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佐理は中将が会いに来ない夜を恐れるようになった。
中将が他の誰かと一緒にいるのではないかと思うと、胸が押し潰されて食事も喉を通らなかった。
佐理は生まれて初めて嫉妬という感情を知った。
佐理が本当の女なら、中将に可愛く嫌味の一つも言ってのけただろう。けれど女と偽っている佐理にそんなことができるはずもなかった。
嫉妬をすればするほど、自分がどんどん醜くなっていき、その醜さをいつか中将に見透かされてしまうのではいかと怖くなった。
恋は人を美しくすると聞いたことがある。けれど偽りの恋は人を歪ませるだけだ。
独りきりで過ごす長い夜、鈍い音を立てて自分が歪んでいく音がした。
そんな夜、佐理は思った。
果たして明日の朝、自分は人の形をしているのであろうか?
「聖主(せいしゅ)朝朝(ちょうちょう) 暮暮(ぼぼ)の情」
(皇帝は朝も日暮れも、彼女を思い続ける)
長恨歌を口ずさむも、佐理はもうそれに合わせて舞うことはできなかった。
観月の宴の夜、小納言に襲われそうになった池の東に佐理は来ていた。
春は水面に白い花びらを散らす桜の木にその痕跡はあった。
あの晩、中将の射た矢が突き刺さった跡が、桜の木の表面を削っていた。
いくら中将といえどもあの視界の悪い暗い中で、万が一小納言に命中してしまったら大変なことになっていたはずだ。
一瞬のことだったのでよく見えなかったが、矢は小納言の頬を掠めていったように見えた。
あれはきっと偶然ではない。
小納言に当てず、けれど威嚇するのに十分な威力を発揮するすれすれの距離で矢を射る自信がある者の射方だ。
『そこにおるのは誰ぞ!』
あれは確かに中将の声だった。
中将がどの芸事にも圧倒的に秀でていることは知っていたが、弓の腕前もこれほどだったとは。
桜の木の根元に何かが落ちていた。
拾い上げるとそれは鷹の羽根だった。高価な青鷹のそれも一番高級な石打と呼ばれる部位の羽根だった。
これで中将は佐理を助けてくれたのだ。
佐理は拾った羽根を懐に入れると、佐理が意識を失った、あの長い影を見た付近にやって来た。
あの時は頭が朦朧としていて記憶があやふやだったが、多分この辺りだろう。
絹の羽織であられもない姿の佐理を隠してくれたあの影が誰だったのか、青鷹の羽根のように、それを知る手がかりが落ちていないかと思った。
が、佐理の思い虚しく、そこで何も見つけることはできなかった。
大内裏に戻ると、数人の近衛兵の男たちが啜り泣く少年を慰めていた。
少年は近衛小将の弟で、今年元服を迎えたばかりだった。色白で線が細く雪解け水のように透明感のある少年で、花月趣味のある男たちがこぞって文を贈っていると聞いていた。
何事が起きたのかと佐理が遠巻きに見ていると、ちょうど清涼殿への渡殿(わたどの)を一人の女房が通りかかった。
その女房が先ほど起きた事の転末を佐理に教えてくれた。
以前から近衛中将に憧れを抱いていた小将の弟は、その想いのたけを中将に告白したのだが、見事に振られてしまったというものだった。
中将は彼にこうはっきり言ったという。
人にはどうしても受け入れ難いものがあって自分にとって花月がその一つであり、男同士で愛を囁いたり、触れ合ったりすることを想像しただけで気分が悪くなると。
小将の弟に期待を持たせてはいけないと思ったのか、いつもはにこやかな中将が、それはとても冷たい態度だったという。極めつけは最後の捨て台詞で、
『天女のように美しい男と、目を背けたくなるような醜女のどちらかと契れと言われたら、自分は迷わず醜女と契る』
中将の花月嫌いは皆に知られていることだったが、本人に向かってここまで中将が激しく拒絶したのは初めてだった。
壊れてしまったように呆然と立ち尽くす小将の弟に、なおも追い討ちをかけるごとく言葉を続けようとする中将を止めたのは、蔵人頭だったという。
中将の厳しすぎる言葉を非難した蔵人頭と中将は口論となり、どうしたらいいものかと周りの者たちは慌てふためいたが、二人をなだめることができる人物などそうはいない。
そこへ現れたのが帝だった。
「さすがは帝ねぇ、鶴の一声であの中将と蔵人頭が黙ったわ」
女房はほおぅと、全身で桃色のため息をついた。
佐理は女房に礼を言うとその場を後にした。
さっきまでいた近衛兵たちと小将の弟はもういなくなっていた。
頭の中が真っ白になってしまって何も考えられなかった。
分かってはいたことだったが、心のどこかで一縷の望みを夢見ていた自分がいて、今、それがこっぱ微塵に砕け散っていた。
「もうダメだ」
独り言が口から漏れた。安い酒に酔ったように足がもつれた。
中将に佐理が男だとバレた時のことを今まで数えきれないほど想像した。
殿上人の中将を佐理が騙し続けた罪は重い。中将が佐理に死んで償えと言えば、佐理はそれに従おうと思った。
それで中将が佐理を許してくれるのなら、それで中将が佐理を嫌わないでいてくれるのなら。
けれど佐理は知っていた。中将がそんなことを言わないことを。
中将はきっと佐理を許してくれるだろう、佐理を嫌わないでいてくれるだろう。だが、これだけは言える。
男を愛することのない中将が佐理を愛することは決してない。
中将は佐理に怒りの言葉もぶつけなければ、今までのように優しい言葉をかけてくれることもないだろう。
中将はただ、近衛小将の弟に向けたような冷たい目と言葉を佐理に放つだけだ。
その時の中将の顔を想像して、身体が凍った。
中将が他の誰かと一緒にいるのではないかと思うと、胸が押し潰されて食事も喉を通らなかった。
佐理は生まれて初めて嫉妬という感情を知った。
佐理が本当の女なら、中将に可愛く嫌味の一つも言ってのけただろう。けれど女と偽っている佐理にそんなことができるはずもなかった。
嫉妬をすればするほど、自分がどんどん醜くなっていき、その醜さをいつか中将に見透かされてしまうのではいかと怖くなった。
恋は人を美しくすると聞いたことがある。けれど偽りの恋は人を歪ませるだけだ。
独りきりで過ごす長い夜、鈍い音を立てて自分が歪んでいく音がした。
そんな夜、佐理は思った。
果たして明日の朝、自分は人の形をしているのであろうか?
「聖主(せいしゅ)朝朝(ちょうちょう) 暮暮(ぼぼ)の情」
(皇帝は朝も日暮れも、彼女を思い続ける)
長恨歌を口ずさむも、佐理はもうそれに合わせて舞うことはできなかった。
観月の宴の夜、小納言に襲われそうになった池の東に佐理は来ていた。
春は水面に白い花びらを散らす桜の木にその痕跡はあった。
あの晩、中将の射た矢が突き刺さった跡が、桜の木の表面を削っていた。
いくら中将といえどもあの視界の悪い暗い中で、万が一小納言に命中してしまったら大変なことになっていたはずだ。
一瞬のことだったのでよく見えなかったが、矢は小納言の頬を掠めていったように見えた。
あれはきっと偶然ではない。
小納言に当てず、けれど威嚇するのに十分な威力を発揮するすれすれの距離で矢を射る自信がある者の射方だ。
『そこにおるのは誰ぞ!』
あれは確かに中将の声だった。
中将がどの芸事にも圧倒的に秀でていることは知っていたが、弓の腕前もこれほどだったとは。
桜の木の根元に何かが落ちていた。
拾い上げるとそれは鷹の羽根だった。高価な青鷹のそれも一番高級な石打と呼ばれる部位の羽根だった。
これで中将は佐理を助けてくれたのだ。
佐理は拾った羽根を懐に入れると、佐理が意識を失った、あの長い影を見た付近にやって来た。
あの時は頭が朦朧としていて記憶があやふやだったが、多分この辺りだろう。
絹の羽織であられもない姿の佐理を隠してくれたあの影が誰だったのか、青鷹の羽根のように、それを知る手がかりが落ちていないかと思った。
が、佐理の思い虚しく、そこで何も見つけることはできなかった。
大内裏に戻ると、数人の近衛兵の男たちが啜り泣く少年を慰めていた。
少年は近衛小将の弟で、今年元服を迎えたばかりだった。色白で線が細く雪解け水のように透明感のある少年で、花月趣味のある男たちがこぞって文を贈っていると聞いていた。
何事が起きたのかと佐理が遠巻きに見ていると、ちょうど清涼殿への渡殿(わたどの)を一人の女房が通りかかった。
その女房が先ほど起きた事の転末を佐理に教えてくれた。
以前から近衛中将に憧れを抱いていた小将の弟は、その想いのたけを中将に告白したのだが、見事に振られてしまったというものだった。
中将は彼にこうはっきり言ったという。
人にはどうしても受け入れ難いものがあって自分にとって花月がその一つであり、男同士で愛を囁いたり、触れ合ったりすることを想像しただけで気分が悪くなると。
小将の弟に期待を持たせてはいけないと思ったのか、いつもはにこやかな中将が、それはとても冷たい態度だったという。極めつけは最後の捨て台詞で、
『天女のように美しい男と、目を背けたくなるような醜女のどちらかと契れと言われたら、自分は迷わず醜女と契る』
中将の花月嫌いは皆に知られていることだったが、本人に向かってここまで中将が激しく拒絶したのは初めてだった。
壊れてしまったように呆然と立ち尽くす小将の弟に、なおも追い討ちをかけるごとく言葉を続けようとする中将を止めたのは、蔵人頭だったという。
中将の厳しすぎる言葉を非難した蔵人頭と中将は口論となり、どうしたらいいものかと周りの者たちは慌てふためいたが、二人をなだめることができる人物などそうはいない。
そこへ現れたのが帝だった。
「さすがは帝ねぇ、鶴の一声であの中将と蔵人頭が黙ったわ」
女房はほおぅと、全身で桃色のため息をついた。
佐理は女房に礼を言うとその場を後にした。
さっきまでいた近衛兵たちと小将の弟はもういなくなっていた。
頭の中が真っ白になってしまって何も考えられなかった。
分かってはいたことだったが、心のどこかで一縷の望みを夢見ていた自分がいて、今、それがこっぱ微塵に砕け散っていた。
「もうダメだ」
独り言が口から漏れた。安い酒に酔ったように足がもつれた。
中将に佐理が男だとバレた時のことを今まで数えきれないほど想像した。
殿上人の中将を佐理が騙し続けた罪は重い。中将が佐理に死んで償えと言えば、佐理はそれに従おうと思った。
それで中将が佐理を許してくれるのなら、それで中将が佐理を嫌わないでいてくれるのなら。
けれど佐理は知っていた。中将がそんなことを言わないことを。
中将はきっと佐理を許してくれるだろう、佐理を嫌わないでいてくれるだろう。だが、これだけは言える。
男を愛することのない中将が佐理を愛することは決してない。
中将は佐理に怒りの言葉もぶつけなければ、今までのように優しい言葉をかけてくれることもないだろう。
中将はただ、近衛小将の弟に向けたような冷たい目と言葉を佐理に放つだけだ。
その時の中将の顔を想像して、身体が凍った。
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