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佐理の知っている帝はいつも礼儀を重んじ、決して自分の立場を利用して相手を自分の思い通りにしようとするような人ではなかった。
帝は荒々しく佐理を抱き寄せた。
「佐理、私はこんなに愚かになってしまうほど、佐理が愛おしいのだ」
「帝、これでは長恨歌と同じになってしまいます」
楊貴妃を愛しすぎた玄宗は政(まつりごと)をおろそかにしてしまい、ついには内乱が起き、国が傾きそうになるのだった。
「同じにはならない、私は玄宗ではない」
「帝……」
「佐理、私は帝の前にただの一人の男だ。政がおろそかになると言うのなら、それは佐理に振られるからだ。この国が傾いたら佐理のせいだ」
佐理にしがみつくように腕を回す帝が、我儘な子どもに見えた。
早くに即位され、年齢よりもずっと早熟で聡明な帝だと聞いていた。佐理の前で中将として振る舞っていた帝がそうであったように。
そしてそれは本当の帝自身であったに違いない。
今まで佐理にとって帝とは神に等しい存在だった。佐理とは住む世界の違う雲の上に輝く眩しい太陽のようなお方。
けれど今、目の前の帝は“人”だった。
それは普段決して他人には見せることのない、帝の素顔でもあった。
人であるのに、人であらざる存在でなければならない苦しみはどれほどのものだろう。若い肩にかかる国の最高権力者としての重圧は、一介の、それも下流貴族の佐理には計り知れない。
孤島の城にひとり住む人。
そんな言葉が佐理の頭に浮かんだ。
『そうしないと私は自由に出歩くこともできない身なのだ』
誰よりも自由そうで誰よりも自由がなく、全てを持っているようで、本当に欲しいものは何一つ手に入れられないのかも知れない。
この国の皇子としてお生まれになった時から、その手はずっと伸ばされていたのだろうか。
手の先にあったものは自由か、真の友か、権力争いからの解放か。
そしていつでもそれらは指の間をすり抜け逃げていき、その手は宙を空回りするだけ。
その手が今、はっきりと佐理に向かって伸びていた。
欲しい、佐理が欲しいと。
大きいのに幼子の小さな紅葉のように見えるその手を、今まで誰も取ることがなかったその手を、佐理は、取ってあげたい、そう思った。
帝が本当に望むものに比べたら、自分は朝露ほどの価値しかないかも知れない。それでも、少しでも帝の乾きが自分で癒やされるのなら。
そして、何よりも佐理が帝のそばにいたかった。
人である帝を前にしても、帝が眩しい存在であることに変わりはなかった。
けれど……、
「さっきも言った通り、帝は私には眩しすぎます。帝を近くで見続けたら私の目はきっと潰れてしまうでしょう。私の目が見えなくなっても、帝は私をそばに置いてくださいますか?」
「佐理……」
帝は佐理の瞳をのぞき込んだ。
「それでもいいのでしたら」
帝の瞳の中心が喜びで大きく膨らんでいく。
「それを言うなら私はもうとっくに盲目だ。初めて池のほとりで佐理を見た時から、その眩(まばゆ)さに両眼とも奪われてしまっている」
帝は息ができないほど佐理を強く抱きしめるとその額に、頬に、瞼に、そして唇に、口づけた。
風に舞う桜の花びらよりたくさんの、帝は口づけの花を散らした。
佐理の中将が帝であったと両親と高子に伝えると、三人は石のように固まってしまった。
その上、花月の契りを申し込まれて、お受けしたと話すと、母親は卒倒してしまった。
父は水を飲んでいるのに酔っ払ったように大はしゃぎし、高子は涙を流して喜んでくれた。
「これで瀬央氏は安泰ですね。もうひもじい思いをしなくて済むのですね」
その後も食べ物のことばかり言っていた高子だったが、佐理は帝から聞いて知っているのだ。
高子が佐理のために男装して、帝に佐理の行き先を匂わせることを言ったことを。
帝は荒々しく佐理を抱き寄せた。
「佐理、私はこんなに愚かになってしまうほど、佐理が愛おしいのだ」
「帝、これでは長恨歌と同じになってしまいます」
楊貴妃を愛しすぎた玄宗は政(まつりごと)をおろそかにしてしまい、ついには内乱が起き、国が傾きそうになるのだった。
「同じにはならない、私は玄宗ではない」
「帝……」
「佐理、私は帝の前にただの一人の男だ。政がおろそかになると言うのなら、それは佐理に振られるからだ。この国が傾いたら佐理のせいだ」
佐理にしがみつくように腕を回す帝が、我儘な子どもに見えた。
早くに即位され、年齢よりもずっと早熟で聡明な帝だと聞いていた。佐理の前で中将として振る舞っていた帝がそうであったように。
そしてそれは本当の帝自身であったに違いない。
今まで佐理にとって帝とは神に等しい存在だった。佐理とは住む世界の違う雲の上に輝く眩しい太陽のようなお方。
けれど今、目の前の帝は“人”だった。
それは普段決して他人には見せることのない、帝の素顔でもあった。
人であるのに、人であらざる存在でなければならない苦しみはどれほどのものだろう。若い肩にかかる国の最高権力者としての重圧は、一介の、それも下流貴族の佐理には計り知れない。
孤島の城にひとり住む人。
そんな言葉が佐理の頭に浮かんだ。
『そうしないと私は自由に出歩くこともできない身なのだ』
誰よりも自由そうで誰よりも自由がなく、全てを持っているようで、本当に欲しいものは何一つ手に入れられないのかも知れない。
この国の皇子としてお生まれになった時から、その手はずっと伸ばされていたのだろうか。
手の先にあったものは自由か、真の友か、権力争いからの解放か。
そしていつでもそれらは指の間をすり抜け逃げていき、その手は宙を空回りするだけ。
その手が今、はっきりと佐理に向かって伸びていた。
欲しい、佐理が欲しいと。
大きいのに幼子の小さな紅葉のように見えるその手を、今まで誰も取ることがなかったその手を、佐理は、取ってあげたい、そう思った。
帝が本当に望むものに比べたら、自分は朝露ほどの価値しかないかも知れない。それでも、少しでも帝の乾きが自分で癒やされるのなら。
そして、何よりも佐理が帝のそばにいたかった。
人である帝を前にしても、帝が眩しい存在であることに変わりはなかった。
けれど……、
「さっきも言った通り、帝は私には眩しすぎます。帝を近くで見続けたら私の目はきっと潰れてしまうでしょう。私の目が見えなくなっても、帝は私をそばに置いてくださいますか?」
「佐理……」
帝は佐理の瞳をのぞき込んだ。
「それでもいいのでしたら」
帝の瞳の中心が喜びで大きく膨らんでいく。
「それを言うなら私はもうとっくに盲目だ。初めて池のほとりで佐理を見た時から、その眩(まばゆ)さに両眼とも奪われてしまっている」
帝は息ができないほど佐理を強く抱きしめるとその額に、頬に、瞼に、そして唇に、口づけた。
風に舞う桜の花びらよりたくさんの、帝は口づけの花を散らした。
佐理の中将が帝であったと両親と高子に伝えると、三人は石のように固まってしまった。
その上、花月の契りを申し込まれて、お受けしたと話すと、母親は卒倒してしまった。
父は水を飲んでいるのに酔っ払ったように大はしゃぎし、高子は涙を流して喜んでくれた。
「これで瀬央氏は安泰ですね。もうひもじい思いをしなくて済むのですね」
その後も食べ物のことばかり言っていた高子だったが、佐理は帝から聞いて知っているのだ。
高子が佐理のために男装して、帝に佐理の行き先を匂わせることを言ったことを。
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