1 / 1
毒ガス男と寝ぼけ女
しおりを挟む
嫌なにおいで目が覚めた。嗅ぎ慣れた、嫌なにおい。まだ半分まどろみの中にある頭で考える。そうだった、昨日からこいつが泊まりに来てるんだった。タバコの紫煙越しに見えるぼやけた顔。壁にかけられた時計は昼の十二時を少し回ったところだった。私はベッドから上体を起こして、嫌なにおいの発信源に向かって言う。
「なんで起こしてくれなかったの」
「何回も起こしたのに起きなかったのはお前だろ、ネボケ。だから最終手段に出た」
口から煙を吐きながらそう言って、指に挟んだタバコを掲げてみせる。
「ベランダで吸ってって言ったじゃん」
「やだよ、外暑ぃから」
「あんたが今口にくわえてるタバコの種火の方がよっぽど熱いでしょ、ドク野郎」
「漢字がちげーだろ漢字が。せっかく起こしてやった恩人をまた外に追い出すのかよ」
そう言いつつも窓を開け、ベランダへ出て行く猫背気味の背中を見届けてから、再びベッドに倒れこむ。
私はタバコと朝が苦手だ。それと対照に、あいつは喫煙者で、寝覚めも良い。だからお互いを「ネボケ」「ドク」と呼び合うことで戒めているが、一向に改善される事はない。たぶん、そう呼ぶ事、呼ばれる事に嬉しさを感じているからだろう、あいつはどう思っているか知らないが、少なくとも私はそうだ。自分が嫌になる。
肺を汚し終え、ベランダから帰ってきたドクに、再度文句を言う。
「私の部屋まで毒ガス室にしないでよね」
毒ガス室というのは、ドクの住んでいる部屋のことだ。ワンルームの、おせじにも綺麗とは言えない外観のアパート。私が泊まりに来ている時も「この部屋では俺がルールだ」と言わんばかりに窓も開けず喫煙しているので、部屋の壁はヤニで黄色く染まっている。
「白い壁に飽きたらいつでも色塗り替えてやるよ、黄色くしかできないけど」
「バカじゃん、そんなペースで吸ってたらそのうち肺ガンになって死ぬよ」
「別にいーよ、長生きしても面白くないし」
この後に続く言葉を私は知っている。
「でも俺が死んだらネボケを起こす奴がいなくなるから困るよな」
何度も聴いたお決まりのセリフだったけど、それを聴く度に私は安心するのだった。
数週間後の朝、半分眠りながら電話に出た私は、ドクが死んだことを知らされた。ドクを少し落ち着かせたような声の主は、ドクの父親のものだった。交通事故で即死。息子と仲良くしてくれてありがとう。そんな言葉を黙って聴いた。その日は大学を休んで、ずっとベッドの中から動かなかった。何時間経っても頭の中を白いモヤが覆い、目は覚めているのに、寝起きのまどろみがずっと続いているような、そんな気分だった。
その後私はなんとなくドクの葬式に参列した。ドクを焼いた煙が、大きなタバコを思わせる煙突から空へと上っていくのを見た。毒ガス室に残っていた遺品は、ドクの家族に全て片付けられ、壁も真っ白く張り替えられていた。晴れて無菌室へと変貌を遂げた毒ガス室を見て、ようやく涙が出た。
頭の中のモヤは晴れないまま、ドクの言った通り、私は以前にも増して朝に弱くなった。目覚ましのアラームも、親に頼んだモーニングコールもまったく効かず、気づけば大学の授業を全休して一週間が過ぎていた。翌週の火曜日、重い足取りで大学へ向かった私を待っていたのは、私とドクが付き合っていたことを知る友人達だった。
「大丈夫? 私たちが力になるから」
「ゆっくりで良いから、元気になってね」
「無理しなくて良いよ」
それらが善意からの言葉だということは分かっていたけど、放っておいてほしかった。
「ドクくんのことは残念だけど…自分の人生も大切にしないとだよ」
「うるさいな! あんた達に何がわかるのよ! ドクの事を勝手にドクって呼ぶな!」
友人の言葉に、私はとうとう怒鳴ってしまった。絶句する友人達を尻目に、私は講義室を飛び出した。普段友人達がドクをそう呼ぶ事なんて気にしていなかったのに、今はそれが無性に腹立たしかった。
