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大内裏の、池の東側にあるあそこは、数少ない一人になれる場所だった。
生まれ落ちた時から特別な存在として扱われ、自由なようで自由でなく、全てを持っているようで、何も持っていなかった。
ずっと、自分であって自分でなかった。帝という入れ物の中にいる自分は空っぽだった。
ふとした時、ひどい空虚感に襲われた。そんな時、庭石の上に立って眺める景色は心を癒してくれた。
佐理の仕事が大内裏の庭掃除だと、とっくの前から知っていたが、あの日、庭石の苔がきれいに掃除されていたのを見た時、佐理と自分の見えない縁を感じずにはいられなかった。
佐理と出会ってから、自分の中にあった知らない感情が泉のように溢れ出てきた。
民のためでも誰のためでもなく、ただ自分のためだけの欲求は、空っぽの帝という人形だった自分を人にしてくれた。
人の世界は、感情に満ち溢れていた。それらは美しいものばかりではなかったが、強く生を実感した。
生きる、それは喜びだった。
初めて間近で見た佐理は、息を呑む美しさだった。
池のほとりで見た水蓮の精の記憶は、時間と共に色褪せるどころか、その輝きを増していたが、現実の佐理は美化された記憶の中の佐理よりも美しかった。
幻が逃げてしまうのではないかと抱きしめた。そうせずにはおられなかった。
佐理と会う前以上に、何をしていても佐理のことが頭から離れなくなった。
観月の宴の夜も、舟上で近衛中将や蔵人頭と和歌を詠みながらも、佐理のことばかり考えていた。
舟が池の東側に近づいたので、ぼんやりと庭石のある方角を見つめていた。
あの時は本当に危機一髪だった。
あられもない姿の佐理を見つけ、着ていた羽織で包んだ時は涙が出そうになった。
こんなことになるのなら、いっそ無理矢理にでも自分のものにしてしまおうかと思ったくらいだ。
そして苅野清友に猛烈に嫉妬した。
いつも佐理のそばにいて、佐理の信頼を得ている清友が憎くさえ感じた。
花月趣味のない佐理が嫌がるのを承知で唇を奪った。本当はあのまま佐理のまとっている布を全て剥ぎ取って、透き通るような白い肌の全部に口づけたかった。そしてそれ以上のことも。
心のどこかで、もしかしたら佐理はそれを赦してくれるのではないかという希望的観測があった。
のちに山火事の炎の中でそれは見事に打ち砕かれるのだったが、あの時はそう思ったのだ。
自分の腕の中で、口づけにとろける佐理を見て、もしかして佐理は男の自分を受け入れてくれるのではないかと。
近衛中将が泣きじゃくる小君を連れて来た時は何事かと思った。
佐理からの別れの文は、まさに青天の霹靂(へきれき)だった。
初めて会った本当の瀬央の姫君、高子は聞いた通りの凛々しい女性(ひと)だった。男子の装束がよく似合っていて、これは花の姫たちが放っておかないのではと思った。
高子は佐理の居場所についての重要なヒントをくれた。
兄を探して欲しい。
そんな気持ちが込められているように思えた。
その日のうちに、瀬央と縁(ゆかり)のある者たちの情報を集め、母方の遠縁が伊勢にいることが分かった。
本当はすぐにでも自分で佐理の後を追いたかった。が、どうしてもそれができなかった。いつものことながら、自分の帝という立場を恨めしく思った。
なので代わりに近衛中将を行かせた。本当は佐理を連れて京に戻ってくるよう頼んでいたのに、何を思ったのか中将はそのまま佐理を伊勢まで送り届けてしまった。けれど山賊に襲われかけた佐理を助けてくれたのだから、文句は言えまい。
今年の勅使は蔵人頭だとすでに決まっていたところを、急遽変更して、自らが伊勢に出向くことにした。
けれどそれを知っているのは近衛中将を含む、ごくわずかな人間だけで、表向きは例年通り、勅使が派遣されていることにした。
京でさえも、自分の顔を知る者は少ない、伊勢ならなおさらだ。まして人前ではずっと能面をつける。誰も勅使が帝本人だとは気づかないだろう。
文章博士と対等に渡り合う佐理を見て感銘を受けた。五十鈴川で高麗笛を吹いている佐理を見つけた時はもう我慢ができなかった。佐理が男の姿のままであることも忘れて、抱きしめ口づけをしてしまった。
けれど山火事のあの日、佐理にはっきりと佐理が自分のことを好きになることはないと言われた時、全てが終わったと思った。
今の心境を和歌に詠めば、素晴らしい失恋の和歌が詠めるのだろうか、などと、半分放心状態の頭で思った。実際にあの後、何かしていなくては哀しみで心が捻り潰されそうで、和歌を詠もうとしたが、出てくるのは重いため息ばかりだった。
生まれ落ちた時から特別な存在として扱われ、自由なようで自由でなく、全てを持っているようで、何も持っていなかった。
ずっと、自分であって自分でなかった。帝という入れ物の中にいる自分は空っぽだった。
ふとした時、ひどい空虚感に襲われた。そんな時、庭石の上に立って眺める景色は心を癒してくれた。
佐理の仕事が大内裏の庭掃除だと、とっくの前から知っていたが、あの日、庭石の苔がきれいに掃除されていたのを見た時、佐理と自分の見えない縁を感じずにはいられなかった。
佐理と出会ってから、自分の中にあった知らない感情が泉のように溢れ出てきた。
民のためでも誰のためでもなく、ただ自分のためだけの欲求は、空っぽの帝という人形だった自分を人にしてくれた。
人の世界は、感情に満ち溢れていた。それらは美しいものばかりではなかったが、強く生を実感した。
生きる、それは喜びだった。
初めて間近で見た佐理は、息を呑む美しさだった。
池のほとりで見た水蓮の精の記憶は、時間と共に色褪せるどころか、その輝きを増していたが、現実の佐理は美化された記憶の中の佐理よりも美しかった。
幻が逃げてしまうのではないかと抱きしめた。そうせずにはおられなかった。
佐理と会う前以上に、何をしていても佐理のことが頭から離れなくなった。
観月の宴の夜も、舟上で近衛中将や蔵人頭と和歌を詠みながらも、佐理のことばかり考えていた。
舟が池の東側に近づいたので、ぼんやりと庭石のある方角を見つめていた。
あの時は本当に危機一髪だった。
あられもない姿の佐理を見つけ、着ていた羽織で包んだ時は涙が出そうになった。
こんなことになるのなら、いっそ無理矢理にでも自分のものにしてしまおうかと思ったくらいだ。
そして苅野清友に猛烈に嫉妬した。
いつも佐理のそばにいて、佐理の信頼を得ている清友が憎くさえ感じた。
花月趣味のない佐理が嫌がるのを承知で唇を奪った。本当はあのまま佐理のまとっている布を全て剥ぎ取って、透き通るような白い肌の全部に口づけたかった。そしてそれ以上のことも。
心のどこかで、もしかしたら佐理はそれを赦してくれるのではないかという希望的観測があった。
のちに山火事の炎の中でそれは見事に打ち砕かれるのだったが、あの時はそう思ったのだ。
自分の腕の中で、口づけにとろける佐理を見て、もしかして佐理は男の自分を受け入れてくれるのではないかと。
近衛中将が泣きじゃくる小君を連れて来た時は何事かと思った。
佐理からの別れの文は、まさに青天の霹靂(へきれき)だった。
初めて会った本当の瀬央の姫君、高子は聞いた通りの凛々しい女性(ひと)だった。男子の装束がよく似合っていて、これは花の姫たちが放っておかないのではと思った。
高子は佐理の居場所についての重要なヒントをくれた。
兄を探して欲しい。
そんな気持ちが込められているように思えた。
その日のうちに、瀬央と縁(ゆかり)のある者たちの情報を集め、母方の遠縁が伊勢にいることが分かった。
本当はすぐにでも自分で佐理の後を追いたかった。が、どうしてもそれができなかった。いつものことながら、自分の帝という立場を恨めしく思った。
なので代わりに近衛中将を行かせた。本当は佐理を連れて京に戻ってくるよう頼んでいたのに、何を思ったのか中将はそのまま佐理を伊勢まで送り届けてしまった。けれど山賊に襲われかけた佐理を助けてくれたのだから、文句は言えまい。
今年の勅使は蔵人頭だとすでに決まっていたところを、急遽変更して、自らが伊勢に出向くことにした。
けれどそれを知っているのは近衛中将を含む、ごくわずかな人間だけで、表向きは例年通り、勅使が派遣されていることにした。
京でさえも、自分の顔を知る者は少ない、伊勢ならなおさらだ。まして人前ではずっと能面をつける。誰も勅使が帝本人だとは気づかないだろう。
文章博士と対等に渡り合う佐理を見て感銘を受けた。五十鈴川で高麗笛を吹いている佐理を見つけた時はもう我慢ができなかった。佐理が男の姿のままであることも忘れて、抱きしめ口づけをしてしまった。
けれど山火事のあの日、佐理にはっきりと佐理が自分のことを好きになることはないと言われた時、全てが終わったと思った。
今の心境を和歌に詠めば、素晴らしい失恋の和歌が詠めるのだろうか、などと、半分放心状態の頭で思った。実際にあの後、何かしていなくては哀しみで心が捻り潰されそうで、和歌を詠もうとしたが、出てくるのは重いため息ばかりだった。
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