倫理的恋愛未満

雨水林檎

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第一話

04

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 夕方、誰もいない薄暗い家の鍵を回して開ける。室内からは使っている母親の好きな海外製の柔軟剤の香りがして嫌になる。幸知は荷物を玄関に置いたままベランダの洗濯物を取り込んで、寝間着を持ち風呂場に入っていった。風呂に湯を張るのは面倒だったからここのところは毎日シャワーですませている。

(痩せてきたかな……)

 幸知はシャワーを浴びながら鏡を前にして自分の身体を観察していた。その身体はあまりに痩せて、皮膚が包んだ骨の形が痛々しくもよくわかる。それでもまだ満足できなくて、幸知は眉を寄せて鏡にシャワーヘッドを向けた。

(以前のほうがもっと骨が浮いていたのに、でも体重は明らかに減っているから、これからは空いた時間を運動時間にすればいいのか……もう、嫌だ。僕は絶対にあの人みたいには太りたくない)

「ちょっと幸知、幸知? いるんでしょう! 出てきなさい、この……っ!」

 怒鳴り声とともに幸知の母親が帰宅したのは夜九時も過ぎたころだった。真っ暗な廊下を大きな足音を立てて駆けてきた母は、鍵をかけた幸知の部屋のドアをひどくてのひらで叩きつけて何度も大声で責め立てた。

「きったないわね! 玄関の靴くらいそろえておきなさいよ、ところでねえ、洗濯は? 自分のものは片づけたの?」

 もう眠ろうと思っていた、しかし母はそんな幸知のことは考えもせず一日の終わりのストレスを無条件にぶつけてくる。

「洗濯物は、片づけました」
「しわになってないでしょうね?」
「……」
「あなたがきちんとしていないと、お母さんが外でなんて言われるかわかってるの? ああもう、それにしてもお父さんは何をやっているのかしら。こんな時間を過ぎても仕事だなんて、まったく私より給料低いくせに……」

 ドア越しで幸知はそれ以上の言葉を聞かないように耳を塞いだ。母のヒステリックな声には無条件に心が怯えてしまう、それは幼い頃からのことだったから。怒鳴りつけてすっきりとしたのか音を立てて母はリビングに戻っていったようだった。その足音は重く、母はすっかり太っている。

(ああ、あの人みたいには……どうか、どうか朝なんかこのまま来なければ良い。この世界はなんて暗くて狭く息苦しい)

 ずるずるとベッドに寄りかかって、幸知は床に転がっていたスマホを手に。だからと言って相談できる友達どころか、両親の連絡先くらいしか入ってはいなかったのだが。 
 しかしその連絡先が、今日一つ増えた。 

(久賀野神無……くがの……、)

 そしてためらいながら、幸知は帰りに寄ったコンビニ袋の中のフルーツ味のエナジーバーを一本取りだす。一食分のエネルギーと書いてある、それは今日一日で初めての食事だった。

(これを食べたらまた一日生き延びてしまう、それでもいいかな。明日、また何か良いことがあったら)

 叶わない希望は抱かない、けれどそんな幸知をもしかしたら再び彼が救ってくれるのかもしれないから、と。
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