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序章・彼の幸せ

封蝋

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 封筒に捺された真っ赤な封蝋をカイエンは見ていた。
 封蝋は盾と剣をあしらい、盾には大鷲と獅子が描かれている紋章である。

 この紋章はガリエンド家の紋章であった。
 つまり、この封筒はカイエンの実家から送られて来たものである。

 その封筒に便箋が入っていた。

 カイエンはその便箋へ目を移した。

――親愛なる我が息子。カイエンへ。
 辺境の村へと赴き、その開拓を良く行い、災害に見舞われながら凄まじき手腕で復興したそなたの功績著しく、そなたのかつての失態を赦免する事が決定した。
 もって今すぐ登城せよ。そなたに新たな爵位と新たな土地を与えたく思う。

 そなたももうすぐ三十だ。
 十年近く、一人でよく頑張った。
 父はそなたの事を誇りに思う。
 王都へ戻って来たら、すぐに結婚の儀もしよう。三十になる前にそなたも結婚したいことであろう。
 名家のラクラロール家の娘だ。十五になったばかりだが気立てが良くて奥ゆかしい娘だ。
 きっとそなたも気に入るだろう。

 そなたの不出来な父、ニルエド・ガリエンド卿より――

 カイエンの功績が認められ、登城の命令が下ってしまったのである。
 おまけに結婚までするというでは無いか。

「あなた。良いじゃ無いですか。功績が認められたのよ。喜ばしい事よ」

 リーリルは笑顔でそう言って、カイエンの手を取った。

 だが、何も喜ばしい事なんて無い。
 カイエンは王侯貴族やガリエンド家から見捨てられたと思っていたから、サニヤを娘にしてリーリルを妻にしたのだ。
 まさに好き勝手と言って言い。

 もしも二人を連れて登城しようものなら、無理矢理にでも二人と絶縁されるだろう。
 仮に絶縁されたら、リーリルはまた村へと帰らねばならない。身重であるし、長旅はさせたくない。
 かといって二人をここに置いて登城し、新たな地で領主となり新たな家庭を作る事なんて考えられない。

 だが、行かないという選択肢は無い。
 命令に逆らえば一体どんな未来が待っているか分かったものではないのである。
 すでに失敗によってこの村へ左遷された身、下手をすれば幽閉。最悪、サニヤやリーリルに被害が及ぶ可能性もあり得た。
 
「私の事は気にしないで。あなたは新しい家庭を作って下さい。きっと、その人は私よりも素晴らしいお方です。それに、あなたはこんな村に縛られるような小さな人では無いでしょう?」

 リーリルは決意した目をしていた。
 心さえ繋がっていれば、離ればなれでも気にしない。
 彼女はそう思うのだ。

「……君は卑怯だ。そんなに尽くしてくれる人を、なんで見捨てられるんだ。僕には無理だよ。君と離れ離れになんてならない」
「あなた……」

 リーリルを連れて行く。
 それがいかにリーリルに負担をかける事になるか。
 ここから王都まで片道を馬車で約半月。
 しかし、道程には町が幾つかあり、腕の良い医者も居るだろう。
 決して無茶な騎行では無い。

「すまない。負担をかけるだろうが、君も共に来てくれ」
「構いません。あなたとサニヤが一緒なら、どこへでも行けます」

 サニヤ。
 そうだ。後の問題はサニヤだ。
 サニヤはカイエンとリーリルの事を嫌っている。
 果たして来てくれるだろうか?

 カイエンがダイニングルームの入り口に立つサニヤを見ると、サニヤはビクリと体を緊張させた。

「サニヤ……」
「なんだよ」

 カイエンがサニヤに近づき、屈んで目線を合わせると、サニヤは目をそらした。

「サニヤを連れて王都へ行こうと思う。長旅だけど、来てくれるか?」

 サニヤは目を逸らしたまま、考えるような言いづらいような表情で顔を上げて悩んだり、顔を傾けて唸ったりする。

「わ、私は行かなくても別にいいよ」

 ハハハと愛想笑いを浮かべてカイエンの目を見た。

「ほら。私はこんな肌の色だから、一目でお父様ともお母様とも違うって分かるでしょ? そしたら迷惑かけちゃうもん。貴族ってお父様とお母様の子供じゃないといけないんだもんね? それに、こんな頭をしてて私が馬鹿にされるならともかく、お父様やお母様に迷惑……かけたくないし……」

 尻すぼみに小さくなる声を聞きながら、カイエンは胸がぎゅっと締められるような感覚になった。

 カイエンは初めて、サニヤが何で反抗的していたのか理解したのだ。
 サニヤが自分は家族じゃないと思っていたのだと分かったのである。
 肌の色、頭の角。
 サニヤは自分がのけ者で邪魔者だと感じていたのだと、カイエンは気付き、それに気付いてやれなかった自分の不甲斐なさを嘆いた。

