20 / 111
1章・家族の絆
失敗
しおりを挟む
その晩、皆で食事をとった。
サニヤが採ってきたベリーを使った料理だ。
リーリルは大喜びで「美味しい美味しい」と残さず食べるので、サニヤはそんなリーリルの姿を見て満足そうである。
どう? お母様の事は私が一番知ってるんだから!
「ごちそうさま。ありがとうね。サニヤ」
「別に気にしなくても良いよ。木の実とか欲しくなったらいつでも採ってくるから」
そう言ってサニヤは席を立つと、カイエンが「次からは僕も一緒に連れてってくれないか? リーリルの好きなものを僕も採りたいんだ」と言った。
サニヤを危険な外へ出させたくないが、その気持ちを否定しないように気を遣った言葉である。
しかし、サニヤは「私が食べたいから採ってくるんだもん」と舌をべっと出し、ダイニングを出て行った。
サニヤはいつも、自分が食べ終わると部屋へ行ってしまう。
まるで皆と居たくないというかのようにだ。
しかし、今回はニヤニヤ顔を隠しきれていないのであった。
二階の自分の部屋に戻ると、サニヤはベッドにぼふっと飛び込んだ。
枕に顔をうずめると、えへへへと自然に笑みがこぼれる。
どう?
私だって役に立つんだから。
ちゃーんとお母様の事を分かってるんだもん。
お母様のお皿見た? いつもみたいに全部食べてたよ!
リーリルのいつも使ってる木の実や草を覚えていて、おまけにリーリルも全部食べてくれた。
間違いなく自分のお陰だ。
ここまでリーリルの事を分かっている自分はリーリルの娘なんだという自信と誇りが湧いてきて、とてもとても嬉しいのである。
ふと、サニヤの頭の中に、カイエンやリーリルと一緒に居ても良いんじゃ無いかという考えが浮かんだ。
そもそも、カイエンやリーリルの本当の子供じゃないから、否定されるのが怖くて一緒に居られなかったのがあったのだ。
しかし今はリーリルが喜ぶ大活躍をしたのだから、両親から否定などされないのでは無いかと思うのである。
「仕方ないなぁ。今日だけは一緒に居てあげようかな」
えへへと笑うと、ベッドから降りて部屋を出た。
階段を降りてエントランスから廊下へ。
足取りは軽く、心は晴れやか。
今ならちょっとだけお母様に甘えても良いかな。と、考えていた。
すると、リビングから声が聞こえてくる。
サルハとラーツェの声で「大丈夫ですか?」とか、カイエンの声で「無理をするな」とか言う声だ。
その不穏な声に、もしやリーリルに何かあったのかと思ったサニヤは急いでリビングの扉を開けた。
そこには、青い顔をしてソファーに座るリーリルと、吐瀉物の処理をしているラーツェとバンドラが居る。
そして、全員がサニヤに気付き、しまったと言うかのように顔をしかめるのだ。
「……何それ」
サニヤはその吐瀉物を見ていた。
どう見てもリーリルが吐いたそれは、間違いなく今晩の夕食だったものであろう。
どうして?
なんで吐いたの?
だって、お母様がいつも食べてた調味料を使ったのに……!
美味しい美味しいって全部食べたじゃん!
サニヤは、リーリルのその言葉が嘘だったのだと気づいた。
つわりに、昔食べてたからとか、好物だからなんてのは関係無いのである。
その上でリーリルはサニヤの気持ちを想って、美味しい美味しいと食べたのだ。
サニヤはまるでリーリルに拒絶されたかのような気持ちになり、胃がキュッと締まった。
あるいは脳みそがぐわんぐんと大きく揺れ、口からその脳みそが全部融け出てしまうんじゃ無いかという程に気分が悪くなる。
サニヤはリーリルの為を思ってベリーやハーブを採ってきたのだ。
なのに、その行為がリーリルを苦しめたと言うなら「最初から『ごめんねサニヤちゃん、やっぱり食べられないわ』とでも言ってくれたら良いのに!」と思うのだ。
リーリルを苦しめたく無かったのに、リーリルは嘘をついてまで全部食べて、それで苦しんでいるのがサニヤにはたまらなく嫌だったのである。
サニヤは裏切られたと思う。
リーリルを苦しめた自分の行為を悪いことだったなんて思いたくなかった。
いや、実際、悪いことなんてしてない。
誰も何も悪いことをしてなんていない。
ただ、ちょっとだけ間が悪かっただけなのだ。
サニヤはリーリルの事を思いやり、リーリルもサニヤの事を思いやっただけなのだ。
だから、誰も悪くないのである。
しかし、それをこのまだ六歳の少女が理解する事が出来ようか?
