御簾越しの君

八月 美咲

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   その日の夜、佐理は叔父に連れられて伊勢に住む貴族たちの宴に出席した。

 道すがら叔父がため息ばかりつくので、どうしたのかと尋ねると、少し前に京からやってきた貴族の男に何かと嫌がらせを受けているという。

「多分今夜も私の無学を大勢の人の前で笑うに違いない」

 やはり佐理と同じ下流貴族である叔父のここでの毎日は庶民とそう変わらない。朝も暗いうちから日が暮れるまで野良仕事に明け暮れる。

 貴族とは名ばかりで、芸事を嗜み(たしな)学問を深く追求する暇などない。

 檜(ひのき)の素木(しらき)を使った、京とは少し違う寝殿造の屋敷はどこか神宮の社殿を思わせた。

 すでに貴族たちは集まって来ていて、佐理の席は叔父の下座の席からさらに下った、部屋から半分はみ出したような末席に用意されていた。

 なんと宴にはあの勅使とそのお供が招待されていた。

 彼らは佐理からは遠い雛壇のような上座に座っている。勅使はここでも能面をつけたままだった。

 後から人に聞いたことだが、勅使は帝の使者である以上、勅使としている間は本人の顔を人前で晒してはいけないらしい。

 もう一つ驚いたことがあった。叔父に嫌がらせをしてる貴族というのは、なんとあの小納言だった。

 佐理は知らなかったが、小納言は観月の宴の後すぐ、上からの命で伊勢に赴任させられていたのだった。

 叔父が佐理の遠縁であると知った小納言は、左遷の鬱憤(うっぷん)をはらすかの如く、叔父に意地悪をしてきたのである。

 小納言はここでは京風をふかし、伊勢の上流貴族たちに取り入っているらしい。今日も彼らの近くにいて末席の佐理には気づかないでいるようだった。

 そうして宴も盛り上がってきた頃、酒も入った小納言は案の定、叔父にこんな意地悪をしてきた。

 勅使のお供の一人に文章(もんじょう)博士がおり、彼と歌(うた)合戦をしろというのだ。

 お題を出され、それに合った漢詩を詠みあげるという歌合戦は、幅広い漢詩の知識が必要とされる遊びだった。

「浅野殿は伊勢で一番漢詩に明るい君子でございます」

 小納言は勅使たちに向かってそう、叔父のことをうそぶいた。

 勅使は帝の代理だ。そう言われてしまっては叔父は引くに引けず、皆の前に引っ張り出された。

 壮年のいかにも賢者風の文章博士と向き合う。

「お題はぜひ勅使さまに」

 小納言は猫なで声で勅使におもねる。勅使は横にいた老年のお供にそっと耳打ちをした。

「それでは“白雪”でお願いしまする」

 背筋をスッと伸ばしたお供がお題を読み上げると、すぐに文章博士が反応した。

「已(すで)に訝(いぶか)る衾枕(きんちん)の冷やかなるを……」

 白居易の“夜雪”だった。

 朝廷で高い官位についていた白居易だったが、ある事件がきっかけで江州に左遷されてしまった。長安から遠く離れた土地での、寂びしい雪の夜を詠った詩だった。

 文章博士が最後の節を詠み終えると、皆の視線は叔父に集中する。

 沈黙が叔父のこめかみにじわりと汗を浮かばせる。小納言は狐のような目をしてことの成り行きを見ている。

「万径(ばんけい)人蹤(じんしょう)滅す」

 佐理は柳宗元の“江雪”を詠みあげた。

 優れた才能に恵まれながら、それを発揮できずに人生を送る失意や孤独を詠った、柳宗元の代表作である。

 皆の視線がいっせいに佐理に集まる中、佐理は前に進み出た。

「私は浅野忠家(ただいえ)の甥、瀬央佐理でございます。叔父はひどい頭痛持ちで、今日はことさら調子が悪いようです。代わりに私めがお相手させていただきます」

 佐理を見た小納言は目をひん剥いて驚いた。

「さ、さ、佐理、どうしてお前がここに。それに、そんな勝手なことは」

 小納言を遮ったのは文章博士だった。

「柳宗元とは素晴らしい。瀬央殿、ぜひやりましょう」

 佐理は叔父に穏やかな笑みを贈ると、叔父の代わりに文章博士と向き合って座った。

 そこから繰り広げられる歌合戦についていけたのは、勅使たちとごく一部の伊勢の貴族だけだった。

 小納言は訳が分からず、ただポカンと口を開けて、佐理と文章博士の詠み合いを傍観していた。

「こんなに素晴らしい歌合戦を見たのは久しぶりだ」

 勝敗がつかずに終わった合戦後、そう感嘆の声を漏らしたのは勅使の横に付き添っている老年のお供だった。

「瀬央殿、そなたの漢詩の知識の広さと奥深さには参りました」

 文章博士も佐理を褒め称える中、勅使だけが沈黙を保ち、その白い能面をずっと佐理の方に向けていた。

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