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結局、煌は父からスマホを取り返せないままだった。
ゴールデンウィーク中、きっと玲衣からたくさんメッセージが来ているに違いない。全く返事をしない煌に玲衣は怒っているだろうか。
父にスマホを取られてしまったと素直に玲衣に言うべきかどうか、煌は迷っていた。そんな格好悪いこと、なるべくなら玲衣に知られたくなかった。
けれど、玲衣からもらったスマホだ。できるなら本当のことは話さないで、その間に父からスマホを取り返すのが理想だった。
けれど、他にいい言い訳が見つからず、玲衣に顔を合わせづらいのもあって、煌は旧用務員室には行かなかった。また、玲衣が煌のクラスに来ることもなかった。
やっぱり玲衣は怒っているのだろうか。
気になったが、かといって煌が玲衣のクラスに様子を見に行くようなこともしなかった。
そうして、ずるずると日にちだけが過ぎていった。時間が経てば経つほど、玲衣が怒っているように思えて、ますます会いづらくなっていった。
今日も煌は来なかった。
煌に合わせる顔がないと言いながら、玲衣は休みが明けてから毎日のように旧用務員室に来ていた。
ここはお湯が出るから、他のところは水が冷たいから。
今はもう寒くもないのに、玲衣はそう自分に言い訳をした。けれど、分かっていた。自分が煌を待っていることを。
あんな写真を見た煌が、前と同じように自分に接してくれるはずはないのに。でも、心のどこかで、もしかしたらと思っていたのだ。
もしかしたら。その言葉は眩しく、そして危険でもあった。
もしかしたら。それは期待だった。期待は失望と表裏一体だった。
一日、そしてまた一日、ひとりきりの旧用務員室で期待は段々と萎み、失望は膨らんでいった。
だから言ったこっちゃない、何も期待しては、何も求めてはいけないのだ。そうすればこんな気持ちにはならないのに、こんな……。
「煌……」
玲衣は抱えた膝に顔をうずめた。
昼休みが終わって教室に戻ると、「月城君」と隣の席の人に声をかけられた。
三年になって初めて同じクラスになった男子だった。もうずっと長い間、玲衣はクラスで透明人間か、名前を呼ばれてもバイキン君だったのでちょっと驚いた。
「休み時間、いつもどこに行ってんの?」
玲衣が答えに窮していると、次の授業が自習なこともあって彼は身を乗り出してきた。
「君がいつも手を洗ってるのって、強迫性障害だろ」
彼も昔同じ病気を持っていて、前から玲衣と話してみたかったのだと告白してきた。また、自分もそれが原因でいじめにあっていたということも。
「無理しない程度に教室にはいた方がいいよ、それじゃないとどんどん居づらくなってくるよ、僕もいるしさ」
玲衣が休み時間の度にどこかに行くのは、別に教室にいたくないからではない。
玲衣はただ、煌に会いたいだけだ。
自習の間、彼といろんな話をした。彼と話しながら煌のことばかり考えた。
煌とはもうこんな風に話せないのだろうか。
煌はもう自分のことなど思い出してくれないのだろうか。
煌は……、煌は……、煌は……。
新しく友達ができて嬉しいはずなのに、玲衣は煌が恋しくてならなかった。
玲衣と会わないまま時間だけが過ぎていった。
たまりかねて、一度だけ玲衣のクラスをこっそり覗きに行ったことがあった。自分から玲衣を避けておきながら、玲衣のことが気になって仕方がなかった。
メッセージに返信しなかったという理由だけで、玲衣がこんなに怒るだろうか、という疑問も抱き始めていた。
少なくとも、自分と一緒の時の玲衣は楽しそうだったし、親友だと言うと、とても喜んでいた。
玲衣は身体があまり丈夫じゃないと言っていた。もしかしたら学校に来てないんじゃないだろうかと思ったのだ。
果たして、玲衣はちゃんと登校していて、隣の席の生徒と楽しげに話をしていた。
「なんだ……、そういうことか」
教室に戻る足取りが重かった。
玲衣には他に友達ができた、それだけだ。
なのに、ひどく裏切られた気分だった。そしてすぐにこんな子どもっぽい感情を抱く自分に幻滅し、だから玲衣は離れていったのだと落ち込んだ。
分かっていたことじゃないか。
誰も自分なんか求めてはくれないのだ。
だからもう、誰も求めるな。そうすればこんな気持ちになることはない。
こんな……切なくて苦しい、失恋したみたいな気持ちに。
そうして新緑の五月が青い風と共に去ったあと、日本全土を覆った雨雲がぐずぐずと長い雨を降らせ、いい加減うんざりしてきた頃、やっと青空が憂鬱な雨雲を押し退けてくれた。
あと一週間で夏休みというその日、父は安っぽい香水の匂いをぷんぷんさせて帰ってきた。
おおかた近所のスナックか、街のキャバクラにでも行ったのだろう。ほろ酔いの父は上機嫌で、そしてちょっと不機嫌でもあった。
「あいつらこっちをその気にさせといてよぉ、いざとなったら金だとよ。それまで散々金使わせといて、まだ金かよ。この際なんでもいいや、おい煌、おまえの女友達紹介しろや。ガキだがありゃたいした美人じゃねぇか。おまえが悪だとは知ってたけどよぉ、ずいぶんなアバズレと知り合いなんだな。さすがの俺もちょっと驚いたわ」
コイツなに言ってんだ?
