかしなぜいまここに?
そう言えば意識が途切れる寸前に携帯電話で助けを求めた気がする。無造作に誰かわからずタップした番号は雲雀群童のものだったのか……。
利き腕の左腕に点滴がぶら下げられている。幸い祖母にしつけられて右腕も使えるからそれほど困ることではなかったが。
「命に関わる、その危険性も言われたがね?」
「すみません、雲雀先生、他に頼れる人が誰もいなかったんです。助けを求めてしまって申し訳ない……」
「両親も親戚もいないのか?」
「祖父母が数年前に亡くなりました、両親も親戚ももう会ってはいません」
潤一郎の通帳の残高は給料日までまだあると言うのにもう数百円を切っていた。これでは病院代も払えない、そう言って帰ろうと起き上がる潤一郎を雲雀は簡単に押し倒す。
「ひ、雲雀先生……?」
「……確かに自由を求める以上、資金は必要だな。君も技術は上がってきたしそろそろ世間から声もかかるだろう。決まった、君はボクの家に来るといい」
「え?」
「吉祥寺にボクの家がある。あいにく一人暮らしには広すぎて暇をしていたんだ。衣食住を保証すれば君も安心して絵が描けるだろう。いまのアパートの大家さんにためた家賃を払ってあげるよ、そうすれば君は晴れて自由の身となる。いいかい、ボクのために絵を描くんだ、皆月潤一郎」
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