 ぎゅっとサニヤを抱き締めた。

「お、お父様?」

 突然抱き締めるカイエンに、サニヤは驚き戸惑う。

「馬鹿。サニヤ、お前は僕の娘だろう。お前は僕とリーリルの娘だろう。来るんだ。僕の両親に会わせなくちゃいけない。僕の自慢の娘だってね」

 サニヤは顔をしかめ、「止めてよ」と言った。

 サニヤは確かに嬉しいような気持ちはあったが、しかし、どうしてもカイエンに対しての気持ち悪い気持ちは拭えないのである。

 それでも、カイエンから家族なんだと言われて嬉しかったのは事実であったから、カイエンに認められるとその自己矛盾に苦しんでしまうのだ。

 その後は、明日から早速王都へ出発する事が決まり、家族三人での食事となった。

 相変わらず言葉は少なかったが、カイエンが不器用に話し掛ければ、サニヤもたどたどしく会話に応じる。

 リーリルが、サニヤはラキーニという子をいじめから助けてたとマーサから聞いたと言えば、カイエンは惜しげの無い賞賛をサニヤへ送り、サニヤは話しづらそうにラキーニと遊んだ話をした。

「今日は……その、イタズラ……しなかったよ」

 気恥ずかしそうにそう言いながらスープをくるくると混ぜる。

「そうか。そうか。偉いぞ。サニヤ」

 普通の人ならば、そんなの当然だ。当たり前だと言っていただろう。
 だが、カイエンもリーリルも、サニヤの事を偉いと言った。

 二人とも、悪いことを自覚し、そして自制するサニヤの成長を素直に喜んだからだ。

 時として、人にとって最大の困難は自分で自分の事を抑える事であろう。
 しかし、サニヤはラキーニの手助けのもと、自制したのだ。
 例えマイナスからゼロへ戻った行為であろうが、自分で自分の事を抑える事は素晴らしい事であるのかも知れない。

 サニヤは無言であったが、しかしこんなに嬉しくて、気が楽な夜はいつ以来か。
 蝋燭の橙色は暖かく、家族の団欒を映していたであった。

 だが、全ての問題が解消された訳では無い。
 サニヤの心の奥底には、まだ二人が行っていたおぞましい行為に対する不愉快な気持ちは残っていた。
 だから、どうしてもサニヤはカイエンとリーリルへあと一歩、歩み寄れない。

 少なくとも以前よりもマシではあったが。

 こうして夜が明け、翌朝。
 カイエン達は旅装を整えて屋敷を出た。

 リーリルの実家へ寄り、マーサ達にしばらく居なくなる事を伝える。

 村の領主が命令で突然居なくなる事なんて珍しい事では無い。
 マーサ達も仕方ないかと頷く一方、身重のリーリルを心配した。
 しかし、カイエンが力強い眼で必ず守ると誓ったので、マーサ達も安心してカイエンに任せる事にする。
 サニヤがライと少し戯れた後、家を後にした。

 途中、村の広場の鐘を鳴らし、人々を集める。
 カイエンが村人に何かを通達する時に使用する鐘であったが、使うのは初めての事であった。

 そこで集まった村人達に、しばらく村を留守にする事と、ここに居ない村人達へその旨を伝えて欲しい事。そして、必ず帰ってくる事を伝える。

「カイエン様の居ない間は俺達が村を守るさ」

 自警団の男がそう言い、他の村人達もカイエン達が無事に帰ってくる事を祈ってくれた。

 その後、大河へ向かって歩いていると、サニヤがちょっと待ってと、ある家へ向かう。

 ラキーニの家だ。

 そこで、少しおどおどした様子のラキーニに、しばらくのお別れを告げる。
 ラキーニは今まで守ってくれたサニヤが居なくなる事に不安を感じた。

 眉に皺を寄せて、今にも泣きそうな顔で「行っちゃうの?」と聞くので、サニヤは拳をつくってラキーニの胸をトンと押す。

「男の子でしょ。戻ってきたら、私の事を守ってくれるの、期待してるから」

 意地悪そうに笑い、「じゃあね」とサニヤは去り、ラキーニはその背中を見ていた。
 ラキーニの顔は赤い。
 サニヤの「私の事を守ってくれるの」という言葉の意味にドキドキした。
 どういう意味なのか聞きたかったけど、聞きそびれた。でも、きっとそう言う意味だろう。

 ちなみに、サニヤはサニヤ自身の悪さを止めてくれる人という意味で使ってるだけで、物語の騎士(ナイト)のようなものを想定した発言でも何でも無かった。
 しかし、これはこれで美しい別れになったから良かったのかも知れない。

 ちなみに、サニヤのこの何気ない一言がラキーニの人生を大きく変えることになるのであるが、それはまた後の話。
 
 さて、大河には渡し船が一隻止まっていた。
 この村は他の集落と河を隔てているため、他の土地へ行こうとしたら河を渡らねばならないのである。
 そのための船だ。

 その船の前でパイプの煙をふかす郵便屋がいた。

「……やあ、来ましたか」

 彼はカイエン達の気付くと、パイプの中身の葉を河へ捨てて立ち上がる。

「馬車は河下の村へと泊めてあります。大きめの馬車ですので、奥方様もごゆっくり出来るでしょう」

 この男、実は郵便屋では無い。
 王侯貴族に仕える密使である。

 こうやって郵便屋に変装し、王侯貴族の書類を運んだり、行き来の便宜を図ったりするのだ。

「ところで……あー、その子は……? 小間使いで?」
「いや。私の娘です」

 小間使いと言われてムッとした顔のサニヤを抱き寄せてカイエンは言う。

 すると、密使は眉根を寄せて、サニヤとカイエンと、そしてリーリルを順番に見た。
 
「……本当に連れてくんですか?」

 肌の色が違う、明らかに血の繋がっていない子供を娘などと、さすがに正気の沙汰を疑っていた。
 下手をすれば勘当ものだ。いや、貴族の地位を剥奪されかねない。

「もちろん。私の自慢の娘ですのでね。自分の両親に会うなら、娘を紹介しなくてはならないでしょう?」

 それでも、カイエンの意思が硬そうなので、密使はそれ以上の言及をせずに船頭へ金を払って船を進ませた。

 サニヤはとても嬉しかったのだが、やはり、気持ち悪さもあるために「お父様、離してよ」とついつい、つっけんどんにカイエンから離れるのであった。

 そんな彼らを乗せて、船は河の流れに押されながら横断し、やや下流の村へと停泊する。

 そこはあまり大きな村とは言えなかった。
 元々は小さいながら町と呼べる集落であったが、大河のあの氾濫によって消滅。
 復興は進まず、今ではカイエン達の村から運輸される木材を引き上げるための経由地点に過ぎない場所だった。
 一応、カイエン達の村がどんどんと大きくなったため、人の往来が多くなり、宿なども出来て発展した程度の村である。

 その宿の前に少しばかりの装飾の施された馬車が留まっていた。

 密使が待つように言って宿へ入ると、すぐに黒い執事服を着た男を連れて出てきた。

 黒い執事服を着た男は口髭を香油で固めた小太りの男である。
 腰には装飾付きの鞘に収められたサーベルを提げていた。

 虚栄心の強そうな見た目だ。

「カイエン様でございますか。そして、『田舎娘』の奥方様と……」
 
 サニヤを見下すように見て、言葉を探しだす。
 わざわざリーリルの事を『田舎娘』と言うような男だ。
 何か悪口を探しているのであろう。

 だが、言葉が見付からなかったのか、ハンっと鼻を鳴らして馬車の御者席に乗った。
 さながら、言い表す言葉も無いほどに下等だというかのような態度である。

「私の名前はバンドラです。あなたを王都へ責任を持って送る名前です。覚えて下さいませ。さあお乗り下さい。王都へ向かいますよ。なるべく大急ぎでね」

 バンドラと名乗る御者がそう言うと、密使が馬車の扉を開け、カイエン達は馬車へと乗り込んだ。

 上等な生地の椅子が向かい合わせで備え付けられた馬車。
 貴族御用達のものだ。

 リーリルは『田舎娘』と言われた事を全く気にせず、ニコニコ笑顔で密使にお礼を良いながら椅子を撫でていた。

 一方サニヤは怒りを込めた眼で御者席の方を睨み、「お母様は何とも思わないの?」と憤る。

「田舎娘というのは本当だからね」

 クスクスと笑いながらサニヤの頭を撫でた。
 サニヤは不服そうに唇をツンと尖らせて、その手を払っている。

「すまない。サニヤ、リーリル。僕が不甲斐ないばかりに」

 カイエンの地位がもっと高ければ、あのような態度の悪い御者ではなく、もっとマシな男が来たであろうに。

「あ。気にしなくていいよ。だって悪いのはお父様じゃなくてあいつなんだし……」

 自分の不用意な一言でカイエンを遠回りに非難してしまったと思ったサニヤは、申し訳ない気持ちで顔を俯かせた。

 カイエンはそんなサニヤの優しさに微笑みながら彼女を膝に乗せて椅子に座る。
 そして、サニヤの頭を優しく撫でるが、サニヤはやはりカイエンの手を払うのであった。

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