リーリルが苦しんだなら、それは誰かのせいだと思うのだ。
誰のせい? 決まってる、ベリーやハーブを持ってきて、心優しいお母様が食べなくちゃいけない状況を作った私だ!
しかし、サニヤは自分の善意を否定などしたくない。
否定など出来なかった。
違う! 悪いのはお母様だ!
だって私はただお母様の為にやっただけじゃん!
美味しい美味しいって嘘をついて、吐いちゃったのはお母様じゃない!
裏切ったのはお母様の方だ!
しかし、すぐにその考えも打ち消した。
なぜならば、リーリルの事が好きだからだ。
あるいは、リーリルがサニヤの為に食べられない料理を全部食べてくれたからだ。
すると、その意識は料理を作ったラーツェへ向いた。
「ラーツェが料理を失敗したんだ!」
自然とそう口から飛び出す。
すると、ラーツェは頭を下げ「すいません。塩の分量を間違えたのです。私の責任です」と答えた。
当然、嘘だ。
サニヤだってラーツェの料理を食べて、なにも悪くない料理だった事くらいよく分かってる。
しかし、責任をおっ被せたかった。
自分とリーリルの全ての責任を誰かにおっ被せたくて、それは誰でも良かった。
「サニヤちゃん、誰も悪くないの。だから落ち着いて」とリーリルがなだめるが、サニヤの耳には入らない。
「私がせっかく採ってきたのに! ラーツェが全部無駄にしたんだ! 謝れ! 謝れ!」
そう怒鳴ると、ラーツェは「申し訳ございません」と床に膝をついた。
しかし、その態度がサニヤの神経を逆なでしたのである。
「ふざけるな! そんな……そんなので許せない! あんたは……うらやましいんでしょ! だからわざとやったんだ! そうだ! うらやましかったらだ! だって……あんたは親に売られたんだもんね!」
カイエンが「サニヤ!」と怒鳴った。
サニヤはカイエンの怒鳴り声にビクッと体を震わせる。
その瞬間、バチンと頬を叩かれた。
突然の事で何が起こったか分からないサニヤが、じんじんと広がる頬の痛みを感じながら前を見る。
サニヤを叩いたのはカイエンでは無かった。
そこには、いつの間にかリーリルが立っていたのである。
ビンタをしたのであろう姿勢。
そして、自分の右頬に広がる痛み。
サニヤはリーリルに叩かれたのだと分かった。
「お母様が……叩いたの?」
「ええ。叩いたわ。ラーツェに謝りなさい」
「なんで……叩いたの……」
「ラーツェに酷いことを言ったからよ。謝りなさい」
リーリルに怒られる事は初めての事だった。
いつもニコニコと優しく、サニヤが何をしても困ったように眉を寄せるだけで笑いは崩さないリーリルが、ぎゅっと唇を結んで笑みを見せずに怒っているのだ。
「お母様は……私の味方じゃないの?」
「私はいつだってサニヤの味方よ。だけどラーツェの敵じゃ無いわ」
「なに……それ。意味が分かんない……」
「意味が分からなくても結構。謝りなさい。あなたは酷いことを言ったのよ」
サニヤは唇を震わせ、涙が出てきた。
こんなはずじゃ無かったのに。
ほんの少し前までこんな事になるなんて想像すらしていなかった。
もっと皆が幸せになれるのだと思っていたのに。
確かに酷いことを言っちゃったけど……仕方ないでしょ!
仕方ないんだ! 仕方無かったんだ!
