孤立無援の糸

雨水林檎

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去る月

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 潤一郎が絵画教室の授業を終えたのは昼過ぎのことだった。いつもなら昼食は駅前で安い適当な店に入ってから帰るところだったが、今日の家にはいとが。おにぎりは用意して来たがあれだけでは足りないだろう。今日は自宅少し前のバス停で降りてスーパーマーケットで食材でも買って帰ろう。一人暮らしの日々はあまり自炊する気にもなれなかったが、誰か食べてくれる人がいるのなら。そう考えると潤一郎の心は少し明るくなった、別に料理作りがそこまで好きと言うわけではないのだが。
 家事は休日の度に祖母が教えてくれた。一人でもちゃんと生きていかねばいけないのだからと、勉強の合間に炊事洗濯。何も言わずに手伝ってはいたが厳しい祖母と潤一郎の関係はそれほど近いものではなかった。滅多に笑顔を見た覚えもなく褒められたこともない。しかしいまでも家の手入れの仕方を覚えていた。その点において祖母は潤一郎の人生に大きな影響を与えた保護者だったのだ。
 スーパーマーケットで両手いっぱいの食材を購入し、潤一郎は木々の繁った路肩を歩く。バスがもう少し本数があれば良かったのに……しかしいまの家は交通の便の悪さも考慮され家賃を割り引いてもらっているので文句は言えないし、静かに創作活動をするには他にはない程の良い物件でもある。
 午後二時を過ぎて潤一郎は帰宅した。玄関の前ではいとが立って待っている。

「どうしたんだ、こんなところで」
「お帰りなさい、先生」
「ただいま、部屋の中に入って待っていればいいのに」
「いつ帰っていらっしゃるのかがわからなくて……お迎えを」
「……携帯電話を持っていれば良かったな」

 顔を合わせたいとは不安でいっぱいの顔からにこやかにどこか安心したような顔をした。周りに住人もおらず、娯楽もない。不安になるのも仕方がないことだろう。

「家に入ろう、食事を作るよ」

 ***

 食事を終えて二人は一緒に皿を洗った。狭い台所に二人、いとが手伝いたいと言って聞かないから潤一郎は皿の洗い方を教えて、隣で教えた通り皿を洗ういとを見ていた。その懸命な表情に心が少し和む。一方で潤一郎は悩んでもいる。雲雀群童はいとを絵のモデルにしろと言って潤一郎に託したのだ。潤一郎だって描いてみたい気がないわけではない。いつもの仕事ならさっさと描いてモデルには帰ってもらっているが、いとは違った。まだいまは描きたくない。潤一郎はもう少しでもいいから、いととこうして穏やかに一緒に過ごしたかった。

「先生、洗い物は意外と手間がかかりますね。冬は水が冷たいでしょう」
「冷たくて目が覚めるよ、寒いほうがいいんだ。頭がすっきりして絵も捗る」
「雲雀先生も絵を描くときは大きな音で音楽をかけて誰も部屋にはいれませんでした」
「雲雀先生は生粋のアーティストだから、俺も彼のアトリエには入ったことがない。二年程下宿していたんだけどね」
「え、あのお屋敷にですか?」

 雲雀群童との出会い、潤一郎はその頃金銭的に余裕がなく、アパートの家賃が払えなくなって食事にも困っていた。全てを知った雲雀はすべてを金で解決したのち、潤一郎を自らの屋敷に呼び寄せた。部屋数だけは無数にあって、すべて家具は海外の高級品。しかし潤一郎の部屋はその家具に窓を塞がれて外を見ることは許されなかった。

「あの家には呪いのようなものがある。絵を描かずにいられないような……描き上げても描き上げても腕が勝手に動いて、魂ごと侵食されるみたいなものか。俺の古い画集の絵のほとんどが雲雀先生の家で描いたものだよ。いまこの家であの作品を描き直せって言われても無理だろうね。あの画集を作り上げたのも雲雀群童の才能の一つだよ」

