御簾越しの君

八月 美咲

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   京の町のいたるところで梅がほころび始めた頃、中将の婚礼の儀が行われる日が決まった。

 その日は冷たい空気の中にも、甘い梅の芳香が溶けこんだ早春を思わせる日だった。

 皇族の婚儀ともなれば、それはもはや大内裏での行事の一貫だ。当然のように佐理も儀式の準備を手伝わされる。

 そしていつもの如く、肝心の儀式やその中心となる人物たちから佐理は遠く離れたところにいて、何が行われているのかはっきりと分からなかった。

 が、今回はそれがありがたかった。

 中将の姿を一目見たいという気持ちもあった。でも見るのが怖くもあった。

 少しでも手があくと余計なことを考えてしまうので、佐理は休みなく働き続けた。

 婚礼の儀の招待客は多く、仕事は探せばいくらでもあった。

 馬場の前を通りかかった時、佐理はふと、もしかしたらあの月光の君も婚礼の儀に招待されているかも知れないと思った。

 果たしてあの雪のように白い見事な白馬はすぐに見つかった。

 主人を待っている馬たちはどの馬も立派だったが、その中で一際目立っていたのが佐理を乗せて伊勢まで駆け抜けた、あの白馬だった。

 少し離れたところに馬に水をやっている馬番らしき青年を見つけ、佐理はあの白馬は誰の馬かと聞いた。

「どの馬?」

 馬番は背を伸ばして佐理が指差す方に目をやる。

「あそこの立派な白馬だよ」

 馬場にいた馬の中でシミ一つない白馬はその一頭しかいなかった。他にいた二頭の白馬は、一頭はたてがみと背中の一部が茶色で、もう一頭は白馬でもうっすらと灰色がかった色をしていた。

「ああ、あれは近衛中将様の馬だよ」

 佐理は間髪をいれずに、

「いや、あのたてがみが茶色いのでも、ちょっと灰色がかった白いのじゃなくて、あの全身真っ白の白馬だよ」

 最後の全身真っ白の部分を強調する。

「だからあのシュンセツは近衛中将様の愛馬だって」

「シュンセツ?」

「春の雪って書いて春雪。あの馬の名前だよ」

 あの白馬は月光の君の白馬だと思ったが、佐理の見間違いか?

 佐理は春雪に歩み寄った。

 大きな濡れた瞳が佐理を見つめる。佐理はそっと手を伸ばした。

「あっ、ちょっと待って、春雪は」

 佐理は春雪のたてがみを優しく撫でた。

「なんだあなた、春雪を知ってるんじゃないか」

 馬番は水の入った桶を足下に置くと、佐理の隣にやって来た。

「春雪は知らない人間には絶対に自分の身体を触らせないから」

「そうなのか? ねえ、これ本当に近衛中将様の馬かい?」

「しつこいな、何度もそう言ってるだろ」

 どういうことだ? けど、この馬番が嘘をついているようには見えない。

 月光の君と中将は友人で、あの日、月光の君は中将から春雪を借りていたとでもいうのだろうか。

「近衛中将様は春雪を誰かによく貸したりするのか?」

「まさか、中将様は春雪をとても大事にしてるから絶対に人に貸したりしないよ。だから春雪も中将様のとりなしがないと、人には懐かない」

「とりなし?」

「中将様を介してでないとこうやって人には触らせないってこと。つまりあなたは中将様と春雪に同時に会ってるってことだよ。もっと言えば、春雪はとても頭がいいから中将様が快く思っていない人間には懐かない。春雪はあなたのこと覚えているのにあなたは春雪のことを覚えてないなんて、馬より馬鹿なのか?」

 最後の馬鹿は聞き捨てならないが、それどころではなかった。

 佐理は懸命に中将との記憶を辿る。

 だが、佐理と中将と白馬が一緒にいる記憶はどこを探しても見つからない。

 あるのは月光の君に抱かれて、伊勢まで駆けぬけたあの日のことだけだ。

 いったいこれはどういうことだ。

 佐理の中で一つの答えが出ようとしていたその時、

「瀬央殿」

 遠くからこちらに向かって束帯(そくたい)姿の男性が歩いてくる。

「よかった見つかって。すぐに舞殿に来てくださらぬか。定子様がどうしても見たいとおっしゃられてな」

 男性の次の言葉に佐理は愕然とした。

 なんと中将と定子様の前でこれから佐理に長恨歌を舞えと言うのだ。

 宴の席で誰かが佐理の舞の話をしたらしく、それを聞いた定子様がいたく興味を持たれたとのことだった。

「む、無理です。私は今日は人前に出れるような格好ではありません」

 今日は特に汚れてもいい着古した狩衣を着ていて、朝から働き回った勲章のようにあちこちに酒や食べ物のシミがついていた。

「装束はこちらで全部用意してます。さぁ、瀬央殿」

 佐理に拒否権はなかった。

 連れて行かれた部屋には、佐理が今まで見たこともない美しい装束が用意されていた。

 唐の宮廷舞踊用の装束とのことだった。

 銀箔が散りばめられた陽炎(かげろう)の羽のような布に、胸の上に巻かれた真紅の帯。華奢な銀細工の冠をかぶると、佐理の着替えを手伝っていた下男たちは眩しいものを見るかのように目を細めた。

「梅の精の衣装だとは聞いてましたが、男とも女ともつかない、なんとも言えない神秘的な美しさだ」

 最後に帯と同じ真紅を佐理のその花びらのような唇にさすと、皆言葉を失い、目の前の佐理に見惚れた。

 そんな周りとは対照的に、佐理の内心はずっと乱れに乱れてまくっていた。

 他の女性(ひと)のものになる中将を祝って長恨歌を舞えと? 

 今日、ここにこうしているだけでも、何度も心が折れそうになったのに、二人のために愛の舞を舞えと? 

 そして何よりも、それでは中将に顔を見られてしまうではないか。

 ついに佐理が男だとバレてしまう。中将はどう思うだろう。もしかするとその場で怒り出すかもしれない。

 そうなったら祝いの宴が台無しだ。いや、賢い中将はそんなことはしまい。きっと冷ややかな目で佐理を静観するだろう。

 中将は帝の妹君という尊い女性(ひと)を妃に迎えたのだ。すでに佐理のことなどどうでもいいに違いない。

 深淵の底まで落ちたような哀しみは、佐理に諦めと覚悟を運んできた。

 舞殿に設けられた席には招待客たちが酒や肴に舌鼓を打ちながら、佐理の登場を今か今かと待っていた。

「本日は帝もいらっしゃる。くれぐれも粗相のないように」

 直前に束帯姿の男にそう耳打ちされた。

 “帝”その言葉さえも佐理の耳を右から左へと抜けていくだけだった。

 佐理はただ曖昧にうなずいた。
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