「リーリル様。私は気にしてませんので――」
「ラーツェは黙ってなさい」
ラーツェがサニヤを庇おうとするもリーリルはぴしゃりとはねのける。
もはやラーツェがどうこうではないのだ。
娘が他人の触れてはならないところに触れて、その人をなじろうとする行為が母親として許せないのである。
しかし、サニヤにはそう思えなかった。
手でスカートをぎゅっと握ると「私が……お母様とお父様の子供じゃないから、仕方ないよね」と絞り出すように言う。
カイエンが「そう言う事じゃ無い」と言うも、サニヤは踵を返し、リビングから出て行く。
「待ちなさい!」とリーリルが言い、カイエンやラーツェ、サルハが追いかけた。
玄関の開く音。
サニヤは屋敷の外へ出たのだ。
カイエンが扉を開けると外はもう既に真っ暗である。
「ラーツェ! カンテラをすぐ!」
ラーツェはすぐにカンテラを持ってきて、三人は灯りをともすと屋敷の外へ。
しかし、サニヤはもうどこかへ行ったのか、影は見えなかった。
これはいよいよまずいことであろう。
カイエンはひとまず、ラーツェにリーリルを守らせて自分とサルハで捜索する事を考えた。
バンドラも屋敷内で待機だ。
そう、戦うすべを持たない男が出歩くのでさえ危険な場所なのである。
カイエンがラーツェに屋敷を守るよう言おうとした時「奥方様!」とバンドラの声がリビングからした。
カイエン達が急いで戻ると、リーリルはソファーに座って苦しそうにしていたのである。
「リーリル。大丈夫か」
カイエンが近づいて肩を抱き寄せると、浅い呼吸で「あの子は?」と聞く。
「大丈夫。自分の部屋に行ったよ」
カイエンがリーリルに嘘をつくと、リーリルは力無く笑った。
「必ず見つけて」
そう言うと、口元を抑えて苦しそうに息をしたあと、ぐったりとしてしまう。
心労がリーリルの身重な体に大きな負担となってしまったのだ。
サニヤがどうしてこんな事になってしまったんだと思っていたように、リーリルだってどうしたら良かったのだろうと思うのである。
母として、もっと上手く出来たんじゃ無いだろうかと思ったのだ。
だが、それはカイエンとて同じである。
自分だってサニヤに何かしてやれたんじゃ無いだろうかと思うのだ。
サニヤの心の苦しみをもっとやわらげてあげることだって出来たんじゃ無いかと思う。
「必ず見つけるよ」
カイエンはリーリルから離れ、ラーツェとバンドラへ屋敷を守るように伝えた。
そして、「サルハ。手分けして探すぞ」と屋敷を出る。
「カイエン様、お一人で大丈夫なのですか?」とサルハが心配げに聞くので「心配無用」と答えた。
「サニヤが見付かるまで、絶対に諦めないでくれ」
そう言ったカイエンは夜の街へと繰り出す。
夜のハーズルージュは昼間に見る景色とは色を変えていた。
行き交う人々は非常に多く、誰もが酒に酔っている。
道端で寝転がっていびきをかいている人がいれば、平然とその人の懐から財布を奪って仲間たちへ飲みに行こうぜと言っていた。
この町の夜の姿は予想以上に酷かったのである。
時々怒声が聞こえれば、取っ組み合いのケンカがそこかしこで起こっていた。
中には脇腹から血を流しながら壁伝いに歩いている人なんかも居るのだ。
「よお兄ちゃん」
突然、腕を掴まれた。
「アピエンあるよ。アピエン。買ってこないかい?」
歯の抜けた汚らしい男がカイエンの顔を覗き込んで涎を垂らしながら笑う。
「ラザリー辺境伯から直々に頂いた高純度のアピエンだよ。混ざりけなしの本物よ」
アピエンとは酩酊感の伴う感覚の鈍化を起こす薬品だ。
軍隊はこれを戦地で重い負傷を治療する際の鎮痛剤として使用したり、酷い重傷で死にゆく者へ投与して死の恐怖や痛みを和らげるのである。
そのあまりに強い作用に依存する使用者が多いため、一般的には使用が禁止されているのだ。
本当にラザリー辺境伯から横流しされたのか、あるいは粗悪な品を横流しと偽っているのか。
なんにせよ、使用禁止の薬物を販売しているのは間違いない。
いや、だが、今はそんなことを取り締まっている場合では無いのだ 。
「すいませんが、ここら辺で浅黒い肌の女の子を見ませんでしたか」
「いや? 見てねえなぁ」
ならば用は無い。
「分かりました。ありがとうございます」と答え、カイエンは彼から離れる。
「おい! 良いのかよぉ。アピエンいらねえのか?」と言う男の声を聞こえるが、アピエンになんて興味など無いのだ。
カイエンはその後も、道行く人達へサニヤの事を聞いたが、その行方はようとして知れなかった。
サニヤが採ってきたベリーを使った料理だ。
リーリルは大喜びで「美味しい美味しい」と残さず食べるので、サニヤはそんなリーリルの姿を見て満足そうである。
どう? お母様の事は私が一番知ってるんだから!
