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佐理は立派な寝殿造の屋敷の前にいた。
直接家の扉を叩いてもどうせ門前払いされるだけだ。さっき外から馬場をのぞいて見たら、そこに春雪はいなかった。
佐理は外で月光の君を待ち伏せすることにした。
屋敷の庭に植えられた桜の木が見えた。固い蕾が若干緩んだようにも見える。
ふと佐理はある重大なことに気づいた。月光の君はまだ新婚だ。貴族たちの間では夫が妻の元に通う通い婚が一般的だ。月光の君クラスだと妻を自分の家に住まわせることが多いが、今回はそうではないらしい。
何しろ相手は帝の妹君の定子様だ。二人の新居をどこかに構えたという話は聞いていない。
ということは、結婚後も月光の君が定子様のところに通っているのだろう。
そうなると今日、月光の君が家に帰ってこない可能性がある。
定子様がおられるのは御所。
何日かかってもここで月光の君を待つしかないと佐理が腹をくくった時、月光の君が春雪と共に帰ってきた。
「これはこれは、どこぞの天女が羽衣を失くして地上に止(とど)まっているかと思ったら、瀬央殿ではないか」
月光の君の歯の浮いたようなセリフには毎回感心させられる。
なぜ自分の正体を隠していたのかと問い詰めたい気持ちもあったが、それもすっかり萎えてしまう。
「近衛中将様、実はお願いがあって参りました」
月光の君は春雪からひらりと飛び降りた。
「蔵人頭様に会わせていただけませんか?」
「なんで?」
月光の君は真顔で短く問い返してきた。
佐理の立場を考えると、本来なら一笑に付されてもおかしくない願い事だった。
佐理は用意していた理由を口にした。それは事実でもあった。
「観月の宴の夜のお礼が言いたいんです」
「お礼?」
佐理は恥を忍んで、男たちに襲われかけたあの夜のことについて話した。
「そのことだったら俺も覚えてるよ、俺もあの時その場にいたから。災難だったね、でも未遂に終わってよかった。それで君は君を助けてくれたのが蔵人頭だと?」
「蔵人頭様は弓術が得意だとお聞きしましたので。あの暗がりで、揺れる小舟の上からすれすれを狙うのはかなりの達人でないと無理かと思われます」
「それが俺だったとは思わないんだ? 山賊たちをやっつけた俺を見ただろう?」
月光の君はすねたように口を尖らせたが、本気で言っているのではないとすぐに分かった。
「いいよ、蔵人頭に会わせてあげるよ」
月光の君はさらりと承諾した。
「今度、ごく親しい仲間内で賭弓(のりゆみ)をやる。場所は御所だ。それに俺の手伝いとして一緒においで」
賭弓は賞品をかけて弓術を競う競技で、新年の祝い事として、大々的に弓場殿(ゆみばどの)でも行われている。
「ありがとうございます」
佐理は深く頭を下げた。ゆっくりと上体を起こすと、月光の君と目が合った。
「蔵人頭のことが好きかい?」
「えっ」
いきなりの問いに佐理は言葉に詰まる。
「あんなところを助けられたんじゃ、好きになっちゃうよね、まるで皇子様だよね」
「そっ、それは……」
佐理はすぐには否定できなかった。けれどじりじりと耳の縁が火照ってくるのが自分でも分かる。
「世の中なにが起きるか分かんないもんだね。俺は前から君の噂は聞いてたよ。俺と同じ花月嫌いの聡明な超美人がいるって。その君がこうやって変わってしまうんだからね。それに俺だって君を見てるとなんだか変な気分になってくる」
佐理の顔が引きつったのを見てとると、冗談冗談と月光の君は笑った。
「それじゃ、賭弓の会、楽しみにしてるよ」
そう言うと月光の君は屋敷の中へ入って行った。
佐理は早速このことを清友に報告した。
「すごいじゃないか。御所で賭弓(のりゆみ)とは。さすがは帝の妹君の婿だな。俺たち下流貴族とは一生縁のない話だ」
清友は自分のことのように喜んでくれた。
直接家の扉を叩いてもどうせ門前払いされるだけだ。さっき外から馬場をのぞいて見たら、そこに春雪はいなかった。
佐理は外で月光の君を待ち伏せすることにした。
屋敷の庭に植えられた桜の木が見えた。固い蕾が若干緩んだようにも見える。
ふと佐理はある重大なことに気づいた。月光の君はまだ新婚だ。貴族たちの間では夫が妻の元に通う通い婚が一般的だ。月光の君クラスだと妻を自分の家に住まわせることが多いが、今回はそうではないらしい。
何しろ相手は帝の妹君の定子様だ。二人の新居をどこかに構えたという話は聞いていない。
ということは、結婚後も月光の君が定子様のところに通っているのだろう。
そうなると今日、月光の君が家に帰ってこない可能性がある。
定子様がおられるのは御所。
何日かかってもここで月光の君を待つしかないと佐理が腹をくくった時、月光の君が春雪と共に帰ってきた。
「これはこれは、どこぞの天女が羽衣を失くして地上に止(とど)まっているかと思ったら、瀬央殿ではないか」
月光の君の歯の浮いたようなセリフには毎回感心させられる。
なぜ自分の正体を隠していたのかと問い詰めたい気持ちもあったが、それもすっかり萎えてしまう。
「近衛中将様、実はお願いがあって参りました」
月光の君は春雪からひらりと飛び降りた。
「蔵人頭様に会わせていただけませんか?」
「なんで?」
月光の君は真顔で短く問い返してきた。
佐理の立場を考えると、本来なら一笑に付されてもおかしくない願い事だった。
佐理は用意していた理由を口にした。それは事実でもあった。
「観月の宴の夜のお礼が言いたいんです」
「お礼?」
佐理は恥を忍んで、男たちに襲われかけたあの夜のことについて話した。
「そのことだったら俺も覚えてるよ、俺もあの時その場にいたから。災難だったね、でも未遂に終わってよかった。それで君は君を助けてくれたのが蔵人頭だと?」
「蔵人頭様は弓術が得意だとお聞きしましたので。あの暗がりで、揺れる小舟の上からすれすれを狙うのはかなりの達人でないと無理かと思われます」
「それが俺だったとは思わないんだ? 山賊たちをやっつけた俺を見ただろう?」
月光の君はすねたように口を尖らせたが、本気で言っているのではないとすぐに分かった。
「いいよ、蔵人頭に会わせてあげるよ」
月光の君はさらりと承諾した。
「今度、ごく親しい仲間内で賭弓(のりゆみ)をやる。場所は御所だ。それに俺の手伝いとして一緒においで」
賭弓は賞品をかけて弓術を競う競技で、新年の祝い事として、大々的に弓場殿(ゆみばどの)でも行われている。
「ありがとうございます」
佐理は深く頭を下げた。ゆっくりと上体を起こすと、月光の君と目が合った。
「蔵人頭のことが好きかい?」
「えっ」
いきなりの問いに佐理は言葉に詰まる。
「あんなところを助けられたんじゃ、好きになっちゃうよね、まるで皇子様だよね」
「そっ、それは……」
佐理はすぐには否定できなかった。けれどじりじりと耳の縁が火照ってくるのが自分でも分かる。
「世の中なにが起きるか分かんないもんだね。俺は前から君の噂は聞いてたよ。俺と同じ花月嫌いの聡明な超美人がいるって。その君がこうやって変わってしまうんだからね。それに俺だって君を見てるとなんだか変な気分になってくる」
佐理の顔が引きつったのを見てとると、冗談冗談と月光の君は笑った。
「それじゃ、賭弓の会、楽しみにしてるよ」
そう言うと月光の君は屋敷の中へ入って行った。
佐理は早速このことを清友に報告した。
「すごいじゃないか。御所で賭弓(のりゆみ)とは。さすがは帝の妹君の婿だな。俺たち下流貴族とは一生縁のない話だ」
清友は自分のことのように喜んでくれた。
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