 ***

「潤一郎、面白いことを思いついたんだ!」

 深夜三時に力いっぱい揺り起こされた。皆月潤一郎が雲雀群童の屋敷にやって来て以来、二十四時間すっかり潤一郎は雲雀のおもちゃだ。彼はいつだって気が向けば勝手に部屋に入って来ては無理矢理に潤一郎を誘う。

「雲雀先生」
「朝が来るまであと数時間はある、少し庭に出よう。鉛筆とスケッチブックでいいから持っておいで。夜の裏側を描くのにはちょうどいい時間だ」
「夜の裏側……?」

 また意味のわからないことを言っている。雲雀の思いつきはほとんど意味がわからないものだった。それはきっと彼の持つ才能、天才のひらめきは凡人には届かないところにあるから……。
 潤一郎は重い身体を起こして、ふらつきながら画材を持って潤一郎を追う。寝起きは良い方ではないし、そもそも二日ほど徹夜して絵を描き上げたばかりだと言うのに。

「ゴホッ! ゴホゴホッ……ハァ……ハァ」

 冬の空気が潤一郎の呼吸を妨げる。なんて冷えた夜だ、雪の降る季節がいつの間にか。潤一郎の自室の窓は塞がれているから、基本朝も夜もわからない。空調が効いていても、本当の季節は肌で感じることが人間としては自然なこと。ただ冷えた空気では咳が止まらないのが不快だ、一旦咳が出ると息が出来ない。しかし雲雀はそんな潤一郎を振り返りもせず好き勝手に走って行ってしまった。必死で潤一郎は立ち止まり呼吸を整える。当時の潤一郎は二十五歳になったばかり、その年の誕生日は雲雀の屋敷で迎えた。生活に困ることはなかったが、彼の気まぐれの思いつきに自由を妨げられることは多い。雲雀群童、悪い人間ではないのはわかっているが。
 雲雀の名を知ったのは潤一郎が中学生になった頃だろうか。海外から聞こえて来た噂はエンターテイメントに敏感な年頃の少年の耳にすぐ入って来た。彼の描く絵は意味がわからないほどに現実離れをしていて、けれど目をそらすことは出来ない。恐ろしいとも思った。それらの作品は見たものの五感を刺激する。
 都会の交差点の側のディスプレイに彼の作品が映し出されて、立ち止まってしまったものが何人いたか。年齢不詳のアーティスト、メディアに露出すれば賑やかに話し出すが基本その言動は意味がわからない。けれど人々は彼の才能を求めた。絵画から音楽、映像作品と彼の手がける世界はヒットを重ね、展覧会は数時間の入場待ち。プロもアマチュアも創造者と呼ばれるものは皆雲雀に憧れていた、もちろん若き潤一郎も。

「早く早く、潤一郎!」
「ゲホッ……待ってください、なんですか今日は」
「去る月と現れる太陽、夜の裏には何がある?」
「意味がわかりません」

 強い風に雪が舞っていた。こんな寒い日に上着も着ないで出て来てしまったことに潤一郎は後悔する。震える手で画材を持って、雲雀に急かされるままに庭のベンチに腰掛けた。

「月の悲しみと迎える太陽のよろこび、描いてごらん。男性でも女性でも良い人物として表現すること、君の見る世界をボクに見せてくれ」
「俺の見る世界……?」
「世界は人それぞれ、いまの潤一郎の見ているものをボクもこの目で見たい」

 冷える空気の中、時折咳き込みながら雲雀の言うままに潤一郎は筆をとった。
 悲しむのは誰だ? 顔を上げれば雲雀と目があった。やがて潤一郎は学生の頃、絵を描きながら迎えた朝に見た雨上がりの虹に美しく彩られた空を思い出す。太陽は虹を手にすることで朝を愛して輝き出した。一方で夜を終えた月は孤独の背中を向けてただ寂しく舞台を去って行く……。
 一日の始まり、今日いままさに生まれるものと力及ばず死んで行くもの、生と死の無情。それを描けと雲雀は言うのか。潤一郎の手は凍えてもなお絵を描き続けた。雲雀は隣でスケッチブックに描かれる潤一郎の世界を見つめて離さない。そして潤一郎が一枚の絵を描き終えたのは夜がすっかり明けた頃のことだった。

