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ただでさえ帰り道というのは、人を寂(わ)びしい気持ちにさせるのに、京への道のりは佐理が想像していた以上に長く険しいものだった。
行きは月光の君の白馬に乗せてもらったのでよく分からなかったのだ。
清友に月光の君の話をすると、清友はあからさまに顔をしかめた。
清友にそんな顔をさせたのは月光の君ではなく佐理をさらおうとした山賊だった。
「危なかったな佐理、やっぱり俺が迎えに来てよかった」
「ちゃんとお礼がしたいから、京に戻ったら探したいんだ。乗っていた白馬が目印になるんじゃないかと思う」
「それだったら大内裏の馬場を探すといいよ。宮仕えをしている上流貴族たちはみんなあそこに馬を置いてるから」
清友は一緒に探してやると言ってくれたが、佐理はもし自分ひとりでなかなか見つけることができなかったらその時は、と返した。
これ以上清友に甘えるわけにはいかない。
頭ではそう思うのに、中将のことを考えると足取りが重くなった。
気づくと立ち止まってしまっていた。
「ゆっくりでいいよ、佐理」
そんな佐理に清友は歩調を合わせてくれ、佐理が止まれば歩き出すまで辛抱強く待ってくれた。
清友にはいつか必ずこの恩を返したい、佐理は心の内で密かにそう誓った。
久しぶりに再会した家族と、佐理は涙の抱擁を交わした。
そうしてこの時、佐理は心の底から思った。これで良かったのだと。
偽りの恋の茶番は終わり、中将は佐理を佐理と知らぬまま、中将にふさわしい女性(ひと)を妃に迎え、佐理の家族はいつ中将に嘘がバレるかとハラハラする必要はもうない。
短い間だったが、中将からの貢物でおいしい思いもさせてもらった。
これでみんな幸せじゃないか。
佐理だってそうだ。
佐理は元々大の花月嫌いで男と恋愛するなんてとんでもないと思っていたではないか。
カツラを被って女の衣をまとい、高子の振りをして中将の甘い言葉を耳元で聞き、その腕に何度も抱かれたために、中将に恋してしまったと勘違いしただけだ。
全て本来あるべき姿に戻っただけだ。
それなのに……、
どうして自分の心は元に戻らないのだ。
諦めなければいけないのに、忘れなければいけないのに。佐理の心がずっと鳴いている。
恋しい、恋しい、中将が恋しい……と。
しばらくぶりに大内裏に出仕した佐理は、さぞかし仕事が溜まっているだろうと覚悟していたが、思いがけず庭はきれいだった。
秋は美しいが、毎日落ち葉との戦いだ。一日中庭をかいても夕方には朝かいたところに落ち葉が降り積もっている。
佐理が留守にしていた間、清友が佐理に代わって庭の落ち葉かきをしてくれていたらしい。清友は自分の仕事もあるのに。
今は枯れてすっかり裸になってしまった木々を見ながら、佐理は清友の友情に深く感謝せずにはいられなかった。
昼過ぎに一仕事終えると、佐理は馬場に行ってみた。
けれどそこで月光の君の白馬を見つけることはできなかった。
その後も何度か馬場をのぞいたが、結果は同じだった。
また、誰に聞いても今年の勅使が誰であるかが分からなかった。
「何やら直前で変更になったとか、ならなかったとか」
何人かがそんなことを口にしたが、皆あやふやで、結局何も分からずじまいだった。
それから、平穏な日々が続いた。
朝は暗いうちから起き、占いでその日の運勢をチェックし一日の過ごし方を決める。
出仕して大内裏の庭の掃除をする。帰宅し、両親と高子とその日あったたわいもない話をし、書物を読み、そして早くに床に着く。
中将に会う前の日常が戻ってくる。けれど佐理の心は中将と会う前には戻れなかった。
中将が佐理の元に通っていた期間はそう長くはないのに、佐理の部屋の隅々に中将との思い出の欠片が散らばっていた。
宮仕えが休みの日は、中将がいつも座っていた簀子縁(すのこえん)に腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めて過ごした。
和歌を詠む気にも、笛を吹く気にも、あの大好きだった長恨歌を舞う気にもなれなかった。
当たり前だが、もう中将からの文は届かなかった。
京にいる者で中将の結婚を知らない者はいない。当然佐理の両親も高子も知っているはずだが、家では暗黙の了解のように中将の名前を口にする者はいなかった。
そうしているうちに年も暮れ、新年を迎えた。
年末年始は大内裏での行事が多く、慌ただしく時間が過ぎて行った。
それはキンと乾いた空気が冷たい、風の強い日だった。
その日、中将の婚礼の前祝いとして、山で鹿狩りが行われた。
狩りに参加する上流貴族たちは皆仮装姿という変わった趣向で、天狗や僧侶、風神や雷神に扮した上流貴族たちが嬉々として集まった。
そしていつものごとく、佐理は朝から手伝いに駆り出される。
犬たちの鳴き声が木々の間を木霊する。佐理は清友と共に山中の休憩所で食事の用意や暖を取る貴族たちの世話をしていた。
何やら焦げ臭い匂いがしてきて、佐理は鍋をかけた釜戸(かまと)に目をやるが異常はない。
空を仰ぐと突き抜けるような青空に灰色の不穏な雲がはらんでいる。
「大変だ! 山火事だ!」
従者らしき男が転がるように山を降りて来た。
その場にいた皆に緊張が走る。
不安げに辺りを見回し空を見上げる。
そこにすすけた煙を見つけると、くつろいでいた貴族たちは慌てて山を降りる準備を始めた。
焦げ臭い匂いはあっという間に濃度を増し、遠くで真っ赤な炎が立ち上っているのが見えた。
佐理たちが荷物をまとめ終わった頃にはすでに上流貴族たちは下山を始め、その場に残っているのは下働きの者たちだけだった。
「佐理、急げ、降りるぞ」
強い風で足の速い炎がすぐそこまで迫って来ていた。
そこへ一頭の馬が走り込んできた。
「ここに近衛中将様はおられるか!?」
馬上にいたのは中将の侍従だった。
下山した貴族たちの中に中将の姿がないという。
今日の主役である中将は今朝、先頭を切って山に入って行ったらしい。
「山頂近くの大岩で中将様を見た者がいるが、ここには立ち寄られてないか!?」
すでに山頂付近は火の海だ。
中将!
佐理は震撼した。
が、次の瞬間身体が勝手に動き、佐理はその場から駆け出していた。
行きは月光の君の白馬に乗せてもらったのでよく分からなかったのだ。
清友に月光の君の話をすると、清友はあからさまに顔をしかめた。
清友にそんな顔をさせたのは月光の君ではなく佐理をさらおうとした山賊だった。
「危なかったな佐理、やっぱり俺が迎えに来てよかった」
「ちゃんとお礼がしたいから、京に戻ったら探したいんだ。乗っていた白馬が目印になるんじゃないかと思う」
「それだったら大内裏の馬場を探すといいよ。宮仕えをしている上流貴族たちはみんなあそこに馬を置いてるから」
清友は一緒に探してやると言ってくれたが、佐理はもし自分ひとりでなかなか見つけることができなかったらその時は、と返した。
これ以上清友に甘えるわけにはいかない。
頭ではそう思うのに、中将のことを考えると足取りが重くなった。
気づくと立ち止まってしまっていた。
「ゆっくりでいいよ、佐理」
そんな佐理に清友は歩調を合わせてくれ、佐理が止まれば歩き出すまで辛抱強く待ってくれた。
清友にはいつか必ずこの恩を返したい、佐理は心の内で密かにそう誓った。
久しぶりに再会した家族と、佐理は涙の抱擁を交わした。
そうしてこの時、佐理は心の底から思った。これで良かったのだと。
偽りの恋の茶番は終わり、中将は佐理を佐理と知らぬまま、中将にふさわしい女性(ひと)を妃に迎え、佐理の家族はいつ中将に嘘がバレるかとハラハラする必要はもうない。
短い間だったが、中将からの貢物でおいしい思いもさせてもらった。
これでみんな幸せじゃないか。
佐理だってそうだ。
佐理は元々大の花月嫌いで男と恋愛するなんてとんでもないと思っていたではないか。
カツラを被って女の衣をまとい、高子の振りをして中将の甘い言葉を耳元で聞き、その腕に何度も抱かれたために、中将に恋してしまったと勘違いしただけだ。
全て本来あるべき姿に戻っただけだ。
それなのに……、
どうして自分の心は元に戻らないのだ。
諦めなければいけないのに、忘れなければいけないのに。佐理の心がずっと鳴いている。
恋しい、恋しい、中将が恋しい……と。
しばらくぶりに大内裏に出仕した佐理は、さぞかし仕事が溜まっているだろうと覚悟していたが、思いがけず庭はきれいだった。
秋は美しいが、毎日落ち葉との戦いだ。一日中庭をかいても夕方には朝かいたところに落ち葉が降り積もっている。
佐理が留守にしていた間、清友が佐理に代わって庭の落ち葉かきをしてくれていたらしい。清友は自分の仕事もあるのに。
今は枯れてすっかり裸になってしまった木々を見ながら、佐理は清友の友情に深く感謝せずにはいられなかった。
昼過ぎに一仕事終えると、佐理は馬場に行ってみた。
けれどそこで月光の君の白馬を見つけることはできなかった。
その後も何度か馬場をのぞいたが、結果は同じだった。
また、誰に聞いても今年の勅使が誰であるかが分からなかった。
「何やら直前で変更になったとか、ならなかったとか」
何人かがそんなことを口にしたが、皆あやふやで、結局何も分からずじまいだった。
それから、平穏な日々が続いた。
朝は暗いうちから起き、占いでその日の運勢をチェックし一日の過ごし方を決める。
出仕して大内裏の庭の掃除をする。帰宅し、両親と高子とその日あったたわいもない話をし、書物を読み、そして早くに床に着く。
中将に会う前の日常が戻ってくる。けれど佐理の心は中将と会う前には戻れなかった。
中将が佐理の元に通っていた期間はそう長くはないのに、佐理の部屋の隅々に中将との思い出の欠片が散らばっていた。
宮仕えが休みの日は、中将がいつも座っていた簀子縁(すのこえん)に腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めて過ごした。
和歌を詠む気にも、笛を吹く気にも、あの大好きだった長恨歌を舞う気にもなれなかった。
当たり前だが、もう中将からの文は届かなかった。
京にいる者で中将の結婚を知らない者はいない。当然佐理の両親も高子も知っているはずだが、家では暗黙の了解のように中将の名前を口にする者はいなかった。
そうしているうちに年も暮れ、新年を迎えた。
年末年始は大内裏での行事が多く、慌ただしく時間が過ぎて行った。
それはキンと乾いた空気が冷たい、風の強い日だった。
その日、中将の婚礼の前祝いとして、山で鹿狩りが行われた。
狩りに参加する上流貴族たちは皆仮装姿という変わった趣向で、天狗や僧侶、風神や雷神に扮した上流貴族たちが嬉々として集まった。
そしていつものごとく、佐理は朝から手伝いに駆り出される。
犬たちの鳴き声が木々の間を木霊する。佐理は清友と共に山中の休憩所で食事の用意や暖を取る貴族たちの世話をしていた。
何やら焦げ臭い匂いがしてきて、佐理は鍋をかけた釜戸(かまと)に目をやるが異常はない。
空を仰ぐと突き抜けるような青空に灰色の不穏な雲がはらんでいる。
「大変だ! 山火事だ!」
従者らしき男が転がるように山を降りて来た。
その場にいた皆に緊張が走る。
不安げに辺りを見回し空を見上げる。
そこにすすけた煙を見つけると、くつろいでいた貴族たちは慌てて山を降りる準備を始めた。
焦げ臭い匂いはあっという間に濃度を増し、遠くで真っ赤な炎が立ち上っているのが見えた。
佐理たちが荷物をまとめ終わった頃にはすでに上流貴族たちは下山を始め、その場に残っているのは下働きの者たちだけだった。
「佐理、急げ、降りるぞ」
強い風で足の速い炎がすぐそこまで迫って来ていた。
そこへ一頭の馬が走り込んできた。
「ここに近衛中将様はおられるか!?」
馬上にいたのは中将の侍従だった。
下山した貴族たちの中に中将の姿がないという。
今日の主役である中将は今朝、先頭を切って山に入って行ったらしい。
「山頂近くの大岩で中将様を見た者がいるが、ここには立ち寄られてないか!?」
すでに山頂付近は火の海だ。
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佐理は震撼した。
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