入り口の門を出てすぐに、友人に怒鳴ってしまった事と、また授業を休んでしまった事への後悔が押し寄せてきた。これからどうしようかなあ、このままドクの後を追って自殺して、完璧な悲劇のヒロインになってやろうかな。そんなことを考えながら下を向いてキャンパス沿いを歩いていると、突然足下に何かが擦り寄ってきて、私は飛び上がって驚いた。その正体は汚れた子猫だった。恐る恐る抱き上げて傍らを見ると、小さな段ボール箱と「オスです可愛がってください」の文字。オーソドックスな捨て猫と、恋人に先立たれたオーソドックスな悲劇のヒロイン。どちらもフィクションの中でだけど。そんな自嘲をしながら、子猫を連れて帰って、身体を綺麗に拭いてやり、猫用のミルクや缶詰を買いに近所のスーパーへ走り、ネットで飼いかたを調べるうちに爪とぎ足場付きのケージまで注文していた。私は何をしているんだろう。こんな子猫一匹で、ドクのいない世界を埋め合わせられるのか? そんな私の考えは、杞憂に終わった。
翌朝から私は毎朝、子猫の鳴き声で目覚めた。なぜだか起きなければいけない時間のきっかり一時間前に、ニャオンというのほほんとした鳴き声が耳に届いて、気持ちよくベッドから脱出する事が出来るようになった。朝ごはんの缶詰を食べた後、子猫はきまって、ベランダに出たがった。五分ほどベランダの隅で物憂げに空を見つめて、そそくさと部屋に戻ってくるのだった。
輪廻転生した生き物は、無意識のうちに前世で取っていた行動と同じ行動を取ることがあるという。
なんとなく気づいていたのだ。私とドクが知り合った場所で捨てられていた事も、背中のホクロと同じ場所に黒いブチがある事も、ベランダの隅っこがお決まりの喫煙席だった事も、ネボケの私を甲斐甲斐しく起こしてくれる事も全部。
頭の中を覆っていた白いモヤはすっかり晴れていた。私は友人たちに謝り、大学に復帰した。今日も朝食後のベランダから戻ってきた子猫を抱き上げ、その背中に顔を埋めてみた。ほんのりと煙のにおいがした。嗅ぎ慣れた、懐かしいにおい。
「なんで起こしてくれなかったの」
「何回も起こしたのに起きなかったのはお前だろ、ネボケ。だから最終手段に出た」
口から煙を吐きながらそう言って、指に挟んだタバコを掲げてみせる。
「ベランダで吸ってって言ったじゃん」
「やだよ、外暑ぃから」
「あんたが今口にくわえてるタバコの種火の方がよっぽど熱いでしょ、ドク野郎」
「漢字がちげーだろ漢字が。せっかく起こしてやった恩人をまた外に追い出すのかよ」
そう言いつつも窓を開け、ベランダへ出て行く猫背気味の背中を見届けてから、再びベッドに倒れこむ。
私はタバコと朝が苦手だ。それと対照に、あいつは喫煙者で、寝覚めも良い。だからお互いを「ネボケ」「ドク」と呼び合うことで戒めているが、一向に改善される事はない。たぶん、そう呼ぶ事、呼ばれる事に嬉しさを感じているからだろう、あいつはどう思っているか知らないが、少なくとも私はそうだ。自分が嫌になる。
肺を汚し終え、ベランダから帰ってきたドクに、再度文句を言う。
「私の部屋まで毒ガス室にしないでよね」
毒ガス室というのは、ドクの住んでいる部屋のことだ。ワンルームの、おせじにも綺麗とは言えない外観のアパート。私が泊まりに来ている時も「この部屋では俺がルールだ」と言わんばかりに窓も開けず喫煙しているので、部屋の壁はヤニで黄色く染まっている。
「白い壁に飽きたらいつでも色塗り替えてやるよ、黄色くしかできないけど」
「バカじゃん、そんなペースで吸ってたらそのうち肺ガンになって死ぬよ」
「別にいーよ、長生きしても面白くないし」
この後に続く言葉を私は知っている。
「でも俺が死んだらネボケを起こす奴がいなくなるから困るよな」
何度も聴いたお決まりのセリフだったけど、それを聴く度に私は安心するのだった。
数週間後の朝、半分眠りながら電話に出た私は、ドクが死んだことを知らされた。ドクを少し落ち着かせたような声の主は、ドクの父親のものだった。交通事故で即死。息子と仲良くしてくれてありがとう。そんな言葉を黙って聴いた。その日は大学を休んで、ずっとベッドの中から動かなかった。何時間経っても頭の中を白いモヤが覆い、目は覚めているのに、寝起きのまどろみがずっと続いているような、そんな気分だった。
その後私はなんとなくドクの葬式に参列した。ドクを焼いた煙が、大きなタバコを思わせる煙突から空へと上っていくのを見た。毒ガス室に残っていた遺品は、ドクの家族に全て片付けられ、壁も真っ白く張り替えられていた。晴れて無菌室へと変貌を遂げた毒ガス室を見て、ようやく涙が出た。
