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診療記録 ー
患者・住吉カナデ1-5
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あの子がいた。
夢の中に、死んだはずのあの子がいたのだ。
あの子は。宗次郎は。
3歳で死んだのだ。
私が9歳の時だ。
その後迎えた10歳の誕生日などなかった。
暗い、暗い絶望の淵ぎりぎりで
母は、いつも泣いていた。
私はそれを目の端でとらえては、トイレにこもって泣いた。
あの子は、死んだはずなんだ。
「何、これ…」
やっと出た言葉だった。
肺の奥の方からやっとの思いで声を絞り出した。
いろいろな感情や記憶がぐるぐると全身を巡って整理できない。
ふと右を、みた。
黒い眼球がこちらを向いていた。
辛いも、苦しいも、悲しいもなく、涙が頬を伝っていくのがわかった。
勝手に目から、壊れて閉まり切らない蛇口からぼたぼた水が垂れるように
ぼたっ、ぼたっと頬をつたったものが胸元に落ちた。
Tシャツが濡れて、肌が汗と一緒に湿った。
空気を吸ってばかりで、うまく吐き出せなかった。
ひゅー、ひゅーと喉が鳴って、過呼吸で舌がぴりぴりした。
感情はぐちゃぐちゃなのに、それ以外の状況は、まるで他人が観察しているように俯瞰でとらえられた。
私は、フラフラするのを我慢して立ち上がり両足に力をこめた。
胃の奥のほうの黒い塊を吐き出すように
黒い眼球を真正面から見て、言った。
自分でも、予想していないくらいの大きい声だった。
「何、これ…なんなの!」
私は吐き捨てるように言うと、急いで部屋を出た。
部屋を出て、廊下を走った。
膝かっくんをされながら走っているみたいに、何度も膝がかくんかくんと折れた。
逃げ出すように部屋を出たが、すぐ
荷物を置いて来たことに気づいた。
私は、廊下の先にある、ロビーのソファに腰をおろし、何度か、大きく息をはきだした。
子供のころ、トイレで泣きすぎて何度も過呼吸になった。
息を吐き出せば治ることを学んでいた。
どうしよう
考えても仕方がない。
荷物を、取りに戻らなきゃ。
呼吸をなんとかととのえると、顔をあげた。
一瞬ぎくりとした。
黒い眼球の先生が、すぐ近くにいた。
「お荷物…」
そういうと、ひと席あけたとなりに、
先生は腰をおろした。
「大丈夫ですか?」
「……樋口先生は……」
「はい?」
「樋口先生は、大丈夫、という言葉をなるべく使わずに会話しようね、とおっしゃいました……
日本人は、大丈夫ですか?と聞かれたら、大丈夫でなくても、大丈夫ですと返してしまうから…
本音が隠れてしまうから、だそうです……」
「……なるほど…不勉強でした。すみません。」
「べつに…樋口先生の言葉を思い出しただけです。」
「樋口先生のおっしゃる事は最もだと思います。私も、いつも勉強させていただいてるんですよ。」
「……そうですか…」
「私もね、」
「…はい?」
「私も、夫を亡くしました。」
「……」
「私は、アメリカで脳と夢の勉強をしていました。渡米する前に、当時お付き合いしていた彼にお別れしましょうといったら、
じゃあ結婚しましょうと言われて。
私のせいで一緒にアメリカに行くことになったんです。」
「…私の、せいで?」
「私のせいでアメリカに行くことになって、事故に巻き込まれて、亡くなりました。
私のせいです。私が、ひとりでアメリカに行くべきだったんです。」
「べつに…先生のせいじゃ…ないんじゃないですか。」
「樋口先生も、そう仰います。でもそう簡単に割り切れない、カナデさんもそう思いませんか。」
私も、心のどこかで、
宗次郎が死んだのは自分のせいだと
思っていた。
ふと空(くう)を見上げて先生は、一瞬迷ったようにみえた。
すうっと息を吸うと、口を、開いた。
「私…夢を見るんです、夫の。」
「…はい」
「寝ている時ではなく、ここで。」
「……え?ここで、ですか?」
「そうです、さっきの、装置をつけて。」
夢の中に、死んだはずのあの子がいたのだ。
あの子は。宗次郎は。
3歳で死んだのだ。
私が9歳の時だ。
その後迎えた10歳の誕生日などなかった。
暗い、暗い絶望の淵ぎりぎりで
母は、いつも泣いていた。
私はそれを目の端でとらえては、トイレにこもって泣いた。
あの子は、死んだはずなんだ。
「何、これ…」
やっと出た言葉だった。
肺の奥の方からやっとの思いで声を絞り出した。
いろいろな感情や記憶がぐるぐると全身を巡って整理できない。
ふと右を、みた。
黒い眼球がこちらを向いていた。
辛いも、苦しいも、悲しいもなく、涙が頬を伝っていくのがわかった。
勝手に目から、壊れて閉まり切らない蛇口からぼたぼた水が垂れるように
ぼたっ、ぼたっと頬をつたったものが胸元に落ちた。
Tシャツが濡れて、肌が汗と一緒に湿った。
空気を吸ってばかりで、うまく吐き出せなかった。
ひゅー、ひゅーと喉が鳴って、過呼吸で舌がぴりぴりした。
感情はぐちゃぐちゃなのに、それ以外の状況は、まるで他人が観察しているように俯瞰でとらえられた。
私は、フラフラするのを我慢して立ち上がり両足に力をこめた。
胃の奥のほうの黒い塊を吐き出すように
黒い眼球を真正面から見て、言った。
自分でも、予想していないくらいの大きい声だった。
「何、これ…なんなの!」
私は吐き捨てるように言うと、急いで部屋を出た。
部屋を出て、廊下を走った。
膝かっくんをされながら走っているみたいに、何度も膝がかくんかくんと折れた。
逃げ出すように部屋を出たが、すぐ
荷物を置いて来たことに気づいた。
私は、廊下の先にある、ロビーのソファに腰をおろし、何度か、大きく息をはきだした。
子供のころ、トイレで泣きすぎて何度も過呼吸になった。
息を吐き出せば治ることを学んでいた。
どうしよう
考えても仕方がない。
荷物を、取りに戻らなきゃ。
呼吸をなんとかととのえると、顔をあげた。
一瞬ぎくりとした。
黒い眼球の先生が、すぐ近くにいた。
「お荷物…」
そういうと、ひと席あけたとなりに、
先生は腰をおろした。
「大丈夫ですか?」
「……樋口先生は……」
「はい?」
「樋口先生は、大丈夫、という言葉をなるべく使わずに会話しようね、とおっしゃいました……
日本人は、大丈夫ですか?と聞かれたら、大丈夫でなくても、大丈夫ですと返してしまうから…
本音が隠れてしまうから、だそうです……」
「……なるほど…不勉強でした。すみません。」
「べつに…樋口先生の言葉を思い出しただけです。」
「樋口先生のおっしゃる事は最もだと思います。私も、いつも勉強させていただいてるんですよ。」
「……そうですか…」
「私もね、」
「…はい?」
「私も、夫を亡くしました。」
「……」
「私は、アメリカで脳と夢の勉強をしていました。渡米する前に、当時お付き合いしていた彼にお別れしましょうといったら、
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「私のせいでアメリカに行くことになって、事故に巻き込まれて、亡くなりました。
私のせいです。私が、ひとりでアメリカに行くべきだったんです。」
「べつに…先生のせいじゃ…ないんじゃないですか。」
「樋口先生も、そう仰います。でもそう簡単に割り切れない、カナデさんもそう思いませんか。」
私も、心のどこかで、
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思っていた。
ふと空(くう)を見上げて先生は、一瞬迷ったようにみえた。
すうっと息を吸うと、口を、開いた。
「私…夢を見るんです、夫の。」
「…はい」
「寝ている時ではなく、ここで。」
「……え?ここで、ですか?」
「そうです、さっきの、装置をつけて。」
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