「ごちそうさま。ありがとうね。サニヤ」
「別に気にしなくても良いよ。木の実とか欲しくなったらいつでも採ってくるから」
そう言ってサニヤは席を立つと、カイエンが「次からは僕も一緒に連れてってくれないか? リーリルの好きなものを僕も採りたいんだ」と言った。
サニヤを危険な外へ出させたくないが、その気持ちを否定しないように気を遣った言葉である。
しかし、サニヤは「私が食べたいから採ってくるんだもん」と舌をべっと出し、ダイニングを出て行った。
サニヤはいつも、自分が食べ終わると部屋へ行ってしまう。
まるで皆と居たくないというかのようにだ。
しかし、今回はニヤニヤ顔を隠しきれていないのであった。
二階の自分の部屋に戻ると、サニヤはベッドにぼふっと飛び込んだ。
枕に顔をうずめると、えへへへと自然に笑みがこぼれる。
どう?
私だって役に立つんだから。
ちゃーんとお母様の事を分かってるんだもん。
お母様のお皿見た? いつもみたいに全部食べてたよ!
リーリルのいつも使ってる木の実や草を覚えていて、おまけにリーリルも全部食べてくれた。
間違いなく自分のお陰だ。
ここまでリーリルの事を分かっている自分はリーリルの娘なんだという自信と誇りが湧いてきて、とてもとても嬉しいのである。
ふと、サニヤの頭の中に、カイエンやリーリルと一緒に居ても良いんじゃ無いかという考えが浮かんだ。
そもそも、カイエンやリーリルの本当の子供じゃないから、否定されるのが怖くて一緒に居られなかったのがあったのだ。
しかし今はリーリルが喜ぶ大活躍をしたのだから、両親から否定などされないのでは無いかと思うのである。
「仕方ないなぁ。今日だけは一緒に居てあげようかな」
えへへと笑うと、ベッドから降りて部屋を出た。
階段を降りてエントランスから廊下へ。
足取りは軽く、心は晴れやか。
今ならちょっとだけお母様に甘えても良いかな。と、考えていた。
すると、リビングから声が聞こえてくる。
サルハとラーツェの声で「大丈夫ですか?」とか、カイエンの声で「無理をするな」とか言う声だ。
その不穏な声に、もしやリーリルに何かあったのかと思ったサニヤは急いでリビングの扉を開けた。
そこには、青い顔をしてソファーに座るリーリルと、吐瀉物の処理をしているラーツェとバンドラが居る。
そして、全員がサニヤに気付き、しまったと言うかのように顔をしかめるのだ。
「……何それ」
サニヤはその吐瀉物を見ていた。
どう見てもリーリルが吐いたそれは、間違いなく今晩の夕食だったものであろう。
どうして?
なんで吐いたの?
だって、お母様がいつも食べてた調味料を使ったのに……!
美味しい美味しいって全部食べたじゃん!
サニヤは、リーリルのその言葉が嘘だったのだと気づいた。
つわりに、昔食べてたからとか、好物だからなんてのは関係無いのである。
その上でリーリルはサニヤの気持ちを想って、美味しい美味しいと食べたのだ。
サニヤはまるでリーリルに拒絶されたかのような気持ちになり、胃がキュッと締まった。
あるいは脳みそがぐわんぐんと大きく揺れ、口からその脳みそが全部融け出てしまうんじゃ無いかという程に気分が悪くなる。
サニヤはリーリルの為を思ってベリーやハーブを採ってきたのだ。
なのに、その行為がリーリルを苦しめたと言うなら「最初から『ごめんねサニヤちゃん、やっぱり食べられないわ』とでも言ってくれたら良いのに!」と思うのだ。
リーリルを苦しめたく無かったのに、リーリルは嘘をついてまで全部食べて、それで苦しんでいるのがサニヤにはたまらなく嫌だったのである。
サニヤは裏切られたと思う。
リーリルを苦しめた自分の行為を悪いことだったなんて思いたくなかった。
いや、実際、悪いことなんてしてない。
誰も何も悪いことをしてなんていない。
ただ、ちょっとだけ間が悪かっただけなのだ。
サニヤはリーリルの事を思いやり、リーリルもサニヤの事を思いやっただけなのだ。
だから、誰も悪くないのである。
しかし、それをこのまだ六歳の少女が理解する事が出来ようか?
