御簾越しの君

八月 美咲

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   銀箔をあしらった唐風扇で顔を隠した佐理が舞殿に現れるとパラパラと拍手が起きた。

 中将と定子様は舞殿の正面の席だと聞かされていた。佐理が舞殿の中央に立つとその場が静まり返る。

「漢皇(かんこう)色を重んじて傾国(けいこく)を思ふ」
(漢の皇帝は絶世の美女を欲していた)

 佐理の透き通るような声が響く。

 澱(よど)みないその声とは裏腹に佐理の胸は今にも破けそうだった。

「御宇(ぎょう)多年求むれども得ず」
(在位中、長年探し求めたが得ることはできず)

 佐理は顔を覆った扇をひらひらと脇に散らせた。

 佐理の長い睫毛が伏せられた瞼の上に、白い頬に、人々の視線が張り付くのを感じた。

 佐理は決して視線を上げなかった。

 今、自分の目の前に中将がいる。

 佐理は正面から贈られる痛いほどの視線を全身に受けながら舞い続けた。

 心を無にした。でないと息ができずに声を失いそうだった。

 手足が震えてこの場に倒れてしまいそうだった。

 青い空だけを見つめて無心で舞い続けた。

 割れんばかりの拍手喝采で、佐理は自分が最後の節を詠み終えたのだと気づいた。

 身体は自然に舞いを閉じ、正面を向いてひざまずいていた。

「素晴らしい舞でした、感動いたしました」

 柔らかでそれでいて芯のある女性の声がした。

 定子様の言葉に佐理は下げた頭をさらに深くした。

「ねぇ、中将様もそうお思いでしょう」

「……」

 中将は無言だった。佐理はうつむいたまま固く目を閉じる。

 中将はかける言葉がないのだ。

 いたたまれなかった。このまま消えてしまいたかった。

「まぁ、中将様ったら瀬央殿の美しさに見惚れてしまって、お声も出ませんの?」

「い、いやっ……それは、その」

 コホンと咳き込み、言葉を濁す。

 佐理は閉じていた目を見開いた。

 うつむいたまま、視線が忙(せわ)しげに彷徨う。

 この声は……。

「なんとかおっしゃって」

「見惚れてなんてないよ、世界で一番美しいのは君だもの」

 この声は、佐理の知っている中将の声ではない。

 そして佐理はその声と喋り方に聞き覚えがあった。

 佐理はそろりと顔を上げた。

 目の前に純白の花嫁衣装に身を包んだ定子様と、その横に同じく純白の花婿衣装に身を包んだ、

「月光の……君……?」

 月光の君は罰が悪そうに苦い笑みを浮かべた。

「はい、月光の君です……」

「どうしてあなたがここに」

「いや、だって今日は俺と定子ちゃんの婚礼の儀だし」

「……」

 佐理は言葉を失った。

 これ以上は愚問だった。

 さっきの春雪の件といい、今、目の前のこの状況から月光の君が近衛中将であることに間違いはなかった。

 その後、いくつか定子様と言葉を交わし、佐理は舞殿を後にした。

 最後に佐理は御簾の降りた上座に向かって深く一礼をした。

 きっとそこには帝がおられる。



 着替えて持ち場に戻っても、佐理はぼんやりしたまま、何も手につかなかった。

 まるで夢でも見ているような気分だった。

 月光の君は、佐理が以前から耳にしていた噂通りの近衛中将、そのものだった。

 リアル光の君と異名を持ち、数々の女性と浮き名を流すプレイボーイ。

 すらすらとその口から滑り出す佐理への甘い言葉。花月嫌いで有名な近衛中将。佐理を褒めながらも自分には花月の趣味がないとはっきりと口にした月光の君。

 月光の君が近衛中将。

 黒翡翠のような澄んだ瞳が佐理を見つめる。

 だったらあれは誰なのだ。

 近衛中将だと名乗って佐理に文をよこし、御簾越しに『十六夜の君』と佐理に呼びかけ、二人を隔てる御簾を越え佐理を抱き締めた、そしてその唇を情熱的に合わせてきた、あの中将はいったいどこの誰なのだ? 



 その日、佐理はどうにか仕事をしようとはしたものの失敗の嵐だった。

 そしてやはりここでも、佐理を助けてくれたのは清友だった。

「佐理、どうした?」

「清友、大変だ」

 佐理の様子を見た清友はすぐにただ事でないと察知したようだった。

「話は今日、仕事が終わってからゆっくり聞く。それまで佐理、なんとか頑張れ、俺もできるだけフォローしてやるから」

 頼もしい清友の言葉に佐理はうなずいた。


 婚礼の儀が終わったのは、その日は夜も遅くだった。

 朝から働き詰めでへとへとなのに、それでも清友は佐理の話を聞くために佐理を酒肆(しゅし)に誘った。

 軽いつまみと酒を出すその店は、いつもより客で賑わっていた。中将と定子様の結婚とあって国中お祝いムードなのだ。

 高価な酒を買えない庶民たちは、代わりに酒粕をお湯で溶いたものを飲んでいる。

 清友に酒を飲むかと聞かれたが佐理は頭(かぶり)を振った。そんなお金は佐理にはない。

 清友が自分の奢りだからとさらに聞いてきたが、佐理は自分は水でいいと答えた。

 にもかかわらず清友は酒粕を二つ頼み、運ばれてくると一つを佐理の前に置いた。

「とりあえず飲め」

 二人は黙って酒粕を飲み干す。

「それで何が起きた?」

 清友は二杯目を注文すると佐理に向き直った。

「清友、近衛中将は近衛中将じゃなかったんだ」

 清友は表情こそ大きく崩しはしなかったが、その目をわずかに見開いた。

 佐理は今日あったことを清友に話した。気が急(せ)いてしまって、話が行きつ戻りつし、途中同じことを何度も繰り返してしまったりしたが、清友は辛抱強く最後まで佐理の話に耳を傾けてくれた。

「なるほど、佐理を山賊から助けてくれた月光の君が本物の近衛中将で、俺たちが近衛中将だと思っていた中将は偽物だったという訳か」

 偽物。

 その言葉が棘のように佐理の胸に刺さる。

「中将の名を語る新手の何かか、でも……」

 清友がその後に何を言おうとしているのか佐理には分かった。

 清友もまた、佐理が自分と同じことを考えていると悟ったような目をした。

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