 ***

「先生。私、夕食を作ろうと思います。この献立の本貸してください」

 夕方、潤一郎がアトリエで仕事をしているとそっと扉の向こうからノックとともにいとの声が聞こえた。扉を開けるといとが本棚にしまってあった『簡単に出来る料理の本』を持っている。昔、潤一郎が実家を出て自炊を始める時に祖母から教えてもらったものを作り飽きたのでレパートリーを増やすために買ったものだった。

「無理して家事をすることはないよ、仕事ももう少ししたら終わるから」
「私も何かお手伝いしたいんです。駄目ですか?」
「いと……」

 無理をしなくても追い出しはしないから、しかし何もしないで一日を過ごすのもつまらないだろう。そう考えて潤一郎は夕食をいとに任せることにした。困ったら呼ぶから潤一郎は仕事を、との言葉に甘えて潤一郎は再びアトリエで仕事を再開する。一人の暮らしは食事時間も決まってはいなかったが、こうして食事を待ちながら過ごす楽しみはなかった。いとが怪我をしないのかは心配だったが……遠くからいとの足音が聞こえて再び扉をノックしたのはそれから一時間後のことだった。

「いただきます」
「せ、先生……」

 いとの作ったのは焦げて形の崩れたハンバーグと味の薄い味噌汁だった。味噌汁は材料の豆腐も潰れてしまって、いとは落ち込んだ顔をしてダイニングテーブルの向かいに座っている。

「先生、無理して食べないでも良いですよ。こんなにハンバーグが難しいなんて知らなかった。焦げてしまったし、きっと味は美味しくありません……」
「そうかな、美味しいよ。形だって気にするほどおかしいわけじゃない。食べてごらん、美味しい、大丈夫だから」

 唯一炊き上がった米だけはきらきらと輝いている。この家にある古い炊飯器は水加減や研ぎ方でうまく機嫌をとらないとすぐ硬くなってしまうのに。

「白米が美味しい、安い米なんだけどね。よくうまく炊けたものだ、才能あるよ」
「先生……」

 戸惑いながらいともおかずと白米を口にして少しずつ食べだした。その白米が本当に美味しかったからかいとの表情は少し明るくなり、次第に表情が緩んで嬉しそうな顔になる。二人の食事は静かに、夕暮れの空を眺めながら。それはどこかで見た家族の風景にも似ている。

 ***

 二人が夕食を終えた頃、誰かが玄関の引き戸を開けて声をかける。突然、日も暮れたこんな時間に誰が来たのかと潤一郎といとは目を合わせた。潤一郎が応対しようと玄関に向かうと靴を脱いだ来客は足音を立てて勝手に家の中に上がってきた。

「ちょっと! どなたです……え?」
「ふふふ」
「な、何の用ですか」
「何って来ちゃ悪かったかい? 遊びにくるって言ったじゃないか」
「雲雀先生……」

 雲雀、その言葉を聞いたいとも慌てて玄関に駆けつけた。玄関の向こうからは雲雀の乗ってきたらしい一台のハイヤーが静かに去って行く。

「おや、なにやらいい香りだねえ。夕食の時間か、ボクの分はあるのかな?」
「ないですよ、今日いらっしゃるなんて聞いていませんでしたし」
「それは残念、まあ食べ損ねるかと思ってお菓子を持ってきたんだけどね。海外土産のお菓子をいくつか、夜は長い、食後のコーヒータイムとして楽しもうか」
「コーヒーって……せ、先生」
「なんだい、潤一郎。ほらほらさっさと居間に案内しないか。いとも来ていると言うのにボクが来てはいけないなんて話はないだろう? 今日からしばらくこの家に厄介になる。使っていない部屋はないのか」

 トランク三つとボストンバッグ二つが玄関に置いてあった。そのしばらくは恐らく今日明日までと言う話ではない。静かだったこの家に潤一郎の意思とは関係なく次々と同居人が増えていく、混乱する潤一郎にはその現実を認めるまでしばしの時間が必要だった。
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