最初は聞く耳を持たなかった煌だったが、次第に父が言うアバズレというのが、どうやら玲衣のことだと分かってきた。
玲衣は男でアバズレなんかじゃないと言うと、最初は間抜け顔で驚いていた父だったが、やがていやらしい表情を顔いっぱいに浮かべるとこう言った。
「美少年のケツも悪くねえな。おい、今度そいつ連れてこいや」
怒りが発火して頭が真っ白になった。
まだ何もされてないのに、玲衣が陵辱されたような気分になった。
父の言うことは洒落にならなかった。
バイキン君と馬鹿にされながら必死に身体を洗う玲衣が、暗がりで玲衣の身体をまさぐっていた男の横顔が、『言いたく……ない』泣きそうな顔で顔をうずめた玲衣が、頭の中で炸裂した。
そしてそれは、長年、煌の中に溜まっている父への憎しみとも言える不満に着火した。炎はみるみるうちに怒りの海を広がっていく。
父、あの男、生徒に無関心な学校の教師、高圧的な補導員、役にたたない児相の職員、そして自分勝手な母。
おまえたち大人なんかいない方がマシだ! おまえらのせいで、子どもの自分らがどんな思いをしているのか分かっているのか!
手が勝手に近くにあった一升瓶に伸びていた。
開けたばかりで、中身がまだたっぷりと入っているそれは、ずしりと重かった。
煌は父の頭めがけて一升瓶を振り下ろした。
ガラスが割れる音とゴツという鈍い音がした。辺り一面にガラスと酒が飛び散る。
父は煌の足元にうつ伏せに倒れ込むと、そのまま動かなくなった。
「おい……」
足で父の背中をゆする。
まさか、死んだ?
動揺はしなかった。ついにやってしまったと思っただけだった。
いつかこんなことになるんじゃないかと思っていた。
父のズボンの後ろポケットにスマホがあった。玲衣からもらったスマホだった。煌は父のポケットから抜き取ると、胸の前で握りしめた。
やっと戻ってきた。これで玲衣に連絡できる。
煌は床に倒れている父をまたいで部屋の外に出た。
団地の階段を降りながらスマホを起動させる。玲衣とのトーク画面を開く時、緊張した。
その瞬間、ドクン、と身体中の細胞が鼓動した。
ドッドッドッドッドッ。
心臓のポンプが壊れたみたいに血液を外に押し出す。
玲衣の美しい顔に押し当てられているのは、明らかに男の股間だった。
苦しげに寄せられた眉根、開けた口の端から垂れる唾液、鼻先にはごわついた陰毛が映っていた。相手の男の顔は映ってないが、あの男だと直感した。
玲衣とあの男がそういう関係だということは、なんとなく分かっていた。けど、はっきりと二人の行為を想像したことはなかった。
男と女のソレは知っているが、どうやって男同士でやるのか分からなかったのもあるし、何よりも玲衣のそんなところを想像したくなかった。
いや、本当は気になって仕方なかったが、他の誰かが玲衣の身体に触れていると思うと、不快でどうしようもなくなった。
だから少しでもその行為を頭に思い描きそうになると、いつも隅に追いやって、あやふやにさせていたのだった。
目の前の現実は、曖昧な想像の一千倍の強烈さをもって煌に襲いかかってきた。
いろんな感情が同時に爆発した。その中でも際立った感情があった。それは、
玲衣を助けないと!
というものだった。
玲衣に電話をかけながら走った。
まともな思考回路はとっくに父を殴った時にショートしていた。
呼び出し音が煌の耳元で鳴り続けた。
ゴールデンウィーク中、きっと玲衣からたくさんメッセージが来ているに違いない。全く返事をしない煌に玲衣は怒っているだろうか。
父にスマホを取られてしまったと素直に玲衣に言うべきかどうか、煌は迷っていた。そんな格好悪いこと、なるべくなら玲衣に知られたくなかった。
けれど、玲衣からもらったスマホだ。できるなら本当のことは話さないで、その間に父からスマホを取り返すのが理想だった。
けれど、他にいい言い訳が見つからず、玲衣に顔を合わせづらいのもあって、煌は旧用務員室には行かなかった。また、玲衣が煌のクラスに来ることもなかった。
やっぱり玲衣は怒っているのだろうか。
気になったが、かといって煌が玲衣のクラスに様子を見に行くようなこともしなかった。
そうして、ずるずると日にちだけが過ぎていった。時間が経てば経つほど、玲衣が怒っているように思えて、ますます会いづらくなっていった。
今日も煌は来なかった。
煌に合わせる顔がないと言いながら、玲衣は休みが明けてから毎日のように旧用務員室に来ていた。
ここはお湯が出るから、他のところは水が冷たいから。
今はもう寒くもないのに、玲衣はそう自分に言い訳をした。けれど、分かっていた。自分が煌を待っていることを。
あんな写真を見た煌が、前と同じように自分に接してくれるはずはないのに。でも、心のどこかで、もしかしたらと思っていたのだ。
もしかしたら。その言葉は眩しく、そして危険でもあった。
もしかしたら。それは期待だった。期待は失望と表裏一体だった。
一日、そしてまた一日、ひとりきりの旧用務員室で期待は段々と萎み、失望は膨らんでいった。
だから言ったこっちゃない、何も期待しては、何も求めてはいけないのだ。そうすればこんな気持ちにはならないのに、こんな……。
「煌……」
玲衣は抱えた膝に顔をうずめた。
昼休みが終わって教室に戻ると、「月城君」と隣の席の人に声をかけられた。
三年になって初めて同じクラスになった男子だった。もうずっと長い間、玲衣はクラスで透明人間か、名前を呼ばれてもバイキン君だったのでちょっと驚いた。
「休み時間、いつもどこに行ってんの?」
玲衣が答えに窮していると、次の授業が自習なこともあって彼は身を乗り出してきた。
「君がいつも手を洗ってるのって、強迫性障害だろ」
彼も昔同じ病気を持っていて、前から玲衣と話してみたかったのだと告白してきた。また、自分もそれが原因でいじめにあっていたということも。
「無理しない程度に教室にはいた方がいいよ、それじゃないとどんどん居づらくなってくるよ、僕もいるしさ」
玲衣が休み時間の度にどこかに行くのは、別に教室にいたくないからではない。
玲衣はただ、煌に会いたいだけだ。
自習の間、彼といろんな話をした。彼と話しながら煌のことばかり考えた。
煌とはもうこんな風に話せないのだろうか。
煌はもう自分のことなど思い出してくれないのだろうか。
煌は……、煌は……、煌は……。
新しく友達ができて嬉しいはずなのに、玲衣は煌が恋しくてならなかった。
玲衣と会わないまま時間だけが過ぎていった。
たまりかねて、一度だけ玲衣のクラスをこっそり覗きに行ったことがあった。自分から玲衣を避けておきながら、玲衣のことが気になって仕方がなかった。
メッセージに返信しなかったという理由だけで、玲衣がこんなに怒るだろうか、という疑問も抱き始めていた。
少なくとも、自分と一緒の時の玲衣は楽しそうだったし、親友だと言うと、とても喜んでいた。
玲衣は身体があまり丈夫じゃないと言っていた。もしかしたら学校に来てないんじゃないだろうかと思ったのだ。
果たして、玲衣はちゃんと登校していて、隣の席の生徒と楽しげに話をしていた。
「なんだ……、そういうことか」
教室に戻る足取りが重かった。
玲衣には他に友達ができた、それだけだ。
なのに、ひどく裏切られた気分だった。そしてすぐにこんな子どもっぽい感情を抱く自分に幻滅し、だから玲衣は離れていったのだと落ち込んだ。
分かっていたことじゃないか。
誰も自分なんか求めてはくれないのだ。
だからもう、誰も求めるな。そうすればこんな気持ちになることはない。
こんな……切なくて苦しい、失恋したみたいな気持ちに。
そうして新緑の五月が青い風と共に去ったあと、日本全土を覆った雨雲がぐずぐずと長い雨を降らせ、いい加減うんざりしてきた頃、やっと青空が憂鬱な雨雲を押し退けてくれた。
あと一週間で夏休みというその日、父は安っぽい香水の匂いをぷんぷんさせて帰ってきた。
おおかた近所のスナックか、街のキャバクラにでも行ったのだろう。ほろ酔いの父は上機嫌で、そしてちょっと不機嫌でもあった。
「あいつらこっちをその気にさせといてよぉ、いざとなったら金だとよ。それまで散々金使わせといて、まだ金かよ。この際なんでもいいや、おい煌、おまえの女友達紹介しろや。ガキだがありゃたいした美人じゃねぇか。おまえが悪だとは知ってたけどよぉ、ずいぶんなアバズレと知り合いなんだな。さすがの俺もちょっと驚いたわ」
コイツなに言ってんだ?
最初は聞く耳を持たなかった煌だったが、次第に父が言うアバズレというのが、どうやら玲衣のことだと分かってきた。
玲衣は男でアバズレなんかじゃないと言うと、最初は間抜け顔で驚いていた父だったが、やがていやらしい表情を顔いっぱいに浮かべるとこう言った。
「美少年のケツも悪くねえな。おい、今度そいつ連れてこいや」
怒りが発火して頭が真っ白になった。
まだ何もされてないのに、玲衣が陵辱されたような気分になった。
父の言うことは洒落にならなかった。
バイキン君と馬鹿にされながら必死に身体を洗う玲衣が、暗がりで玲衣の身体をまさぐっていた男の横顔が、『言いたく……ない』泣きそうな顔で顔をうずめた玲衣が、頭の中で炸裂した。
そしてそれは、長年、煌の中に溜まっている父への憎しみとも言える不満に着火した。炎はみるみるうちに怒りの海を広がっていく。
父、あの男、生徒に無関心な学校の教師、高圧的な補導員、役にたたない児相の職員、そして自分勝手な母。
おまえたち大人なんかいない方がマシだ! おまえらのせいで、子どもの自分らがどんな思いをしているのか分かっているのか!
手が勝手に近くにあった一升瓶に伸びていた。
開けたばかりで、中身がまだたっぷりと入っているそれは、ずしりと重かった。
煌は父の頭めがけて一升瓶を振り下ろした。
ガラスが割れる音とゴツという鈍い音がした。辺り一面にガラスと酒が飛び散る。
父は煌の足元にうつ伏せに倒れ込むと、そのまま動かなくなった。
「おい……」
足で父の背中をゆする。
まさか、死んだ?
動揺はしなかった。ついにやってしまったと思っただけだった。
いつかこんなことになるんじゃないかと思っていた。
父のズボンの後ろポケットにスマホがあった。玲衣からもらったスマホだった。煌は父のポケットから抜き取ると、胸の前で握りしめた。
やっと戻ってきた。これで玲衣に連絡できる。
煌は床に倒れている父をまたいで部屋の外に出た。
団地の階段を降りながらスマホを起動させる。玲衣とのトーク画面を開く時、緊張した。
その瞬間、ドクン、と身体中の細胞が鼓動した。
ドッドッドッドッドッ。
心臓のポンプが壊れたみたいに血液を外に押し出す。
玲衣の美しい顔に押し当てられているのは、明らかに男の股間だった。
苦しげに寄せられた眉根、開けた口の端から垂れる唾液、鼻先にはごわついた陰毛が映っていた。相手の男の顔は映ってないが、あの男だと直感した。
玲衣とあの男がそういう関係だということは、なんとなく分かっていた。けど、はっきりと二人の行為を想像したことはなかった。
男と女のソレは知っているが、どうやって男同士でやるのか分からなかったのもあるし、何よりも玲衣のそんなところを想像したくなかった。
いや、本当は気になって仕方なかったが、他の誰かが玲衣の身体に触れていると思うと、不快でどうしようもなくなった。
だから少しでもその行為を頭に思い描きそうになると、いつも隅に追いやって、あやふやにさせていたのだった。
目の前の現実は、曖昧な想像の一千倍の強烈さをもって煌に襲いかかってきた。
いろんな感情が同時に爆発した。その中でも際立った感情があった。それは、
玲衣を助けないと!
というものだった。
玲衣に電話をかけながら走った。
まともな思考回路はとっくに父を殴った時にショートしていた。
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