頭の中のモヤは晴れないまま、ドクの言った通り、私は以前にも増して朝に弱くなった。目覚ましのアラームも、親に頼んだモーニングコールもまったく効かず、気づけば大学の授業を全休して一週間が過ぎていた。翌週の火曜日、重い足取りで大学へ向かった私を待っていたのは、私とドクが付き合っていたことを知る友人達だった。
「大丈夫? 私たちが力になるから」
「ゆっくりで良いから、元気になってね」
「無理しなくて良いよ」
それらが善意からの言葉だということは分かっていたけど、放っておいてほしかった。
「ドクくんのことは残念だけど…自分の人生も大切にしないとだよ」
「うるさいな! あんた達に何がわかるのよ! ドクの事を勝手にドクって呼ぶな!」
友人の言葉に、私はとうとう怒鳴ってしまった。絶句する友人達を尻目に、私は講義室を飛び出した。普段友人達がドクをそう呼ぶ事なんて気にしていなかったのに、今はそれが無性に腹立たしかった。
入り口の門を出てすぐに、友人に怒鳴ってしまった事と、また授業を休んでしまった事への後悔が押し寄せてきた。これからどうしようかなあ、このままドクの後を追って自殺して、完璧な悲劇のヒロインになってやろうかな。そんなことを考えながら下を向いてキャンパス沿いを歩いていると、突然足下に何かが擦り寄ってきて、私は飛び上がって驚いた。その正体は汚れた子猫だった。恐る恐る抱き上げて傍らを見ると、小さな段ボール箱と「オスです可愛がってください」の文字。オーソドックスな捨て猫と、恋人に先立たれたオーソドックスな悲劇のヒロイン。どちらもフィクションの中でだけど。そんな自嘲をしながら、子猫を連れて帰って、身体を綺麗に拭いてやり、猫用のミルクや缶詰を買いに近所のスーパーへ走り、ネットで飼いかたを調べるうちに爪とぎ足場付きのケージまで注文していた。私は何をしているんだろう。こんな子猫一匹で、ドクのいない世界を埋め合わせられるのか? そんな私の考えは、杞憂に終わった。
翌朝から私は毎朝、子猫の鳴き声で目覚めた。なぜだか起きなければいけない時間のきっかり一時間前に、ニャオンというのほほんとした鳴き声が耳に届いて、気持ちよくベッドから脱出する事が出来るようになった。朝ごはんの缶詰を食べた後、子猫はきまって、ベランダに出たがった。五分ほどベランダの隅で物憂げに空を見つめて、そそくさと部屋に戻ってくるのだった。
輪廻転生した生き物は、無意識のうちに前世で取っていた行動と同じ行動を取ることがあるという。
なんとなく気づいていたのだ。私とドクが知り合った場所で捨てられていた事も、背中のホクロと同じ場所に黒いブチがある事も、ベランダの隅っこがお決まりの喫煙席だった事も、ネボケの私を甲斐甲斐しく起こしてくれる事も全部。
頭の中を覆っていた白いモヤはすっかり晴れていた。私は友人たちに謝り、大学に復帰した。今日も朝食後のベランダから戻ってきた子猫を抱き上げ、その背中に顔を埋めてみた。ほんのりと煙のにおいがした。嗅ぎ慣れた、懐かしいにおい。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
【完結】雨の魔法にかけられて
蒼村 咲
青春
【あらすじ】「え、ちょっと!? それ、あたしの傘なんですけど!」雨降りの放課後、クラスメイトに傘を持ち帰られてしまった中井真結。途方に暮れていたところに通りかかったのは、たまに話すかなという程度のなんとも微妙な距離感の男子だった。
【作品情報】『もう少しだけ』を加筆修正・改題したものです。全5話です。
『10年後お互い独身なら結婚しよう』「それも悪くないね」あれは忘却した会話で約束。王子が封印した記憶……
内村うっちー
青春
あなたを離さない。甘く優しいささやき。飴ちゃん袋で始まる恋心。
物語のA面は悲喜劇でリライフ……B級ラブストーリー始まります。
※いささかSF(っポイ)超展開。基本はベタな初恋恋愛モノです。
見染めた王子に捕まるオタク。ギャルな看護師の幸運な未来予想図。
過去とリアルがリンクする瞬間。誰一人しらないスパダリの初恋が?