リーリルが苦しんだなら、それは誰かのせいだと思うのだ。
誰のせい? 決まってる、ベリーやハーブを持ってきて、心優しいお母様が食べなくちゃいけない状況を作った私だ!
しかし、サニヤは自分の善意を否定などしたくない。
否定など出来なかった。
違う! 悪いのはお母様だ!
だって私はただお母様の為にやっただけじゃん!
美味しい美味しいって嘘をついて、吐いちゃったのはお母様じゃない!
裏切ったのはお母様の方だ!
しかし、すぐにその考えも打ち消した。
なぜならば、リーリルの事が好きだからだ。
あるいは、リーリルがサニヤの為に食べられない料理を全部食べてくれたからだ。
すると、その意識は料理を作ったラーツェへ向いた。
「ラーツェが料理を失敗したんだ!」
自然とそう口から飛び出す。
すると、ラーツェは頭を下げ「すいません。塩の分量を間違えたのです。私の責任です」と答えた。
当然、嘘だ。
サニヤだってラーツェの料理を食べて、なにも悪くない料理だった事くらいよく分かってる。
しかし、責任をおっ被せたかった。
自分とリーリルの全ての責任を誰かにおっ被せたくて、それは誰でも良かった。
「サニヤちゃん、誰も悪くないの。だから落ち着いて」とリーリルがなだめるが、サニヤの耳には入らない。
「私がせっかく採ってきたのに! ラーツェが全部無駄にしたんだ! 謝れ! 謝れ!」
そう怒鳴ると、ラーツェは「申し訳ございません」と床に膝をついた。
しかし、その態度がサニヤの神経を逆なでしたのである。
「ふざけるな! そんな……そんなので許せない! あんたは……うらやましいんでしょ! だからわざとやったんだ! そうだ! うらやましかったらだ! だって……あんたは親に売られたんだもんね!」
カイエンが「サニヤ!」と怒鳴った。
サニヤはカイエンの怒鳴り声にビクッと体を震わせる。
その瞬間、バチンと頬を叩かれた。
突然の事で何が起こったか分からないサニヤが、じんじんと広がる頬の痛みを感じながら前を見る。
サニヤを叩いたのはカイエンでは無かった。
そこには、いつの間にかリーリルが立っていたのである。
ビンタをしたのであろう姿勢。
そして、自分の右頬に広がる痛み。
サニヤはリーリルに叩かれたのだと分かった。
「お母様が……叩いたの?」
「ええ。叩いたわ。ラーツェに謝りなさい」
「なんで……叩いたの……」
「ラーツェに酷いことを言ったからよ。謝りなさい」
リーリルに怒られる事は初めての事だった。
いつもニコニコと優しく、サニヤが何をしても困ったように眉を寄せるだけで笑いは崩さないリーリルが、ぎゅっと唇を結んで笑みを見せずに怒っているのだ。
「お母様は……私の味方じゃないの?」
「私はいつだってサニヤの味方よ。だけどラーツェの敵じゃ無いわ」
「なに……それ。意味が分かんない……」
「意味が分からなくても結構。謝りなさい。あなたは酷いことを言ったのよ」
サニヤは唇を震わせ、涙が出てきた。
こんなはずじゃ無かったのに。
ほんの少し前までこんな事になるなんて想像すらしていなかった。
もっと皆が幸せになれるのだと思っていたのに。
確かに酷いことを言っちゃったけど……仕方ないでしょ!
仕方ないんだ! 仕方無かったんだ!
「リーリル様。私は気にしてませんので――」
「ラーツェは黙ってなさい」
ラーツェがサニヤを庇おうとするもリーリルはぴしゃりとはねのける。
もはやラーツェがどうこうではないのだ。
娘が他人の触れてはならないところに触れて、その人をなじろうとする行為が母親として許せないのである。
しかし、サニヤにはそう思えなかった。
手でスカートをぎゅっと握ると「私が……お母様とお父様の子供じゃないから、仕方ないよね」と絞り出すように言う。
カイエンが「そう言う事じゃ無い」と言うも、サニヤは踵を返し、リビングから出て行く。
「待ちなさい!」とリーリルが言い、カイエンやラーツェ、サルハが追いかけた。
玄関の開く音。
サニヤは屋敷の外へ出たのだ。
カイエンが扉を開けると外はもう既に真っ暗である。
「ラーツェ! カンテラをすぐ!」
ラーツェはすぐにカンテラを持ってきて、三人は灯りをともすと屋敷の外へ。
しかし、サニヤはもうどこかへ行ったのか、影は見えなかった。
これはいよいよまずいことであろう。
カイエンはひとまず、ラーツェにリーリルを守らせて自分とサルハで捜索する事を考えた。
バンドラも屋敷内で待機だ。
そう、戦うすべを持たない男が出歩くのでさえ危険な場所なのである。
カイエンがラーツェに屋敷を守るよう言おうとした時「奥方様!」とバンドラの声がリビングからした。
カイエン達が急いで戻ると、リーリルはソファーに座って苦しそうにしていたのである。
「リーリル。大丈夫か」
カイエンが近づいて肩を抱き寄せると、浅い呼吸で「あの子は?」と聞く。
「大丈夫。自分の部屋に行ったよ」
カイエンがリーリルに嘘をつくと、リーリルは力無く笑った。
「必ず見つけて」
そう言うと、口元を抑えて苦しそうに息をしたあと、ぐったりとしてしまう。
心労がリーリルの身重な体に大きな負担となってしまったのだ。
サニヤがどうしてこんな事になってしまったんだと思っていたように、リーリルだってどうしたら良かったのだろうと思うのである。
母として、もっと上手く出来たんじゃ無いだろうかと思ったのだ。
だが、それはカイエンとて同じである。
自分だってサニヤに何かしてやれたんじゃ無いだろうかと思うのだ。
サニヤの心の苦しみをもっとやわらげてあげることだって出来たんじゃ無いかと思う。
「必ず見つけるよ」
カイエンはリーリルから離れ、ラーツェとバンドラへ屋敷を守るように伝えた。
そして、「サルハ。手分けして探すぞ」と屋敷を出る。
「カイエン様、お一人で大丈夫なのですか?」とサルハが心配げに聞くので「心配無用」と答えた。
「サニヤが見付かるまで、絶対に諦めないでくれ」
そう言ったカイエンは夜の街へと繰り出す。
夜のハーズルージュは昼間に見る景色とは色を変えていた。
行き交う人々は非常に多く、誰もが酒に酔っている。
道端で寝転がっていびきをかいている人がいれば、平然とその人の懐から財布を奪って仲間たちへ飲みに行こうぜと言っていた。
この町の夜の姿は予想以上に酷かったのである。
時々怒声が聞こえれば、取っ組み合いのケンカがそこかしこで起こっていた。
中には脇腹から血を流しながら壁伝いに歩いている人なんかも居るのだ。
「よお兄ちゃん」
突然、腕を掴まれた。
「アピエンあるよ。アピエン。買ってこないかい?」
歯の抜けた汚らしい男がカイエンの顔を覗き込んで涎を垂らしながら笑う。
「ラザリー辺境伯から直々に頂いた高純度のアピエンだよ。混ざりけなしの本物よ」
アピエンとは酩酊感の伴う感覚の鈍化を起こす薬品だ。
軍隊はこれを戦地で重い負傷を治療する際の鎮痛剤として使用したり、酷い重傷で死にゆく者へ投与して死の恐怖や痛みを和らげるのである。
そのあまりに強い作用に依存する使用者が多いため、一般的には使用が禁止されているのだ。
本当にラザリー辺境伯から横流しされたのか、あるいは粗悪な品を横流しと偽っているのか。
なんにせよ、使用禁止の薬物を販売しているのは間違いない。
いや、だが、今はそんなことを取り締まっている場合では無いのだ 。
「すいませんが、ここら辺で浅黒い肌の女の子を見ませんでしたか」
「いや? 見てねえなぁ」
ならば用は無い。
「分かりました。ありがとうございます」と答え、カイエンは彼から離れる。
「おい! 良いのかよぉ。アピエンいらねえのか?」と言う男の声を聞こえるが、アピエンになんて興味など無いのだ。
カイエンはその後も、道行く人達へサニヤの事を聞いたが、その行方はようとして知れなかった。
2
お気に入りに追加
837
あなたにおすすめの小説
七年間の婚約は今日で終わりを迎えます
hana
恋愛
公爵令嬢エミリアが十歳の時、第三王子であるロイとの婚約が決まった。しかし婚約者としての生活に、エミリアは不満を覚える毎日を過ごしていた。そんな折、エミリアは夜会にて王子から婚約破棄を宣言される。
裏切りの代償
志波 連
恋愛
伯爵令嬢であるキャンディは婚約者ニックの浮気を知り、婚約解消を願い出るが1年間の再教育を施すというニックの父親の言葉に願いを取り下げ、家出を決行した。
家庭教師という職を得て充実した日々を送るキャンディの前に父親が現れた。
連れ帰られ無理やりニックと結婚させられたキャンディだったが、子供もできてこれも人生だと思い直し、ニックの妻として人生を全うしようとする。
しかしある日ニックが浮気をしていることをしり、我慢の限界を迎えたキャンディは、友人の手を借りながら人生を切り開いていくのだった。
他サイトでも掲載しています。
R15を保険で追加しました。
表紙は写真AC様よりダウンロードしました。
私は幼い頃に死んだと思われていた侯爵令嬢でした
さこの
恋愛
幼い頃に誘拐されたマリアベル。保護してくれた男の人をお母さんと呼び、父でもあり兄でもあり家族として暮らしていた。
誘拐される以前の記憶は全くないが、ネックレスにマリアベルと名前が記されていた。
数年後にマリアベルの元に侯爵家の遣いがやってきて、自分は貴族の娘だと知る事になる。
お母さんと呼ぶ男の人と離れるのは嫌だが家に戻り家族と会う事になった。
片田舎で暮らしていたマリアベルは貴族の子女として学ぶ事になるが、不思議と読み書きは出来るし食事のマナーも悪くない。
お母さんと呼ばれていた男は何者だったのだろうか……? マリアベルは貴族社会に馴染めるのか……
っと言った感じのストーリーです。
【完結】男爵令嬢は冒険者生活を満喫する
影清
ファンタジー
英雄の両親を持つ男爵令嬢のサラは、十歳の頃から冒険者として活動している。優秀な両親、優秀な兄に恥じない娘であろうと努力するサラの前に、たくさんのメイドや護衛に囲まれた侯爵令嬢が現れた。「卒業イベントまでに、立派な冒険者になっておきたいの」。一人でも生きていけるようにだとか、追放なんてごめんだわなど、意味の分からぬことを言う令嬢と関わりたくないサラだが、同じ学園に入学することになって――。
※残酷な描写は予告なく出てきます。
※小説家になろう、アルファポリス、カクヨムに掲載中です。
※106話完結。
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
【完結】キズモノになった私と婚約破棄ですか?別に構いませんがあなたが大丈夫ですか?
なか
恋愛
「キズモノのお前とは婚約破棄する」
顔にできた顔の傷も治らぬうちに第二王子のアルベルト様にそう宣告される
大きな傷跡は残るだろう
キズモノのとなった私はもう要らないようだ
そして彼が持ち出した条件は婚約破棄しても身体を寄越せと下卑た笑いで告げるのだ
そんな彼を殴りつけたのはとある人物だった
このキズの謎を知ったとき
アルベルト王子は永遠に後悔する事となる
永遠の後悔と
永遠の愛が生まれた日の物語
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
飯屋の娘は魔法を使いたくない?
秋野 木星
ファンタジー
3歳の時に川で溺れた時に前世の記憶人格がよみがえったセリカ。
魔法が使えることをひた隠しにしてきたが、ある日馬車に轢かれそうになった男の子を助けるために思わず魔法を使ってしまう。
それを見ていた貴族の青年が…。
異世界転生の話です。
のんびりとしたセリカの日常を追っていきます。
※ 表紙は星影さんの作品です。
※ 「小説家になろう」から改稿転記しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる