御簾越しの君

八月 美咲

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   佐理は叔母に連れられ家に戻った。途中何度も河原を振り返ったが、勅使の白い姿を見つけることはできなかった。

 佐理は混乱していた。

 あれは、あの勅使は、いったい誰だ? 白い能面の下に隠れている顔は誰の顔だ? 

 苦しくなるくらいきつく抱きしめられ、布越しに伝わってきた勅使の火照った体温。熱い脈動が発散させる仄かな体臭ともいえる、身体に染み付いた伽羅の香り。

 あれは、確かに中将のものだった。

 中将の胸の中で佐理が嗅いでいたあの香り。それを思い出すだけで、今でも狂おしいほど佐理は中将の抱擁が欲しくなる。

 佐理はふと思い立ち、京から持ってきた荷物の中からあの絹の羽織を取り出した。

 麒麟(きりん)の刺繍に鼻を近づけると深く息を吸い込む。

 まだ微かにそこに残る伽羅の香りは、今日、勅使から香ってきたものと同じだった。

 どういうことなのだ。でもあれが中将であるはずがない。

 きっと自分は中将恋しさに幻覚を見たのだ。

 あんなにはっきりと? 

 佐理は自分の唇に手をやった。今でも生々しく残る勅使との口づけの感覚。

 あれが幻であろうものか。

 考えれば考えるほど、出口のない迷路に迷い込んだように訳が分からなくなった。

 その夜、佐理は絹の羽織を抱いて床に入った。

 そのことで、自分にもう言い訳はしなかった。

 中将が恋しくて恋しくてならなかった。



 清友が佐理に会いにやって来たのは、それからしばらくしてのことだった。

 京を出る時、清友には何も言わずに来てしまったが、清友はそんなことは少しも気にした様子はなく、佐理との再会を喜んでくれた。

 佐理が宮仕えを休んでいるのを知った清友はすぐに瀬央の家を訪ね、高子から事情を聞いたらしい。

 清友は叔父夫婦に京土産を、佐理には家族からの文を持って来た。

 佐理が京をたった同じ日、中将が瀬央の家にやって来たことを佐理は家族からの文で知った。

 中将は君子らしく、すんなりと引き下がったとそこに書いてあった。

 それを読んだ時、佐理は自分がひどくがっかりしていることに気づいた。自分から中将を振っておきながら、いったい何を中将に求めていたというのか。

 いつも穏やかで紳士な中将に、見苦しく取り乱して欲しいとでも思っていたのか。

 佐理は自分の卑しさを恥じた。

 叔父夫婦は佐理が来た時と同じように、清友から京の話を聞きたがった。

 とは言っても、大方の事はすでに佐理が話して聞かせていて、佐理が京を離れてからあった大事と言えば、大内裏で行われた新嘗祭くらいだった。

 それも去年までの様子はすでに佐理が話していたが、神宮で行われた新嘗祭の記憶が新しいこともあって、話題はもっぱら両者の祭典の話になった。

 そこで五節舞の話になる。

「京の舞姫たちはさぞかし煌(きら)びやかなんだろうなぁ」

 叔父が遠い目をしながら、酒の入った盃を傾ける。

 酒は白く濁った自家製のどぶろくだ。高価な酒は特別な日だけで、普段はこうして米を麹で発酵させただけのどぶろくを飲む。

「いつもはそうなんですけどねぇ」

 清友も叔父につられるように盃を手にするが、その顔に苦笑いが浮かんでいる。

「今年はいつもと違ったのか?」

 佐理が訊くと、清友は佐理にも「まあ、一杯飲めよ」と盃に酒を注いだ。

「今年は四人の舞姫の中に近衛中将様が混じって舞い、大盛り上がりだったんです」

 清友は“近衛中将”という名前を口にした時、チラリと佐理の方を見た。

「普通は女ばかりの舞いに男が混じって舞ったのか。それは前代未聞だな」

 叔父は驚きながらも、さすがは京だな、と感心している。

「まるで源氏物語の世界が舞台上に再現されたかのように見事でしたよ。といっても俺は雑用で忙しくて見られなかったので、人から聞いた話ですけど」

 叔父は「見事と言えば」と、先日の佐理の歌合戦の話を清友に話して聞かせた。

 小納言が伊勢に赴任になっていると知った清友は眉をひそめ、何やら佐理に言いたそうにしているが、佐理はそれどころではない。

 やはりあの日、中将は京にいた。

 佐理の頭はそのことでいっぱいだった。

 当たり前のことなのに、分かっていたことのはずなのに、この河原で勅使と口づけを交わしながら、佐理はどこか相手が中将のような気がしてならなかったのだ。

 だからあんなに頭が真っ白になり身体がとろけてしまった。

 中将が佐理を追って伊勢までやって来てくれたのだと、そう思いたかったのかも知れない。

 中将が本当の佐理を知るはずもないのに。

 あの勅使は中将ではなかった。それは動かし難い事実だった。

 自分は見ず知らずの男とあんな口づけを交わしてしまったのか。

 中将も、中将への自分の気持ちをも裏切ってしまったような気分になり落ち込んだ。

 それではあの勅使はいったい誰だったのだ? 

 中将と同じ伽羅の香り、同じ瞳、佐理を抱く同じ腕を持つあの男は、いったい誰だというのだ。

 佐理の記憶に観月の宴の夜のことが蘇る。

 佐理を助けてくれたあの長い黒い影。伽羅が焚きしめられた麒麟の羽織。

 あの影と勅使は同一人物ではないのか?

「佐理、ちょっと散歩に出ないか?」

 突然そう佐理を誘ってきた清友の、顔は酒にほろ酔い上気させていたが、その目はしっかりと佐理を見据えていた。

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