1万字とすこしで完結しました。続編は現時点まったくの未定です。
完結していて各話2000字です。5分割して21時に予約投稿済。
初めて異世界転生ものプロット構想中。天から降ってきたラブコメ。
過去と現実と未来がクロスしてハッピーエンド! そんな短い小説。
ビックリする反響で……現在アンサーの小説(王子様ヴァージョン)
プロットを構築中です。投稿の時期など未定ですがご期待ください。
※7月2日追記
まずは(しつこいようですが)お断り!
いろいろ小ネタや実物満載でネタにしていますがまったく悪意なし。
※すべて敬愛する意味です。オマージュとして利用しています。
人物含めて全文フィクション。似た組織。団体個人が存在していても
無関係です。※法律違反は未成年。大人も基本的にはやりません。
Beside suicide
田向 早藁
青春
同じクラスの女子生徒が自殺した。特に理由もない熱量の低い自殺。僕の方が余程辛い思いをしているのに、何故そんな事が出来たんだ。見えない思いと友情は果たして君に届くのか。今助けに行くからね。
First Light ー ファーストライト
ふじさわ とみや
青春
鹿児島県の女子高生・山科愛は、曾祖父・重太郎の遺品の中から一枚の風景画を見つけた。
残雪を抱く高嶺を見晴るかす北国らしき山里の風景。その絵に魅かれた愛は、絵が描かれた場所を知りたいと思い、調べはじめる。
そして、かつて曾祖父が終戦直後に代用教員を務めていた街で、その絵は岩手県出身の特攻隊員・中屋敷哲が、出撃の前に曽祖父に渡したものであることを知った。
翌年、東京の大学に進学した愛は、入会した天文同好会で岩手県出身の男子学生・北条哲と出会い、絵に描かれた山が、遠野市から見上げた早池峰山であるらしいことを知る。
二人は種山ヶ原での夏合宿あと遠野を訪問。しかし、確たる場所は見つけられなかった。
やがて新学期。学園祭後に起きたある事件のあと、北条は同好会を退会。一時疎遠になる二人だったが、愛は、自身の中に北条に対する特別な感情があることに気付く。
また、女性カメラマン・川村小夜が撮った遠野の写真集を書店で偶然手にした愛は、遠野郷に対して「これから出合う過去のような、出合ったことがある未来のような」不思議な感覚を抱きはじめた。
「私は、この絵に、遠野に、どうしてこんなに魅かれるの?」
翌春、遠野へ向かおうとした愛は、東京駅で、岩手に帰省する北条と偶然再会する。
愛の遠野行きに同行を申し出る北条。愛と北条は、遠野駅で待ち合わせた小夜とともに「絵の場所探し」を再開する。
中屋敷哲と重太郎。七十年前に交錯した二人の思い。
そして、たどり着いた〝絵が描かれた場所〟で、愛は、曾祖父らの思いの先に、自分自身が立っていたことを知る――。
※ この話は「カクヨム」様のサイトにも投稿しています。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる