君との夏

八月 美咲

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 まだ夏の香りが残る夜、天上の白い月までもがこうさげすんでいるように見えた。

 さっき殴られた頬は熱をもち、口の中は錆びた鉄の味がした。酒臭い繁華街にはたくさんの大人がうごめいているのに、その誰ひとりとして煌に注意を払う者はいなかった。

 ときどき目が合ったとしても、大抵が慌てて目を逸らすか、汚いものを見るかのような視線を投げてくるかのどちらかだ。

 そのどちらでもない目が、人混みをぬって煌に絡まりついてくるのが分かった。十四歳の煌は夜の大人の街では浮いた存在だった。そうでなくても煌は平均より小さめだ。

 煌は足早にその場を立ち去り、細い路地裏に身を滑り込ませた。

 くすんだ色のコートを着た補導員が、用心深い目で辺りを窺いながら通りすぎていく。煌は路地裏の闇に同化するように息を潜め、補導員の背中が人混みに消えていくのを見守った。

「やめ……て」

 背後でか細い声がした。振り向くと路地裏の行き止まりで抱き合う二つの黒い影が見えた。

 酒の入ったカップルがいちゃついているのだろう。煌は通りに出ようとしたが、再び補導員の姿を先に見つけ、路地裏に身を戻した。

「や……だっ……、お願い……、やっ」

 その声は本気で嫌がっているように聞こえた。他人をかまっている場合ではないが、このまま見過ごすのもいい気分ではない。

「なぁ」

 煌が声をかけると、重なった二つの影は初めて煌に気づいたようにこちらを向いた。

 薄暗くても男の目が欲情して赤く充血しているのが分かった。そして女の方は……、

 まだ少女だった。

 たぶん煌とそう歳は変わらない、そして少女は息を呑むほど美しかった。

 男は舌打ちすると乱暴に少女の手を掴んだ。

「行くぞ」

 少女が男に引きずられる。

 さすがにこれはヤバいだろ。

「ちょっとあんた」

 その時、煌の後ろで声がした。

「君、そこで何をしてるいんだね」

 いつの間にか補導員が路地裏の入り口に立っていた。

 気づくと煌は少女の手を取って駆け出していた。補導員を押し退け、追ってくる大人たちの声を振り払い、煌は懸命に走った。

ネオンで着飾った夜を、二人は駆け抜ける。キラキラ、キラキラ、賑やかな明かりが弾けては散らばり、後方へと流れていく。

 繁華街を抜けた先にある公衆トイレとベンチしかない公園で、煌は足を止めた。

「は……な……し……て」

 後ろで少女が苦しそうに息をつきながら訴えてくる。

「手……、はな……して」

 少女の手を握り潰す勢いで強く掴んでしまっていた煌は、慌てて手を離した。

 トイレ横にある外灯の白い明かりに、少女の顔が照らされる。

 眉根を寄せた苦しげな表情さえも美しかった。伏せられた長いまつ毛に彫刻のような鼻梁、薄紅色の柔らかそうな唇から荒い息が漏れている様はどこかしどけなく、煌の心をざわつかせた。

 明かりに集まってきた羽虫たちが照明器具にぶつかり小さな音を立てている。

 少女は煌を一瞥することもなく、そのまま何も言わず公園を出て行った。煌もまた、黙って少女を見送った。

 何か事情があるのはお互いさまだった。大人たちのように中途半端に世話を焼こうとするのは余計なお節介だと、煌は自身の経験から知っていた。

 思わず少女の手を引っ張って来てしまったのは、煌がそうしようと思ったからではない。身体が勝手に動いてしまっただけだ。

 少女のガラス玉のような大きな瞳は、全てを諦めているように曇っていた。

 自分と同じ目だと思った。世界のどことも繋がっていない、失望や嘆きはとうにやり尽くした、虚ろな目だった。

 だから今夜、二人は交わったようで交わっていない。きっともう二度と会うこともなく、今夜のことはすぐに記憶の塵となって消えるだろう。




 明け方家に帰ると、台所で酔い潰れた父が寝ていた。

 煌を殴った手には一升瓶が握られている。スーパーで一番安い日本酒だ。

 ときおり止まる鼾(いびき)は危なっかしく、無呼吸なんちゃらで死んでしまうのではと思う時もある。

 父が死んだらスッキリするだろうか。それとも少しは悲しいと思うだろうか。たった一人の肉親だ。こんな父でもいなくなると、煌は天涯孤独の身になってしまう。

 グラスに水道水を注ぐと床に座った。だらしない父の寝顔を眺めながら喉を鳴らして水を飲む。

 でもだからどうだって言うのだ。父がいようがいまいが自分は独りだ。

 誰も求めず、誰からも求められることはない。

 そうやって生きてきた。それはこれから先もそれは変わらない。

 煌は床に転がった通学鞄を拾い上げると、よれた制服に袖を通す。

 父が起きる前に学校に行くのはいつものことだった。学校は煌にとって最高の避難場所だった。

 煌の通う地元の中学は歩いて二十分ほどのところにある。

 朝靄の中、閉ざされた正門をよじ登り鍵の壊れたドアから校内に忍び込むと、今は使われていない旧用務員室に向かう。

 六畳ほどの空間にはキャスターの壊れたパーティションや、片目がないままのだるまが埃を被っていた。

 他にもみなから忘れ去られたような雑多な物で溢れるこの部屋に、近づく者はほとんどいない。

 理由は『自殺した生徒の幽霊が出る』という噂があるからだった。

 煌は幽霊の存在を信じてないわけではないが、幽霊が出たところで怖くはないし、だいたい学校のあるある怪談話は全部作り話だ。

 しかし、その噂は煌にとっては都合よく、おかげで旧用務員室は学校にいる間の煌の城になった。

 座面の破けた長椅子に寝転がると、煌は目を閉じた。



 煌の母は去年、煌が中学に入学するとすぐに家を出て行った。

「もう中学生なんだから大丈夫よね」

 大丈夫なことはたくさんあるが、まだ中学生なんだから、大丈夫じゃないこともたくさんあるだろ、そう思ったことだけを、妙にはっきりと覚えている。

 母親らしくない自由で気まぐれな人だった。

 父に煌が殴られていても庇おうともせず、自分の化粧のノリを心配するような人だった。

 母は母ではなくひとりの女だった。その女が煌の母親であったことは一度もない。

 母がいなくなってから父の暴力はひどくなった。

 もしかしたら自分は父の子ではないのかも知れない。あの母だったらあり得る。

 家を出て行ったのも別の新しい男ができたからだった。

 かといって、まるで何気ない日常の動作の一つのように暴力を振るう父に同情の余地はない。

 何度か家出をしたこともある。

 家でも外でも大人たちは煌に無関心で冷たかった。そうして、中途半端にお節介な大人によって家に連れ戻される。

 その繰り返しだ。

 誰も本当の意味で煌を助けてくれる人はいなかった。失望して絶望して残ったのは、

 誰も求めず、誰からも求められることはない。

 という生き方だった。


 
 外で正門が開く音がした。

 煌は薄目を開けて、窓から差し込む柔らかい光を確認すると再び瞼を下ろした。今日のように殴られて顔が腫れている日は、授業は受けずに一日をここで過ごす。

 担任の教師にもクラスメイトたちにも、この顔を見られるのは嫌だった。

 同じ歳で同じ制服に身を包んでいても、クラスメイトたちと煌の間には深い溝があった。

 クラスメイトたちはみな、いわゆる普通の家の、普通の子どもたちだった。

 普通の子どもは子どもらしい好奇心に満ちた輝く目をしていた。

 煌は真っ白な羊の群れに紛れ込んだ一匹の野良犬だった。

 どこからか水音がしてきた。
 
 それに刺激されたのか、尿意を催した煌は外に出た。

 水音は近くの男子トイレから聞こえていた。

 正門は開いたが、こんな早朝に登校する生徒は少ない。

 中に入ると、手洗い場で一人の生徒が顔と首をしきりに洗っている。

 ふいに起こした顔が正面の鏡に映り、そこで煌と目が合った。

 昨夜の少女だった。

 その美しさに再び見惚れた。

 月夜の乱れた天使は、朝日の下では清純な天使そのものだった。窓から差し込む光に、水滴が虹色に反射している。

 美しい顔の眉間に微かに皺が寄ったの見て、煌は慌てて外に出た。

 間違って女子トイレの方に入ってしまったのか。

 しかし、確認するとやはりそこは男子トイレだった。

 間違っているのは煌ではなく少女の方だ。

 再びトイレに入ると、少女は濡れた顔を制服の袖で拭いていた。

 そこで煌は気づいた。少女が男子生徒の制服を着ていることを。

 最近は女生徒がスカートかスラックスか選べる学校が増えてきているようだが、この中学では従来通り男子はスラックス、女子はスカートだ。

「……何?」

目をを釘付けにされている煌に、彼は怪訝な顔をして尋ねてきた。

「昨日……」

 それだけ言って煌は黙った。

 彼は何も覚えていない、いや気づいていないのだ。

「そこ……どいて……くんない」

「え……?」

 彼は出入り口を指差した。

 煌は辺りを見回し戸惑った。

 確かに自分は出入り口に突っ立っているが、その横を抜けて出るスペースは十分にある。

 不可解に思いながらも身体を横にひねると、彼は煌の様子を窺うようにそろりと足を踏み出した。

 そうして煌の横をすり抜けると、脱兎のごとく廊下を駆けてーーいや逃げて行った。

「なんだよ、アレ……」

 煌は用をすませ、旧用務員室に戻ると再び長椅子に横になった。

 登校してきた生徒たちのざわめきが次第に外に広がってくる。

 いつもならそれをB G Mにもう一眠りするのに、今日はちっとも眠くならなかった。

 彼のことが頭から離れなかった。

 美少女だと思ったらなんと男だった。それも同じ中学だったとは。

 彼が昨夜路地裏で抱き合っていた相手は男だった。よく見ていないが、あんなことは普通男同士でするもんじゃない。

 ひどく嫌がっていたのはそのせいか。

 妙に後味の悪い余韻がいつまでもまとわりつき、それは煌の中におりのように溜まってなくならなかった。
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